序章 予兆
山はあかあかと紅葉の色を深くして、川のせせらぎも木々の実りも豊かなブロの月。人々にとっては豊穣な自然の恵みを謳歌できる季節である。
キュラスの山の尾根を二人の男が歩いている。背中にはツタのような植物で編んだ丈夫そうな籠を背負っている。浅黒く日に焼けた腕がたくましい。踵からしっかりと地面を踏み締め、確かめるようにまた一歩踏み出しペースを落とさず、一定のリズムで歩いてゆく。通いなれた道のようであった。尾根を下って少しゆくと右側の森が切れ、見渡しの良い草原に出た。
「ガラルよ少し休んでいくか」
「おぉ、そうしよう」
ガラルと呼ばれた男は草原への傾斜地に突き出た岩の上に籠をおいて腰を下ろした。
もう一人の男も後に続く。
その小高い岩の上が二人のいつもの休憩地のようであった。
心地よい風が汗でぬれた首をそよそよと冷やしてくれる。
草原は二人の眼下に広がり、その風が草を波うたせている。二人のいる尾根から東に向かって巨大な渓谷が広がっていた。
「モズロよ、少しやるか?」
そう言ってガラルはズボンのポケットから小さなパイプと細かく刻んだ何かの葉っぱを布袋の中から取り出した。器用に指先で葉っぱをまるめると、パイプの先に詰めて、首からさげた水晶石のレンズで光を集めて火をつける。少し自分でくゆらしてから、モズロと呼ばれた男に渡した。
「ふ〜っ」
一口煙を吸って、モズロは満足げにその煙を口の中で玩んで、鼻からはいた。
ガラルと比べてモズロの方が体つきがどっしりしているようであった。口ひげも貫禄をあたえているように見える。髪の毛はちぢれて額にかかっている。
それに対してガラルは筋肉質の体をしているが、やや細身だ。顔には太い皺が刻まれて、年の割にふけて見える。だが、会話を聞いているとさほど年は離れていないように思えた。
モズロがお気に入りの太いまゆ毛をもぞもぞと動かしてガラルの方に向き直った。
「それにしてもここ最近変な感じだと思わねえか?」
「変?ってのはこいつのことかい?」
ガラルが籠の方を指差した。
籠の中には、このあたりの山で採れるのであろう山菜やきのこなどがぎっしりと詰まっていた。
しかし、ガラルが示しているのはどうやらそれらのことではないらしい。
その籠の横に荒めの麻袋がぶら下げられている。それを指差しているのだ。
見ていると麻袋がゆるゆると蠢いている。風にゆられているのではない、もっと別の動きだ。
不規則に意志のあるのもの動き。どうやら中に何やら生き物が入っているらしい。それも1匹、2匹ではない。相当に沢山の生き物である。よく見ると織物の隙間からぬめりのある生き物の体が見えかくれしている。
「確かに、ポーローカエルがこんな尾根辺りまで登ってくるって話は聞いたことがないな。だいたい、ポーローカエルってのはこの下のヘムナールの谷の氷河に近い、もっと涼しい場所にいるもんさ。」
「そうだろ。だいたい、最近地震が多いしな。噂じゃバグーダの村の者が夜中にラゴーラスの海が光るのを見たとか、アルゼスの西の丘から蒸気が吹き出したとか、言ってる輩もいるらしいしな」
モズロが自分の言葉におびえるように言った。見た目の割には小心者らしい。
「まあ、人の噂なんてのはあてにならないさ。そんな奇妙な出来事があったかどうかよりも、今晩のおかずにポーローカエルのシチューときのこソテーが加わったことだけが真実なのさ」
モズロはまるで、自分を説得するかのようにガラルのその言葉にうなずいていた。
「そりゃそうだ。それにポーローカエルの美味さときたら、シチューを何杯おかわりしても飽きないしな。いやいや、これは吉兆に違いないな」
そう言ってモズロは傍らのカエルの入った麻袋を手に取った。にやついた目で袋をそっと開けて中を覗き込んだ。自然と顔がほころんでいる。だらしなく開いた口から今にもよだれがこぼれ落ちそうだ。
と、袋の中から突然1匹のカエルが顔をのぞかせた。
「あやっ!」
モズロが声を出すのと同時にそのカエルは跳び出していた。
不思議な形のカエルであった。後ろ足の付け根に太くて短い尻尾が生えていた。その尻尾と前足に茶色い毛がある。体も茶色いが体毛はなく両生類特有のぬめりとした肌がむきだしている。そのカエルが地面に跳び降りて、モズロの顔をきょとんと見つめていた。
ガラルがその有り様を見て笑っている。
「食い意地を張るからだよ。ほれ、逃げられてしまうぞ」
ガラルが言い終わらぬうちにボーローカエルは素早い動きで二人の背後の森に向かって飛び跳ねて逃げ出しはじめた。
「くそ!俺の晩メシが!」
あわててモズロがカエルの後を追いかけて森に駆け込んだ。ほんの目の前をカエルが飛び跳ねて行く。
「えや!ほいっ!くそっ!こいつ!」
勢い良くカエルめがけて手を突き出すが、その手を上手にすり抜けてカエルはどんどん森の奥へと入っていく。しばらくしてようやくカエルの勢いが弱くなり、木の根元にモズロと向き直った。その頃にはモズロも肩で息をしている。カエルも観念したかのように、じっとモズロの顔を覗き込んでいた。
「よーし、そこにじっとしておれよ」
モズロが、わっ!っと掴みかかった。カエルも最後の力をふりしぼってジャンプする。
そののびきった後足をモズロの手が捕らえた。
「おう!やっと捕まえたぞ!今晩のシチューめ!」
してやったりと満足げにモズロが笑って、そのカエルを麻袋に戻した。
戻して、ようやく我に返って周囲を見渡した。
ガラルのいる岩からカエルを追いかけてどのくらい経ったのだろう?
2〜3分?いや、4〜5分か?
そんなに遠くまでは来ていないはずである。だが、しかし、どうにも様子が違う。
ふぅっと、なにか冷たいものが背筋を通り過ぎる感じがした。
いつも見なれているはずの森の風景がなんだか違って見えるのである。
まだ、昼の日中というのに木々が生い茂って辺りは薄暗い。よく知っている森の風景が恐ろしいものに思えた。
「ガ、ラル?」
心細くて、さっきまで一緒にいた友人の名前を呼んだ。
「ガラルっ。」
今度は力強く呼ぶ。が、返事はない。
急に心細くなって、もと来た道の方に向かって走り出した。それが、本当にもと来た道なのかははっきりしない。方向感覚がなくなっていた。物心ついてからこれまで毎日のように登って来た庭のような山で、方向を見失っていた。山全体が魔物のように思える。今にも山が自分に襲いかかってきそうだ。
これまでも、山猫にあったり、天候が急変したり山では恐い思いをしたことはある。
しかし、今感じているのはそれらの恐怖とは全く別種のものであった。
不安?何かにじっと見つめられているような、落ち着きのない感覚。悪意の目だ。
「うぁぁあ!」
いつの間にか叫んでいた。
叫んでいる自分に気付いていない。顔に恐怖がはり付いていた。心の底から吐き出された声であった。
夢中で走り出していた。自分は気でも狂ったのではないか?なぜ自分が走っているのかさえモズロには考える余裕はなかった。
そして森の茂みに飛び込んだ瞬間。ふっ、と、足下から重力が消えた。
ふわっと体が宙に浮かんだ気がした。
足下に地面がなくなっていた。茂みの向こう側は小さな崖になっていたのだ。
モズロの体は勢いづいて、崖の下へと落ちて行った。
遠くで誰かが自分を呼んでいる。おぉ〜い。と小さな声が聞こえる。
頭の中に白くもやがかかっている。体がいうことをきかない。もやの向こうからまた声がする。おお〜い。
少しだけ声が近付いて来ている気がする。
(俺はここだ!)叫んでいるが、声は出ない。
「モズロっ、どこだ?」
はっきりと声が自分の名を呼んだ。
「あ、う、」
ここだ!と言ったつもりであった。しかし口からはうめきだけが洩れた。
少しだけ、頭がはっきりしてきた。
薄目を開く。薄目を開いてはじめて、自分が目をつむっていたことに気が付いた。
「モズロ!いるか?」
「あ、ぁ、ガ、ラル。ここ、だ」
とぎれとぎれに答えた。声のする方に首をひねると、崖の上になつかしい顔が見えた。
ついさっきまで一緒だった、なつかしい、顔だ。
体を起こそうとするが、背中を強く打ったのか痛みで起き上がれない。
「待ってろ、そこまで行ってやる」
ガラルが木に絡まった蔦を器用にほどいて、ロープ代わりに崖を降りて来た。
「大丈夫か?モズロ?」
モズロは仰向けのままガラルを見上げていた。
「ああ、なんとか大丈夫みたいだ」
モズロがガラルに手を引かれて、半身を起こした。
「一体どうしたんだ?カエルを追いかけて森に入ったと思ったら、急に姿が見えなくなって、叫び声が聞こえたので、ここまで来てみたらこのありさまだ。」
「俺にもよくわからんのだ。ただ、何か見つめられているような…」
「見つめられている?」
いぶかしげにガラルが問う。
それには答えずにモズロは周囲を見回して言った。
「早く森から出よう。村へ帰りたい」
そう言って立ち上がって腰に確かめるように手を当てた。そのときはじめてカエルの入った麻袋に大きな穴が開いていることに気がついた。
「どうやら、今夜はシチューにありつけそうにないな」
ほんの少しだけモズロが苦笑いした。
崖の下を回り込むようにふたりは歩きはじめた。崖の下は地層が地面に顔を出して、崖上の木の根がむき出しになている。どうやら最近の地震で山の一部が断層になって地層が現れたものらしかった。
何か違和感を覚えたのはこの断層のせいかも知れないな、と心の中でモズロは考えていた。
数日前までそこには崖などなかったのである。
そのむき出しの地面にそって二人は歩いていた。
「おい。」
ガラルが何かに気付いた。
ゆっくりと地層がむき出しになった崖の真ん中辺りを指差す。
そこには、地面から何か赤黒い杖のような物が突き出していた。
「何だと思う?」ガラルがモズロに尋ねた。
「さあ、…」
「取りに行ってみるか?」
自分達が歩いている位置から4メートルほど上の崖の斜面に突き出ている。
たしかに少しだけ崖を登れば取れそうな高さだ。
「やめておけよ。」
何か不安を感じたモズロが答えた。さっきの一件で気弱になっているのか、モズロの目には怯えの色が見て取れた。
「いいや、大丈夫さ」
そう言い終わらぬうちにガラルは崖を登りはじめた。
「危ないからやめろって!」
「手に取ったらすぐに引き返すさ。おまえはそこで待ってろ」
なれた足取りでガラルが崖を登って行く。時々足下の地面が崩れてモズロの足下まで落ちてくるが、
ガラルの歩みはしっかりしている。毎日山道で鍛え身軽な分、こういった岩場を登るのは得意らしかった。
そうこうするうちにガラルはその奇妙な杖にたどり着いた。
杖を手で握りしめた。その時、ガラルに変化がおこった。ふっ、と何かが体の中を駆け抜けた。背筋を怖気が走る。一瞬粘着質のなめくじに似た何かが体の中でうごめいたような気がした。
体が凍り付いたように動かなかった。
「おおい、どうかしたか?」
モズロの声で我に返った。
その後は何事もない。ほんの瞬間に悪夢を見たような感覚だった。
「何でもない」
モズロにそう答えると、杖を握る手に力を込めた。一気に地面から引き抜く。
ずるずると地面から杖が引き抜かれていく。
長さは60センチほどであろうか?思った以上にずっしりと重い。
ガラルが腰にぶらさげた布でその杖にこびりついた土を拭った。
するとその杖の先は左右が鋭利に鍛え上げられていた。それは杖ではなく、短剣であった。
短剣の柄の部分の泥をぬぐうと、そこには彫刻が施されていた。顔のようなもの、大きな瞳と裂けた口。その口の中から小さな牙が見て取れる。人であるのか獣であるのか、判別は出来ない。少なくともこれまで彼の人生で見たことのない生き物の彫刻が刻まれていた。
かなり古いものではないか?とガラルは感じた。おそらく長年地層の中に埋もれていたものが最近の地震で地表にむき出しになったのであろう。
しかし、それにしては彫刻も剣の刃もきれいな状態を保っていた。
「おおい。何なんだ?それは?」
「わからん」
「何でもいいから、早く帰ってこい!」
「あぁ」
ガラムの返事に力がなかった。
剣の美しさにみとれていた。みとれる、というよりは魅入られているようであった。
いや、それは「美しさ」ではなく「禍々しさ」であったかも知れない。
ガラムは彫刻の生き物の目に見つめられ、心の自由を奪われている。
無意識に剣を撫で回すような仕草をしていた。確かめるように剣の刃の切っ先を右手の指先でさわった。
「ちっ!」
ガラムの表情が歪む。指を剣先で切っていた。
つ、つーっと血が剣先を伝い落ちる。その血が剣の柄に刻まれたその魔獣の口元に達したとき、異変は起った。
どぉーん、どぉーんという小さな響きが聞こえてきた。崖の小石がころころと堕ちて行く。
「地震?!」
モズロが叫んだ瞬間、轟っと凄まじいうなりとともに地面が揺らいだ。
ごごごごっご、ごう、と激しく地面が揺さぶられる。地震だ。それも大きい。
モズロは立っていることが出来ずへたり込んでしまった。
それでもガラムを心配して声をかける。
「ガラム!そんなもの捨てて、早く逃げろ!」
そう叫んだ瞬間、ど〜ん!という音が上がり、ひときわ激しく地面がうねった。ガラムのいる崖の上が大きく崩れるのが見えた。ガラムの体が枯れ葉のように舞い上がり土の固まりに飲み込まれていく。
「ガラムっ〜!」
そう叫びながら、モズロは見た。確かに。
土に飲み込まれながら、ガラムは歓喜の表情で笑い、そして、自分の胸に短剣を深々と突き刺していったことを。
1ページ(全1ページ)