新勧進帳―西行の憂鬱― 梶 就高
第一章 西行の密命
平治二年、一一八六年八月、今の暦で九月の終わり、西行は奥州街道の境明神まで来た。奥州側の境明神社の前の関所に入る。やっと、奥州藤原氏の支配する奥州に入ったのだ。
だが、平泉までは、まだまだ長い道のりである。
関所の前で、藤原秀衡の使者が馬を用意して待っていた。
関所近くのうっそうと茂った杉林を馬で抜け、東に向かい古代の東山道に出て、古代の白河の関跡に立ち寄る。西行の所望であった。
関跡を過ぎて森を抜けると、見渡す限りの水田が広がっている。時々、道は目の前の森に吸いこまれ、また、眼前に畑が広がる。その繰り返しである。
そのまま阿武隈川の川沿いに出て、しばらく馬にゆられて使者の後を進む。広い川面が道の左側に広がり、その背後に東北の山々が姿を見せている。
馬上で、西行は、ここに来ることになったいきさつを思い起こしていた。
ちょうど、この二月のことだ。奈良の東大寺の
「西行殿、秀衡殿に寄付を頼んでいた砂金がまだ東大寺に届いていないので、早く送るよう催促に出向いていただけないだろうか、大仏の
重源殿はそう言うと、その理由を説明しはじめた。
重衡によって焼き討ちにあい、東大寺の建物が焼失した。また、大仏も大きな損傷を被った。この度、後白河法皇からその再建の責任者に任じられた。
そこで、諸国に二百人ほどの勧進の山伏を派遣し、寄付を募っているところだ。
大仏の頭部は原型を留めているものの、胴体部分の損傷は激しくかなりの部分を鋳直さなければならない。だが、現在の手持ちの砂金では、頭部の鍍金しかできない。
「であるから、何としても秀頼殿から砂金を寄付してもらわなければならないのだ。頼む、西行殿」
いくら自分が、秀衡殿と面識があるとはいえ、六十九の歳を考えると、なぜ自分に頼んできたのかと考えあぐねていると、重源殿は、辺りを見回してから、耳元に顔を寄せた。
「実は、西行殿に頼むのは、秀衡殿に会った折に、九郎
後白河法皇は、義経殿が秀衡殿のもとに行き、奥州藤原氏の軍を指揮すれば、奥州は軍事的に強い勢力になり、鎌倉の頼朝殿の勢力とバランスがとれるようになると考え、そうなることを望んでいる。
さもないと、鎌倉殿に我が国の支配権を奪われると、案じているというのだ。
そう言われると、西行も悩んだ。
確かにこのままでは、鎌倉殿は奥州藤原氏を滅ぼすとともに、朝廷を抑えつけるであろう。そうなれば、我が国は、あの乱暴な板東武者に支配される殺伐な国になりかねない。
それを避けるためには、判官殿の力で奥州藤原氏の軍事力を強化する必要があるだろう。重源殿が言うことももっともである。
さらに、藤原秀衡は、西行にとって
こんなことも考えながらも、承諾することなく、一月余りが経った。
三月になると、判官殿の使いの一行が訪ねてきた。彼らは、口々に秀衡殿に判官殿を保護してくれるように頼んでほしいと切々と訴えた。
四月には、再度、重源から後白河法皇の頼みが伝えられ、結局、承諾する。
自分の体力を考え、秋が近い七月の終わりに平泉に旅立った。
西行はふいに強い陽射しを感じ我に返り、編み笠に手をかけてかぶり直した。
木立がなくなり、河原のそばの平坦な道に出たのだ。
川のそばの道が続く。しばらく馬を進めると
そこを過ぎると、ほどなくして福島の宿に着く。そこで一泊する。
旅籠で休んでいるとき、鎌倉での出来事を思い出した。
八幡宮を訪れた西行のところに鎌倉殿の使いの者が現れ、頼朝のもとに案内してくれた。
自分が秀衡のもとに行くことを鎌倉方も知っていたのだ。
鎌倉殿から、平泉に行く目的などを根ほり葉ほり聞かれ、適当に答えたが、鎌倉殿は、それ以上詮索しなかった。すでに、内情を十分に知っていたのであろう。
その代わり、歌道のこと、馬から矢を射るときの秘訣をたずねられた。
頼朝も西行が武道が得意なことを知っていたので、馬上から矢を射る極意をたずねたのであろう。
八月十五日昼頃、別れ際に、白河までの通行証を受け取ったが、その時に、秀衡の砂金は、必ず朝廷に届けるから鎌倉を通すこと、判官殿が平泉に来たら保護し、来たことを鎌倉に知らせること、という頼朝殿から秀衡殿への達しを仰せつかった。
西行には不思議であった。判官殿を平泉に入れるなと言うなら分かるが、鎌倉殿は判官殿が秀衡殿のもとに行くことを望んでいるのかも知れない。
頼朝殿が判官殿を奥州藤原氏の下に逃がしたいと考えているのは、奥州藤原氏とともに、朝廷と並ぶ権力を得るためか、鎌倉の御家人に対して孤立している自分の立場をよくするためか、奥州藤原氏を討伐する理由とするために御家人から求められているかであろう。
一体何のために、判官殿を秀衡殿のところに逃がしたいのであろう。
そんなことを考えているうちに、今までの疲れが出て、西行はぐっすりと寝てしまった。
翌朝、舟で
西行は、旅籠で休みながら、後白河法皇のことを考えていた。
法皇は、本当に判官殿を秀衡殿のところに逃がしたいのだろうか。
自分が権力を得たければ、平家と連携していればよかったのだ。少し源氏へも色目を使いながら平家を牽制していればよかったのだ。ところが、気が付いてみると、法皇は清盛殿に操られ、どうしようもなくなっていた。そこで、源氏に、助けを求めたのであろう。
平家が滅びると、今度は判官殿を使おうとする。だが、判官殿は単なる合戦の臨時指揮官にすぎない。頼朝殿の命がないかぎり、源氏の軍隊は判官殿の言うことを聞かない。
源氏の軍隊を指揮しているのは、あくまでも、頼朝殿であるからだ。
また、軍の兵は板東武者や西日本で平家に反旗を翻した武士であり、朝廷のために働いているわけではない。彼らと朝廷の思惑が一致したときだけ朝廷の命令に従うのだ。
そこまで後白河法皇は考えているのだろうか。西行には疑問に思えた。
後白河法皇は、その時その時、うまく立ち回り、うまく人々を利用して生き延びてきただけのように見える。
いずれにしても、政権の主体は、朝廷と奥州藤原氏か、板東武者かのいずれかになるであろう。頼朝殿は一時的なものでしかないであろう。
その勝敗は、判官殿の奥州への逃避行の成功と、判官殿の戦う力の回復の度合いと指揮官として奥州軍の信頼を得られるか否かにかかっているであろう。
これは、まさに、世紀の大芝居となるはずだ。もちろん、秀衡殿が判官殿を受け入れてくれればのことだが。西行はそう思った。
翌日、石巻から北上川の河口に出て、舟で川を上り、平泉に向かう。
西行は、四十年前に東北の歌枕を旅した際に訪れたときのことを思い出していた。
しばらく舟にゆられて感傷に浸っているうちに、平泉に着いた。
平泉では、秀衡の出迎えを受ける。奥州藤原氏は西行の一族であり、秀衡は西行よりも五歳ほど若い。
秀衡は平宗盛の推挙により陸奥守に任ぜられていた。鎌倉の頼朝や源義仲を牽制する目的があったからだ。
だが、秀衡は平家が官位を与え平家に加担させようとする策に乗らず、平家や源義仲からの兵の動員の要請があっても決して求めに応じなかった。
西行は、秀衡のその慎重さが気に入っていたが、鎌倉殿を相手に、守り一方の態度では征服されかねないと心配でもあった。
出家してほどなくして出かけた東北の歌枕探訪の旅の途中で会っていたので、あいさつもほどほどにして、秀衡は、気さくに西行を館に招き入れた。
西行は、風呂に入り、旅の汗を流しながら、この度の目的も忘れるほど、若かりし頃の思い出に浸っていた。
その日は、しばしの休息の後、秀衡と泰衡達と夕餉の膳を囲み、歓談する。
宴が終わる頃、秀衡が自分のそばに来た。
「西行殿、失礼ながら、そのお歳では、すぐ戻られるのは、きつかろう。ここで冬を越されて、来年の春になって戻られてはいかがかな。春まで、少し、歌の道をお教え願えないか」
自分は、喜んでという顔をした。正直、旅の疲れは予想以上であったからだ。
翌日、先ず、秀衡と砂金の話のけりをつける。秀衡は、早急に送ると約束してくれた。
それから、秀衡の頼みで、秀衡が訴える背中の痛みの症状を看る。
背中を押したり、口をのぞいたりしている時、判官殿をかくまうようにとの後白河法皇の依頼と、鎌倉での頼朝殿の依頼とを告げる。
法皇や頼朝からの依頼を聞いて、秀衡は、少し警戒するような表情をした。
西行は、状況の説明をした。
判官殿を受け入れようがすまいが、頼朝殿は奥州と朝廷との結びつきを恐れて、その前に戦いを挑んでくるにちがいない。
奥州軍の軍事力は強力であるが、実力を発揮するためにはよい指揮官が必要である。
だから、判官殿を受け入れた方がいいのではないか。
このような説明をしたのだ。
西行の説明を聞き、秀衡殿はじっと目を閉じて考えていたが、しばらくして西行の方を見ながらうなずいた。
西行は、早速、比叡山の判官殿のもとに、秀衡殿が判官殿を平泉で保護することに同意した旨の文を送った。
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