第二章 比叡山脱出計画
「弁慶殿、秀衡殿が判官殿を平泉で保護することを了承されたとの西行殿からの文の件ですが、」
「
「でも、この機を逃したら、判官殿を保護することは難しくなります。鎌倉殿の勢力がどんどん強くなってきますと、叡山としても、頼朝殿の要求をはね返してはいられなくなると思います」
「俊章、平泉に逃げる以外ないということだな」
「そういうことです、弁慶殿。そこで、ご相談ですが、どのように平泉に逃げるか、その策を考えてみました」
文治三年の春が近づく頃、比叡山の僧兵である俊章は、判官殿と弁慶を前にして、そう切り出した。
「鎌倉殿は、判官殿がいつ叡山を抜け出すか、今か今かと待っているはずです」
「ということは、叡山を出たら危険が迫るということだろう、俊章」
弁慶がたずねた。
「そういうことです。鎌倉側は、判官殿が叡山を抜け出したら、その後の行動を予測し、全国の街道の監視体制を強化するでしょう。また、舟を使う場合も考え、東海道に面した海の警戒、敦賀付近の海上の監視を強化するでしょう」
「では、我々に勝ち目はないのではないか、俊章」
「弁慶殿、ですが、北陸方面は鎌倉殿の勢力もそれほどではなく、警備も万全ではなく手薄であると思います。それでも、越前までは鎌倉殿の手のものにより厳重に人の往来は監視されているでしょう」
「ということは、加賀に入るまでは山中を進み、どこかで海に出ると言うことか」
「そういうことです。弁慶殿。はじめは飛騨の山中まで行き、九頭竜川を下って三国港からということも考えたのですが、調べてみると、あそこの港の警備はきびしいのです」
俊章は、説明を続けた。
高い山々の頂近くの高地の山道は、まだ雪が深く、長時間の歩行はほぼ不可能と言っていい。だから、街道寄りの低い方の山の道を歩くことになる。しかし、秀衡殿の勢力圏に入るまでずっと山道を歩くのは、山伏は鍛えているので問題ないが、判官殿にはきついはずだ。
「途中、叡山の指揮下にある寺も多いので、寺に泊まり、体力の消耗を最小限にすることはできると思います」
「俊章殿、それにしても、寺と寺との間を全てを一日の行程に納めることは難しいのではないか。野宿をしなければならないかも知れないな」
「ですから、できるだけ早く舟でもって北上すべきです。加賀に入ると監視の目はあまり行き届かなくなるはずですので、白山近くで山から下りて日本海に出て、舟を使うといいでしょう」
「山の道を歩いても、舟を使うためには必ず日本海側の北陸道まで下りる必要があります。鎌倉側はそう予測して、北陸道を監視するだけでなく、山から安宅川の河口に近い北陸道に下る道と山の道のぶつかるところ所に関所を作るでしょう」
俊章がそう言うと、義経がたずねた。
「なぜ、安宅川に下る道に、」
「判官殿、安宅川が一番越前寄りであり、他の川に行くにしてもその地点は通らねばならないからです」
もっと手前に関所を作っても、我々の逃げる道筋はいろいろ考えられ、多くの関を作らなければならないはずだ。だから、最も確実性が高い北陸道に下る最後の地点だけに山中の関を作るだろうと言うのだ。
「ですから、鎌倉側が関所を作るとしたらこの地点です」
俊章はそう言いながら、
「でも、その関で捕まってしまえばおしまいではないか」
義経がそう言うと、他の者もうなずきながら、俊章の顔を見た。
「もちろん絶対に成功するとは限りませんが、このままじっと待っていても、いずれ、鎌倉殿の兵は叡山に調べに入り判官殿を捕まえるでしょう。ここは、一つ賭に出るよりしょうがないのではないですか」
俊章は、義経の顔を見上げた。
「確かに、座して待っていても現状は悪くなる一方だし、叡山に迷惑がかかるし」
そう言う義経を見て、勇ましい昔の主君を知る弁慶には、鎌倉殿や朝廷の仕打ちに、意気消沈し悲観的になっている義経の姿が、ふびんに思えてならなかった。
明らかに、義経の包囲網は狭まり、義経を差し出すようにとの叡山への鎌倉側の圧力は強くなっていたのだ。
弁慶はとっさに振り向いて、義経の方に顔を向けた。
「とにかくやってみるのがよろしいと思いますが、いかがでしょうか、九郎殿」
それから、俊章の方をのぞき込んだ。
「ところで、俊章殿、関をうまく通るすべはあるのか」
俊章はうなずきながら言った。
「東大寺再建の勧進をするための山伏姿になり関を通るのです。朝廷のための仕事ですから、鎌倉殿も文句は言えないでしょう」
義経は、大仏殿を含む伽藍の大部分を焼失し、大仏さえも、ほとんどが焼け落ちた東大寺を頭に浮かべた。
朝廷は、焼け落ちた東大寺の再建を急いでおり、資金集めのための勧進をするために山伏を派遣している。その北陸、出羽、奥州での東大寺再建の勧進のための山伏に化けるというのだ。
「ご承知のことと思いますが、俊乗坊重源殿を責任者とし、諸国に二百人ほどの山伏が資金集めのための勧進をしています。それにまぎれるのです」
「もし、とがめられたら、どうするのか」
もうなかば、この案に傾倒していた弁慶が念のためたずねた。
「安全のため、相前後して二組の山伏一行を一日、二日ずらして進めます。判官殿と弁慶殿は後の組に入っていただきます。できりだけ隠れて行動するようにお願いします」
「私は前の組に入り、琵琶湖を渡って山に入ります。こちらは陽動作戦組です。鎌倉側は、当然、我々が出立したことを見つけ、頼朝殿に連絡するでしょう。これで相手の出方を知ることができるはずです」
「後の組はどう進むのか、俊章殿」
「琵琶湖を迂回して山中を進みます。しばらくは、後の組の存在に鎌倉側は気が付かないでしょう」
「陽動組が失敗し、その組に判官殿がいないことに気が付かれたらどうするのだ」
「その時はその時のこと。その時点で作戦を練り直すよりしょうがありません。また、別途、舟の手配を四人のご郎党の皆さんにお願いすることにしたいと思います」
俊章はそう言いいながら、義経と弁慶の顔を見上げた。
その日の夜、義経は寝られなかった。
兄はなぜあんなに自分にきびしく当たるのだろうか。そんなことを考えていたからだ。
自分は後白河法皇の命に従い、多くの戦果を上げて平家追討を果たしたが、確かに、兄の指示を忠実には守ってはこなかった。
無断で朝廷から官位を授かったりもした。
二年前の壇ノ浦では、勝ったことを長門から法皇と兄上のもとに飛脚で伝えた。知らせは四月三日には京に着き、十一日には鎌倉に着いたという。
鎌倉では、翌日には早速その対応について議論し、その結果は使者により四月の終わりには、長門にもたらされたようだ。だが、自分はすでに京に戻っていた。
兄上は自分に屋島の攻撃と四国の攻略を命じ、
そのことで、兄上の怒りを買ったと思い、許してもらおうと必死に懇願したが徒労に終わり、兄から勘当を受けることになった。
結局、京の都には自分の居場所がなくなり、叔父の行家殿とともに文治元年、一一八五年の十一月三日に九州へ下向するためと京の都を退去した。
四日には摂津の国河尻(今の尼崎市神崎川河口)で摂津源氏ら京武者達の追撃を受ける。
辛くも追撃をかわし生き残った部下とともに船で
叔父の行家殿とも、離ればなれになってしまう。
だが、その後、自分は、いつも危機一髪のところで逃げおおせてきた。
自分は、運が強いこととまわりの者の助力でうまく逃げることができたと考えていた。
だが、兄上が自分を脅し、自分が平泉に逃げるように仕向けているのではないか。
秀衡殿を陥れる口実にしようとしているのかも知れない。
もしそうなら、兄上の陰謀に乗らない方がいい。自分は道中でのたれ死にした方がいい。
義経がいろいろ考え悩んでいるうちに、夜が白々と明けてきた。
もう今さら考えてもしょうがない、何とでもなれと自分に言い聞かせた。
義経が数々の合戦でいとも簡単に敵をやっつけたので、義経の能力を鎌倉の御家人達が恐れ、一方、朝廷や秀衡が期待していることなど、考えもしなかった。
西行は、頼朝殿の御家人達は、はじめは、判官殿を生かしておくと困ると考えたのではないかと思った。
先ず、判官殿が鎌倉側についたら頼朝殿を孤立化できず、頼朝殿と判官殿の政権を作るのではないかということ。あるいは逆に、判官殿が朝廷や秀衡の勢力に加担して、奥州藤原氏を鎌倉側よりも強力な勢力にするのではないか。御家人達はそんなことを心配していたはずだ。
頼朝殿も、自分が孤立しないで御家人の支援を得るためには、判官殿を否定してみせないといけなかったのであろう。
だが、頼朝殿は判官殿がとりあえず生き延びて平泉に行き、秀衡の保護を受けてもらえることを心の底では期待しているのかもしれない。
また、御家人達も、鎌倉側の力が増してきた今では、判官殿が奥州に行った方が奥州藤原氏を征伐する口実ができると考えるようになっているのかも知れない。
西行は、そうも思った。
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