新勧進帳-西行の憂鬱-第五章(最終章)

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第五章 西行の憂鬱

 安宅川河口をでた小舟は、新潟に近い阿賀野川河口を目ざす。

 舟に乗ったときから北からの強い冷たい海風が吹いていた。

 途中、舟は、荒波で上下左右に木の葉のように激しく揺れる。

 振り落とされないように一同は必死に船縁にしがみつく。

 義経の手にも冷たい水しぶきがたたきつけ、手の感覚が麻痺してくるのが分かる。

 だれも声もなく、じっとこらえているようだ。

 そんな時、弁慶の声がした。

「九郎殿、もうじき阿賀野川の河口ですよ。一休みしてから舟を乗り換えます。もう、秀衡殿の国ですから、心配は要りませんよ」

 

 その声に、義経は安堵した。

 そこで、川舟に乗り換え、猪苗代湖まで行く。

さらに、郡山を通り福島まで馬で出る。そこから、西行がたどったように阿武隈川を下り、仙台湾を横切り、北上川を上り、平泉に着いた。

 舟は、御所に近い船着き場に着くことなく、少し川を上がり支流の衣川に入り、しばらく川をゆっくりと進んだ。

 そして夕方日が暮れてから衣川の中尊寺が見える船着き場に着いた。

 義経一行が平泉に着いたことをしばらく隠すためであると、途中から舟に乗り込んできた秀衡の使いが説明してくれた。

しばらくは、客人用に建てられた小さい館に居てほしいとのことであった。

 なにしろ、鎌倉側の密偵も情報を探している。少しでも、義経が平泉に着いたことを鎌倉側に知られるのを少しでも遅らせたいと、秀衡殿は考えていたようだ。

 義経一行はだれに会うこともなく一週間ほどその館で休養し道中の疲れをとった。

「九郎殿、少しはお疲れがとれましたか」

 そう言いながら、義経のもとに、現れたのは秀衡と国衡、泰衡の親子であった。

 皆は、そこで、再開を喜びあった。

「九郎殿、よくおいでになられた。道中、難儀なされたであろう。お元気な姿を拝見できて、うれしく思うぞ」

 秀衡はそう言って義経をねぎらったが、目の前にいる義経は想像以上に憔悴しきっていた。このことに、内心、驚きを感じえなかった。

 これではとても総大将として立ち直れそうには思えなかった。

 秀衡は、判官殿にはしばらく静養してもらい、その間、様子を見ようと思った。

 西行は、判官殿が平泉に着いたとの知らせを秀衡から受けていた。

 自分だけでなく、後白河法皇や頼朝も密偵を平泉に放っているはずだから、遠からず朝廷も鎌倉殿も判官殿到着の知らせを得るだろうと思った。

 後白河法皇は、板東武者の頼朝より平家の方が似た文化を持っていて御しやすいと思っていたにちがいない。

 朝廷が頼朝に対抗するために残っている策は、奥州藤原氏に命じて頼朝を背後から牽制させることしかないであろう。

 だが、奥州藤原氏は見たところ平和ぼけしている。西行が滞在中に出した感想だ。

 唯一の策は、判官殿に奥州藤原氏の十七万騎の軍隊を指揮させて奥州藤原氏を強化して頼朝に対抗することだけだろう。

 だから、後白河法皇は平泉に逃げ延びた判官殿に期待しているにちがいない。

西行はそう思った。

 一方、頼朝殿は鎌倉側で孤立している自分の立場を保つために、判官殿を殺すふりをしながらも判官殿を平泉に逃がしたかったのではないか。

 

 義経主従が安宅越えをした一部始終は、秀衡が報告を受けると、すぐさま西行のもとにも伝えられていた。

 西行はその話を聞いて、これは富樫殿の大芝居であったと確信した。

だから、それを信じて必死になって弁慶が勧進帳を読んだことなど、西行にとってお笑い以外の何ものでもなかった。

 でも、弁慶は富樫をうまくだませたと得意であったようだし、判官殿も、話がうまくいったことに何の疑問を感じている様子がなかった。ああいうせっぱ詰まった状況に直面すれば、富樫をだましたと判官殿が信じたのもやむを得ないことだと、西行は思った。

 秀衡殿から聞いた判官殿の安宅の関脱出劇のいきさつから考えて、明らかに頼朝が富樫に大芝居を命じたにちがいない。

 富樫が解任されたという話は聞いたが、殺されたという話は伝わってこないからである。

 もし、頼朝が判官殿を捕まえろと命じていたのならば、頼朝が、富樫が情にあふれた態度で判官殿を逃がしたことを聞いたらば、烈火のごとく怒って富樫を殺していたであろう。

 富樫も武士であり、弁慶が判官殿を打ちたたいて痛めつけたのを見たぐらいで、情におぼれた行動をとるとは思えない。

 

 きっと、頼朝は、判官殿が奥州藤原氏の軍事力を強化し鎌倉側を牽制することにより、鎌倉側での自分の立場を確保する必要があったにちがいない。

 頼朝を支えている鎌倉側の御家人は、北条氏であれ、梶原氏であれ、皆、板東武者の平氏であり、本質的には、頼朝は彼らに支えられている。

別の言い方をすれば、彼らの手の上で孤立しているのである。

 朝廷や平家、奥州藤原氏がある程度の力を持っていればこそ、鎌倉側での頼朝の立場は保てるのだ。

 頼朝の身内は、判官殿しかいない。兄弟愛はなくとも、打算的に考えても、判官殿を殺す動機は頼朝にはないはずだ。

 もともと、頼朝にとっては、一ノ谷の合戦で平家を負かしただけで十分であったのだ。

 頼朝は、平家が力を取り戻し、九州の太宰府を占領し、朝廷を南から牽制してくれていれば十分であったはずだ。

 ところが、判官殿は、命令もしないのに、壇ノ浦で平家をやっつけてしまう。

 判官殿は、戦術家であるが、戦略家ではない。

 平家を滅ぼした場合の自分の立場がどうなるか、自分が用済みになるとは考えずに、行動しているのを見ても明らかである。

 こんな人間に、奥州藤原氏が軍事を任せるのか疑問である。

 いずれにしても、判官殿が、どの程度、奥州藤原氏の軍事力強化に貢献できるか次第である。

 後白河法皇も、頼朝も同じように考えているだろうと、西行は思った。

 西行は、ひとまず判官殿に会い、人物評価をしてみたいと思っていた。

 一週間後、その機会が訪れた。義経は、西行と会ったのだ。

「判官殿、お会いできて光栄です。無事に平泉に着かれたお姿を拝見し、うれしく思います」

 西行は判官殿にねぎらいの言葉を向けた。だが、西行も、これが、かの名をはせた判官殿かと内心びっくりした。軍の采配を振れるような力強さを感じられなかったのだ。

 かねてから、秀衡は、判官殿が平泉に来たら国衡、泰衡、忠衡、兄弟仲良くし、判官殿を主君として支え、皆で結束して頼朝の攻撃に備えよ、と言っていた。

 だが、この判官殿の姿を見て、泰衡達がどう思っただろうか。西行は悲観的な思いを抱いた。

 もともと、判官殿を支えている秀衡が上に立っていればこそである。

さもなくば、頼朝が少し圧力をかけただけで、秀衡の兄弟の絆や判官殿との関係も簡単にくずれてしまうだろうと、西行は案じた。

 俊章と、承意が平泉に着いたのはしばらくしてのことであった。山中を越えて、やっとの思いでたどり着いたのである。彼らの到着は秘密にされた。

 西行は、判官殿の行く末に不安を感じつつも、判官殿到着後一月ほどして平泉を発った。

 西行が帰京してから、判官殿は、奥州藤原氏の兵にどのような采配を振るえばいいかを考えはじめたと、秀衡からの文に書かれていた。

 その戦略を聞いて、秀衡はさすがは九郎殿と感嘆したが、泰衡は首をかしげていたそうだ。秀衡殿だけが判官殿を期待して、これではうまくいかないのではないかと西行は案じた。

 判官殿は、陸奥と出羽の在地武士、十七万騎を有する強力な軍隊の組織化を開始したはずだ。

これを可能にするのは、あくまでも、秀衡が後ろ盾になっているからである。将来、泰衡が家督を譲り受けても在地武士が彼に従うとは、彼自身も自信がなかったであろう。 

だからこそ、判官殿の戦略がうまくいくとは考えられなかったのだ。

 西行は、平泉から戻って、半年余り経って、平泉のうわさを聞いた。

 九月四日、「秀衡が、判官殿をかくまい反逆を企てている」という{院庁下文}{いんのちょうくだしぶみ}が出され、その時頼朝が奥州に送った担当官も、その旨報告している。

 その二ヶ月後、秀衡は急死したのだという。当然、家督は正室腹の次男である泰衡が継いだというのだ。

 秀衡は病死であり、だれかに刺殺されたわけではないと言われていたが、西行は鎌倉側の手の者にでも毒を盛られたのではないかと思った。

 

 かねてから、秀衡は子らに兄弟仲良くし判官殿を主君として支え、皆で結束して頼朝の攻撃に備えよ、と言っていたことを、そのまま遺言にしたというのだ。

 そのことは、秀衡が死ぬ間際まで、国衡と泰衡の間の相克を危惧していたということであろう。

 その後のうわさでは、文治四年、頼朝は、判官殿追討の院宣を二回に渡って獲得し、奥州政権へ圧力をかけるが、はじめは、泰衡は秀衡の遺命に従いこれを拒否した。強い軍隊を見て、頼朝に逆らっても平気だと安心していたのであろう。

 だが、業を煮やした頼朝は今度は泰衡追討の宣旨を朝廷に奏上した。

 すると奥州軍の間に動揺が起きた。秀衡亡き後、離反する在地武士が増えたのだ。

 泰衡は秀衡が恐れていたように頼朝の圧力に屈服し、泰衡と反目する国衡と忠衡を討つ。

 文治五年四月三十日、平泉衣川館を襲撃し義経主従を攻め、判官殿は平泉で自害した。

弁慶も、判官殿を守って、矢に倒れたというのだ。

 泰衡は、判官殿の首を酒浸けにして鎌倉へ送達したが、頼朝は許可なく判官殿を討伐したことを口実として奥州征伐を後白河法皇に奏上した。

 

 これに対し、後白河法皇は院宣の発給を拒否する。

 すると、七月十九日、頼朝は院宣がないまま奥州に向かって鎌倉を出発する。

 出発後、ようやく後白河法皇は泰衡追討の院宣を出した。

 

 こうして、文治五年、一一八九年、七月から九月の奥州合戦がはじまり、奥州側は二万の兵を動員したが、鎌倉側の二十八万の大軍に攻められる。泰衡は殺され、平泉はあっけなく陥落し、九月二十二日、奥州藤原氏三代・百年の栄華は幕を閉じた。奥州の十七万騎の武士団はすでに分裂し、二万騎になっていたのである。残りは、鎌倉側についたのであろう。

 頼朝による武士政権が確立したのだ。

 約十年におよぶ治承・寿永の内乱の終焉であった。

 西行は思った。もし平泉が秀衡の遺言の通りに、白河の関を閉ざし、泰衡以下が判官殿の指揮に従って合戦を遂げていたならば、世の中はどうなっていたか分からない。

 平泉には鎌倉に先がけて鎮守府将軍を頂点とする幕府的な機構ができていた。

 だから、奥州藤原氏が実権を握ってもおかしくなかったのである。

 西行が平泉に滞在中に見た奥州藤原氏の政権は、盤石なものに見えた。蝦夷と和人が連合し東北地方全域を抑え、金銀、馬などの産物と、北方交易などで、財政基盤もしっかりしていた。

 秀衡殿が亡くならなければ、判官殿の助けを借り、鎌倉殿に対抗できる勢力であり続けたであろう。

 場合によっては、平家も少しずつ力を盛り返し、関西、関東、東北の勢力が均衡したかも知れない。

 そうすれば、朝廷の力も、今ほど弱くはならなかったであろう。

 結局、文治五年奥州合戦により、源頼朝の政権と平泉藤原氏の政権は統合され、朝廷が逆らうことができないほど強大な勢力になり、新しい日本ができたのだ。

 自分は、この間、歴史に関わる人々をつぶさに見てきたのだ。

 自分は、もしかして歴史を変えることができたのかもしれない。判官殿を平泉に脱出させなかったら頼朝殿に、奥州征伐をする口実を与えなかったはずだからだ。

 清盛入道殿にも朝廷に対してあそこまで横暴なふるまいをしないように、意見できたはずだ。

判官殿にも鎌倉殿の考えを知らせることもできたのだ。

 もちろん、出家した身では世俗のことに触れるのは御法度だ。

 西行には、もう一つ気になることがあった。

 もし、自分が判官殿を平泉で保護してくれるように秀衡殿に頼まなければ、判官殿も殺されず、奥州藤原氏も滅亡しなくてもよかったかも知れないからである。

 歴史に「もしも」はないが、歴史は変わっていたかも知れないからだ。

 西行が気にしていたことは、頼朝殿と判官殿の関係である。なぜ、兄弟同士で、争う必要があったのかということである。

 文治元年、一一八五年四月に梶原景時から判官殿を弾劾した書状が届いた時には、頼朝殿は、朝廷から任官を受けた関東の武士をとがめはしたが、判官殿をとがめはしなかった。

その後の判官殿の専横を訴える報告が入ってはじめて、判官殿を孤立させるようにする。

 これは、御家人達の判官殿への警戒と非難が大きいことが分かって、はじめて、判官殿を孤立させることを決意したということではないか。そして、判官殿が頼朝殿に許しを請う腰越状への冷淡な対応に腹を立て、「鎌倉に恨みを抱く者は自分に従え」と言い放った時に、頼朝殿は、はじめて判官殿の所領の没収など具体的な行動に出る。

 西行は、頼朝殿が判官殿の器量を恐れていたというよりも、御家人達が判官殿を恐れ、判官殿を孤立化させるように仕向けたのだと思った。

同時に、頼朝殿も孤立化できるからである。

 西行は、ふと、俊章や承意のことを思い出した。二人はあんなに弁慶や判官殿に似ているのだから、二人が成り代わったとしてもだれも分からないであろう。彼らが平泉に来たことは秘密になっている。

もしかして、死んだのは彼らで、弁慶と判官殿は殺されずに逃げのびたのかも知れない。

西行は、そんなことを考えている自分がおかしかった。それで歴史が変わるとは思えなかったからである。

 自分は現世から逃げようとしているのに、現世のしがらみが追いかけてきて悟りを開くのを妨げる。でも考えてみれば、人間なんてこんなものだ。

 西行は、自身の死を意識するにつれて、こう開き直るような心境になっていた。

 そして、これが悟りというものかも知れないと気がついた。

 ちょうど、釈迦が自分が悟りを開けないと思ったときに、それが悟りの本質であることに気がついたように。

 西行は亡くなる十数年前に、遺言のような次の歌を詠んでいた。

      願はくは花のもとにて春死なむ

                その如月(きさらぎ)の望月の頃

 そして、西行の希望通り、如月の望月である二月十五日の釈迦の命日に一日遅れて、西行は亡くなった。

 西行は現世から逃れようと、悟りの世界に強く憧れて出家したのであろう。だが、現世の情念がいくら捨てようとしてもまとわりついてくる。皮肉なことに、源氏、平家、奥州藤原氏の動乱の時代を肌で感づる状況に置かれていたからである。

 西行の歌は、その心情からくる孤独や寂しさを隠さずに歌にしたところに、古今東西の共感を得たのであろう。

 だが、世の中の動きを客観的に見ることにより、彼なりの宇宙観を得たのではないだろうか。

大日如来を中心とした曼荼羅のような宇宙での人の営みを意識することで、「自分」から離れた人生観や人間観を得たのではないか。

 西行はそこまで意識していなかったかも知れないが、そこまでの「悟り」に到達していたのではないか。

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