階段

階段     ごま

 「ぺちょ。」

 頬に冷たい感触を感じて私は目覚めた。

 椅子に座ったまま机に突っ伏して寝ていたらしく、首が痛む。身を起こすと頬に触れた液体が糸を引いて絡みつく。慌ててティッシュで頬を拭い、机に大きく広がった水たまりを眺める。

 私はこんなに大量のよだれを垂らしながら寝ていたのか。自分のよだれの冷たさで目が覚めるなんて最悪だ。残念なことに持っていたポケットティッシュは後二枚しか残っておらず、よだれの湖をふき取るには心もとない。

 掃除用の雑巾を探そうと立ちあがって辺りを見渡す。しんと静まり返った図書室の中、私は一人取り残されていることを知る。何時間居眠りしてしまったのだろう?カーテンの隙間から外を見ると、街灯には黄色い明かりが灯っており、微かな雨の匂いが漂ってきた。

 入口に掛けられた時計を見ると、時計の針は八時を指そうとしている。ああもうこんな時間か。私は肩をすくめると準備室の扉を叩いた。

 図書室の準備室は国語教師の職員室も兼ねている。クラスを担当している先生は夜遅くまで準備室にいることが多いので図書室も放課後は自習室のように使われている。

 ノックして暫く待ったが返事がない。窓から中を窺うと、準備室に明かりは灯っているものの、先生方は離席中のようだ。

 「失礼します。」

 無人の準備室と分かっていても自然に言葉は出るものだ。私は準備室の入口脇に置いてある掃除用のロッカーの中から雑巾を取り出し、机を拭いた。教科書やノートは無造作に押しやられ、愛用のシャープペンシルは力なく下に落ち込んでいる。けしごむはころころ転がったらしく、隣の席の中央辺りにぽつんと置かれていた。私は机の上でどんな寝相をしていたのだろう。

 勉強道具を片づけてシャープペンシルを拾おうと屈みこんだ時、「ガタッ。」という大きな物音が書架の方から聞こえた。私以外に誰か残っていたのだろうか?シャープペンシルを胸ポケットに突っ込んで立ちあがって書架の様子を窺う。

 

 雨の匂いが濃くなった。

「ずずーっ。」

 何かを啜りあげるような音がして“何か”はもぞもぞ体を蠢かしているようだ。

 私はその“何か”がとてつもなく嫌なものであるような予感がして後ずさった。“何か”はずるずる。と何かを引きずるような不快な音を立てながらだんだんこちらに近づいてくる。その音は私の肌を泡立たせ、体をすくませる。

 私は鞄をぎゅっと抱きしめると“何か”に背を向けて駆けだした。“何か”を見てはいけない。逃げなければ。

 夜の学校の校舎はしんと静まり返っていて真っ暗だ。私は長い階段をひたすら駆け降りた。なぜ図書室は三階にあるんだろう。くるくる階段を駆け下りながらこの階段に果てがなく、私は一生一階を目指して駆け下りなきゃいけないんじゃないかという不安に襲われる。きっと“何か”が魔法でもかけたんだ。私が疲れ果てるまで“何か”は息をひそめてじっと待っているに違いない。

 くるくるくるくる。どすん。

 私は思いきり誰かにぶつかって弾き飛ばされた。

 「いたたたた。君、大丈夫かい?」

 ふいに聞こえた人の声に緊張が解けて、私はわっと声を上げた。

 「あれ、君は山田さん?」

 「え?か、加藤先生。」

 暖かい大きな手が差し出され、私を立たせてくれた先生は一年生の時の国語を担当してくれた加藤先生だった。

 「遅くまで図書室で自習してたんだね。」

 「あ、いやその……寝てました。」

 加藤先生はおやおや、という風に肩をすくめて微笑んだ。

 「だからそんなに慌てて帰ろうとしていたのかい?」

 「はい。すみません。」

 「外も暗いからね、気をつけて帰りなさい。」

 「はい。失礼します。」

 私は礼をすると静かな足取りで靴箱に向かった。

 さっきまでの恐怖は不思議なくらい取り除かれ、図書室で感じた“何か”などもとから存在しなかったように思える。あれは私の不安な気持ちが作りだした幻だったに違いない。

 

 「平助君?今日は早くから出てきていたんだね。」

 暖かい手がおいらの頭に乗せられる。おいらは、頷いて鼻をすすりあげた。

 「さっきおいらが出てきた時、髪の長いおねいちゃんがいてさ、遊んでもらおうとしたら、一目散に逃げられちゃった。」

 先生は少し頭に手をやって「ああ。」と呟いた後、おいらの足を拭いてくれた。

 「着物が濡れているね。今日はお外で遊んでいたのかい?」

 「うん。おいら雨の日は大好きさ。人が少なくなるし、仲間だって沢山でてくる。」

 「後ろを向いてごらん。」

 先生はそう言うと、解けて床に伸びていた帯をきゅっと締め直してくれる。

 「そう、だから図書室に遅くまでいた山田さんを仲間と間違えちゃったんだね。」

 「うん。……ごめんよ。」

 あのおねいちゃん、人間だったんだ。おいら、脅かすつもりなかったんだけど、脅かしちゃったんだな。

 先生は眼鏡の奥の優しい目を細めてにっこり笑った。

 「山田さんは居眠りしていたらしいし、寝ぼけて幻でも見ていたんだと思うだろうから、きっと大丈夫さ。」

 先生は暖かいお茶をついで饅頭をくれた。

 「君にはもうしばらくここにいて欲しいんだ。だって君は、幸運を呼ぶ座敷童だものね。」

 「うん。」

 こんなに美味しい饅頭をくれて、沢山遊んでくれる人間なんてそうそういないもの。先生がいるかぎり、おいらはどこにもいかないよ。

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