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 某日(プロローグ)

 嫌な夢を見た。

 水中で足首を掴まれて、ずるずる水底へ引きずりこまれてゆく。黴と塩素の臭いが肺を満たし酷く息苦しい。全身に纏わり付く羊水に似たそれが鼻空や口から体内に入り込む。

 耳には……何故か不通音が聞こえる。

 ぬるぬるしたそれを吐き出そうとしたとき、電流のようなものが全身に走り、体が大きく痙攣する。

「うわぁっ……!」

 平らな胸に掌を置けば、じっとりと湿ったタンクトップの不快な感触があった。狂ったように心臓が活動している。

「あ、りえねぇー……」

 視界には見慣れた天井が広がる。どう見ても自宅のリビングだ。上半身を起こすと、肩と背中が酷く凝っている。そして、何故か顔面に扇風機の蓋を被っていた。

「あぁー……そーだった……」

 汗ばんだ肌に貼りついている鉄くずのような備品と足元のそれらしきものは全て扇風機である。

「扇風機だったもの、かー……」

 京助の手によって原型をとどめないほどに解体されたそれは、もう家電としての寿命は晩年を終えた。決して彼に破壊癖があるわけではなく、奇怪な音と異臭を立てて不規則に回転するそれを直そうとして招いた結果だった。

 電化製品に弱く、不良品にとことん当りやすい。夏真っ盛りを間近にしてクーラー無し、扇風機無しの絶望感に項垂れた。

「最悪……」

 まるで「元気だせよ。俺がいるじゃないか」と語りかけるような絶妙のタイミングで、電源を入れていないテレビが突然起動する。珍しいことではないのでさほど驚きはしなかったが、げんなりする。

「またかよー」

 映し出されたのはニュース番組だった。話題はもっぱらホームレス暴行事件と相次ぐ学生の転落自殺に関してだ。連日耳にし続けると電波ジャックを思わせる。

「あれ? ホームレス暴行事件ってまだ続いていたのかー」

 以前、自分より一学年上の男子学生が県外で逮捕されたはずだった。同じような犯行が別の地域では続いているのだろうか。

「ホームレス苛めてなーにが楽しいんだかー……」

 時間と労力の無駄だろうに。理解に苦しむ行動だ。陰鬱な世の中の情報など知りたくもないのでそうそうに電源を切る。

 京助の同居人である叔父はジャーナリストとして世界を股に掛けている。滅多に帰ってくることはないので、高校生でありながら一軒家に一人で暮らしていた。夕食のことを考えると思わず「あぁ」と溜息が漏れる。冷蔵庫の中は、買出しを連日怠けたのでおそらく何も無いに等しい。買い物に行く気にはなれないが、インスタント食品も底を尽きていた。仕方なく腰を上げたとき、滅多に鳴らない固形電話がリビング中に響いた。

 受話器を持ち上げた瞬間に「ヤア」と軽快に呼びかけられる。

「……どちら様?」

「郵便物ヲ確認セヨ」

「は?」

「ソロソロ夕食作リデモスル頃ナノカナ?」

「はぁ?」

 間違い電話か? 怪訝そうに眉を顰めた。二の句が続かない。

「学生デ一人暮ラシハ不便ガ多イダロウニネェ」

「……ッ!」

 一瞬、殴られたように思考が停止する。

 君の悪さに背筋が凍り、狼狽した。刑事ドラマなどでお馴染みのボイスチェンジャーは実際に耳にすると安さと気持ち悪さが入り混じっている。

(いや、そんなことより)

 なぜ、家庭状況のことを知っている。

 疑問と同時に恐怖がこみ上げた。監視されているのだろうかと、慌てて受話器を戻そうとしたが「逃ゲルノカイ?」挑戦的な投げかけが耳に付く。

「私カラノプレゼントダ。浅月京助。受理スルノモ、コノママ逃ゲ続ケルノモ自由ダ」

「……何所の誰で、どーして俺の名前を知っているのか知らねぇーが、他を当ってくれねぇか?」

 耳にねっとりとこびりつくボイスチェンジャーがいつまでも残っている。早く受話器を置いてしまえばいいのだと自分に何度も言い聞かせたのに、できなかった。わけのわからない恐怖心に怯える。

 その様子をあざ笑うようにボイスチェンジャーの声音はいくらか黄色くなった。

「ナァ京助。オ前ノ秘密ヲ世間ニバラサレタクナカッタラ、私ニ従エ」

 失礼にも一方的にブツリと断ち切られた。鳴り響いたのは、夢と同じ不通音。

 呆気に取られ、憤慨することもできず佇む。やっとの想いで受話器を戻すと膝から力が抜けた。

 ――秘密。

 それが何を意味するのかは、京助には手に取るようにわかる。

 どれほどの間、電話の前で膝を折っていたのかは分からないが、何とか眩暈を堪えて立ちあがり、玄関に備え付けてある新聞受けを窺った。

「マジかよ」

 本当に、茶封筒が一通あった。透明のセロハンテープで厳重に封をされた封筒の厚みは薄く、光の加減によって中身の便箋が透けて見えた。消印有効は本日。送り主は

「BJ……?」

 剃刀でも入っているかもしれない。警戒してわざわざ鋏で封を切る。一枚のコピー用紙が丁寧に三つ折になっていた。カタカナと漢字で綴られていてなんとも読みにくい。

「……『コレハ秘密ヲ守ル者ト、秘密ヲ暴ク者ノ戦イデアリ、罪ヲ背負ッタ咎人ニヨルボーイミーツガールノフェアリーテイル。コノ招待状ヲ受ケ取ッタ瞬間カラ全テハジメル』なんだよ……これ」

『イイカ、コレハゲームダ。参加ソノモノガ×ゲームノ楽シイ狂喜ダ。オ前ハ謎解キヲスル可愛ソウナ主人公……ヲ手伝ウウサギ。参加ハ絶対デハナイガ、二週間後ニ『秘密』ヲ日本全国二公開スル。秘密ヲマモリタカッタラ、コレカラハジマル狂気ヲ止メロ』

 思わず小さく笑った。戦慄く唇を噛み締める。上下する心臓の音を宥めるために手首の脈を親指で握り潰すように力を込める。子供の頃からの無意識な癖だ。

 自分が選ばれた理由はとうに分かっている。イタズラではないのだろう。寧ろこの平和に過ごせた五年間を疑問に思うべきなのだ。 腹の奥底からこみ上げてくる苛立ちがふつふつ湧き出るのを感じる。名前をつけることができないくらい闇色でどろどろとした不快な感情が、自分の中で獣のように渦巻いている。

「理不尽もいいところじゃねぇーか、畜生め……!」

 力無い笑みが零れた。戦慄く唇が、怒りなのか恐怖なのかも分からない。

『私ハバネ脚ジャッキー。全テヲ記録シ、傍観スル者。ソシテゲームノ法律。

 期限ハ明日カラ二週間。ソレヲ一日デモ過ギタラ全テヲバラス。マタハ五年前ト同ジ用ニオ前ハ大キナ『モノ』ヲ失ウダロウ。

 期待シテイルゾ、人殺シ』

 

 七月一日 Thursday

 Aspect ? (とあるサラリーマン)

 しっとりと衣服の上から全身を包む鬱陶しい湿気。何所の空気を吸い込んでも肺に溜まるのは鼻につんと来る黴の異臭。

 その日もいつもと変わらない、どこか鬱々とした梅雨の夜だった。

 闇にぽっかりと穴が開いているように浮ぶ琥珀の月。煌々と輝き、革靴のつま先まで照らした。夜も深まるその時間。雲の見える空は一昔前の出来の悪いホラー映画にでも迷い込んだような不気味な雰囲気。だが、そんなことは男に関係がなく、視界に移るのは灰色の無愛想なコンクリートだけだった。

「やれやれ、今日も怒られちまったよ……」

 元凶であるそれは自分のミスではない。うるさい上司に使えない部下。中間管理職の仕事なんて、頭を下げることだと男は思う。

「誤ることが仕事なんてなぁ」

 それなりに夢を抱き、それなりに生きることに懸命で真面目に背筋を伸ばしていた。それが今では毎日革靴をすり減らして歩き、腰を折る。自分は嘗て憧れを抱いたヒーローのようにはなれなかった。ベルトに載る贅肉や、筋肉が著しく衰えた脚。それが何よりも自分を哀しくさせる。

「何が楽しくて」

 何が楽しくて、生きているのか。

 妻に虐げられ、手塩を込めて育てた息子には馬鹿にされ、娘には相手にもされない。

 学校で問題ばかり起こす息子の将来を心配すれば、馬鹿され鼻で笑われたときの顔つきを思い出す。

「……死んでしまおうか」

 転落自殺をする学生の急増により「命を大事に」と投げかける青少年団体に今朝挨拶をされた。爽やかであつかましく、強制的で正義に熱い。今なら「はんっ」と笑うことができる。――つられて頭を傾けた今朝の自分にも、青いパッピにメガホンを手にする青少年団体にも。

 黙ったまま、薄気味の悪い廃ビルの脇をとぼとぼと行く。

 取り壊しが未定の廃墟。背の高いその建物は嘗て放火事件があったと噂があり、あまり立ち寄る人間はいない。夏にホラースポットとして若者が溜まる時があれば、冬ではホームレスが身を寄せていると噂されている。梅雨明けを観測していない現在は蛙(かわず)の鳴き声以外何の音沙汰もない。

「星一つありゃしねぇ。神様なんざどうせいないんだ。慰めてくれりゃいいのによぉ」

 空を故意的に睨んで廃墟の駐車場を突っ切った。強制的な道ではあるが、このだだっ広い駐車場と田んぼの脇道を進めば、古ぼけた住宅街へ最短距離で進めるのだ。

 習慣から、何も考えていなくても家路に付くことができる。その上、今日は空を見ていたせいで注意力が欠けていた。だから、足元にある『それ』に反応できなかった。

「あッ」

 柔らかい何かに躓き、顔面から転倒する。幸い禿げた額を擦る程度だったが、久々の転ぶという行為に妙な心境になる。踏みつけた柔らかいものの大きさから、汚物でないことは咄嗟に理解できた。

「いつ……! なんだよ一体」

 摩擦で熱をもった掌を見て、ひぃっ! と短い悲鳴をあげた。

「あ、あああああ!」

 咽喉の奥から痙攣したような、震える叫びが毀れた。掌と安いシャツの袖が真っ赤に染まっている。異常な出血量から単純に考えて自分の血ではない。そして

「な、な!」

 男は、鮮血に溺れる姿を捉えた。

 わけの分からない叫び声をあげて、転がるように走り去る。人通りの多い交差点まで走り、歩道橋の傍の溝で吐き散らした。

「あのう、大丈夫ですか?」

 二十代後半くらいの、化粧の薄い女性がハンカチを差し出す。男は相変わらず「あ、あぁ」と情けない声を口内から漏らした。女の表情にはあからさまな嫌悪感が窺える。

「警察を、警察を呼んでくれぇ!」

 やっとのことで搾り出した言葉を、女性は眉を顰めて「はぁ?」と聞き返す。男は飲み込みの悪い女性に苛立ちを覚えながら懸命に身振り手振り表現した。

「そ、そこに死体が! 女の子の首がひしゃげた死体があったんだ!」

「はぁ」

 酔っている。そう判断されたのか、女は首を傾げる。男は自らの息が汚物と酒で異臭を放っていることに気が付きながらも、「早く早く」と急かした。女性にとって、この頭を禿げ散らかした安サラリーマンこそが不審者極まりない。周囲がその様子を怪しみ、体格のよい男が「おい」と詰め寄ろうとした刹那。

「ひいぃっ!」

 短い悲鳴が夜の街に響いた。男の挙動不審(きょどうふしん)を怪しんだ誰かが来た道を辿ったのだろう。わらわらと通行人たちは悲鳴のほうへ集まりだし、様々な音が明るい夜に飛び交う。

「警察を、警察を!」まるでそれしか言葉を知らない赤子のように誰かは繰り返し口にする。「なんだこれは!」誰かは当たり前の疑問を叫ぶ。そして最終的には同じように『警察』という単語を繰り返す。

 誰一人「救急車」という単語を使用しなかったのは、横たわる肢体が……死体があまりにも無残な形だからだろう。散らばった脳辺を誤って踏みつけた野次馬の一人は、背をけて嘔吐した。次から次へと人は増えるのに、次から次へと口元を押さえて退却する。

 饐えた臭いが充満した深夜の廃墟。まるで死体の餌に群がる蟻のようで、酷く滑稽な出来事だった。

 七月十二日 Monday

 Aspect 浅月京助

 一ミリたりとも動いちゃいないのに、額に滲む汗は楕円形(だえんけい)の雫となって流れる。

「だりぃ……」

 京助は呟いて絶望する。家に帰ろうが、学校にいようがこの暑さから解放されない。鬱々と机に額を乗せた。

 窓際の自席で生ぬるい微風に煽られる。ふと顔を上げて眼に入ったのは、担任教師が勝手に持ち込んだ扇風機。妙に頭が大きく首が細い。今にも頭を落としそうな枯れかけた向日葵を連想してしまう。それの前で、数人の女生徒たちが短い裾のスカートをひらひらと躍らせていた。

 うなじに鬱陶しく張り付く髪をいい加減切ろうかと摘む。面倒くさがりの京助は自分の容姿に疎く、志摩里子(しまさとこ)の指摘があってから散髪をしてもらっているのだが、今回ばかりはそうもいかない。――彼女が学校を欠席し始めて一週間が経過したからだ。

 空白の隣の席を見つめて、溜息をつく。彼女がいないことを認識しているせいか自分の生活からすっかり排除していた。勿論里子を嫌っている訳ではない。自然の成り行きがそうさせる。

 きっと誰かが死んだら、この真四角の教室にいるクラスメイトたちはこうして忘却してゆくのだろう……

「……待てい」

 ――志摩は死んでいない。

 ――転落したけれど。

 誰にも聞こえることの無いように口にする。

「ははっ……。笑えねぇーって」

 放課後の教室には、京助と同じように暑さに項垂れる同級生が数十名残っていた。本来なら、誰もが我先にと異常な暑さの教室から逃げるように出て行くのだが、今日は違った。理由は一重に志摩里子にある。

「なーにしてんだよ。あいつは」

 たまらず溜息を付いた。すると突然、何かに圧し掛かられる。一瞬息が詰まった。

「なに、にやけてんの? キョウ」

 頭から振ってきた声音は、自分よりもトーンの高い明るいもの。確認せずとも、あぁ、と察した。

「にやけてなんかいねぇーよ。それと、『けい』だぁー」

 覆い重なるように背後から首に腕を絡めるのはクラスメイトの相模太一だ。

「お前ぇー、そのワザと俺の名前を間違えるの、止めてくれねぇーか。柴犬」

「名前ですらない呼び名を使わないでくれるかい? キョーちゃん」

 柴犬と呼ばれたことに憤慨したのか、迷いなく首に回された腕に力を込める。容赦のなさが勘に障り、むき出しの腕を抓り上げれば、その拘束はゆるくなった。一度は「痛て!」と身を引いた太一だが、体を密着させたままの彼には一ミリたりとも反省の色がない。

「間違えたんじゃなくて、あだ名」

「つまりはワザトなんだなぁー? 柴犬」

「正解。でも柴犬は不正解。あだ名って、最初は気に入らないけれど徐々に慣れていくものだよね」

 さも当然のように京助の前の席に座り、白い犬歯を覗かせて笑った。

「うるせぇーよ。嫌なものは嫌なのー。誰がなんと言ぉーと、京浜工業地帯の『京(けい)』と助太刀(すけだち)の『助(すけ)』で『京助』ぇー」

「えー。別に『そうだ、京都(きょうと)へ行こう』の『京(きょう)』と助平(すけべい)の『助(すけ)』でもいいじゃん」

「黙っとけーぃ。だいたい、お前自分は『柴犬』ってあだ名全力で拒否ってんじゃねーか」

 放っておけば何所までも続く不毛でくだらないやり取り。妙に安穏と、間延びした口調の京助には、何をしてもいまいち緊張感がない。

 京助はたまに、はにかむような笑みを向ける太一が男であることを忘却する。不意打ちとはいえ魅せられることが悔しかった。正真正銘青瓢箪(あおひょうたん)の彼は病的なほど肌の白い里子と並んでも華奢であることが分かる程なのだ。

 くりっとした大きい瞳。女子も羨む長い睫。自分と同じ高校二年生とは到底思えない。愛想がよく、行動的な太一は好感を多くの者に抱かれていた。小柄な彼がチョコチョコと動く様は「なんか柴犬っぽい」と言われている。本人は「頭の中はがっつがっつの肉食的」と否定するが、影ではもっぱら『柴犬』『豆柴』なのである。

「ところでよ、どうよこのカメラ。二代目の一眼レフだぜ?」

 急に話しかけてきたと思えば、なるほど、自慢がしたかったのか。机にごとりと、重々しい音を立てて置かれた真新しいカメラはごついが持ちやすそうな大きさである。

「今までのミノルタα-7000みたいな、いかにもカメラですーっていうごっついのもいいと思ったんだけれど、今回は思い切って最軽量にしてみたんだ。オリンパス E-330。カッコイイだろ?」

 それでも俺にはごつく見えるぞ。反論したいが、カメラにうるさい彼の抗議が帰ってくることを想像し「いいんじゃね?」と感想を一つ。 携帯電話すら持っていない京助にとって使ったことがあるカメラはもっぱらインスタントカメラだ。電子器具に潔いほど疎い彼はカメラについて良く分かっていない。太一もそれを既知しているので、彼とマニアックな会話を成立させようなんて望んでいない。

「とりあえず、何か撮りたいんだよ。モデルになってよキョーちゃん」

「何が楽しくて同じ年の男撮影するんだよーおめーは」

 蝿を振り払うように掌をひらひらさせた。それでも彼は憤然とすることもなければ、落胆することもない。ケロッと何事もなかったかのように「言うと思った」と一言。

「そーいやー、お前はもう面談終わっただろ? 帰らねぇーの?」

 言葉の裏には、いつまで此処にいるつもりだ。早く帰れ。という本音が隠されている。

「俺は多忙だからね」

 ちかっと京助の眼球に光線が差し込んだ。太一の長い前髪を纏めたヘアピンが反射したのである。右側に、無造作に留められている女性ものの赤いクリップピン。太一がそれを髪に飾っても何の違和感が無いのであえて指摘はしない。

「でも今日はキョーちゃんとラブラブしてから帰宅しようかと」

「つまり暇なんだな? 時間を有効活用しないお前の高慢さが寧ろ羨ましく思うぞーぉ」

「はっはっは。そんなに俺は魅力的かい」

「自意識過剰ー? 痛いぞー発言もとい存在がー」

「その痛い人間を相手にする時間の余裕を見せ付けてくれる君が好きだね」

「括(くく)るぞー、首」

 カーテンをつまみこれでそこからぶら下げることを宣言する、と外を指差せば太一は相変わらずケラケラ白い歯を覗かせた。

 就職率・進学率共々それなりに良く、学力は上の中。趣があると聞こえが良く、どこもかしこも古ぼけているといえばそれも然り。素行の悪い生徒は殆どおらず、どこかおぼこい匂いのする学生が妙に多い。

 それが京助達の通う東高校。何故か『アズ高』と省略されるが、『ヒガ高』とは略されない。おっとりとした草食動物の集団に投げ込まれた珍獣のように、良くも悪くも京助は目立つ。

 黒い短髪が似合う端整な容姿と、ぼんやり間延びした口調。だが、決して行動は落ち着いているものではない。そのような中途半端なギャップを持ち合わせているからだろう。太一はひそかに分析していた。入学して約一年三ヶ月経過するが、この二年五組で浅月京助は何もしていないのに、いや、何もしなさすぎて浮いているのである。

 むっつりと不機嫌そうに黙り、一日を過ごす。クールでカッコイイと噂され、生意気と睨まれる。どんな人間からの期待も寄せ付けず、ただ飄々と・安穏とそこにいるだけ。好感を持てるポイントは存在しないのだが、嫌悪するところも見当たらない。かといえ圧倒的存在感を誇り、空気ではない。――つまりはよく分からない奴なのである。

 太一が好奇心で話しかけ、始まった二人の友情になにか不純物を混ぜた交友はずるずると蒸し暑い季節まで今のところ延長されている。

「悪い京助。今更だけれど、まだ長引きそうだから先に帰っていてくれないか?」

 突然教室に顔を出したのは京助の幼馴染の小田切修二だった。すっきりとした銀縁眼鏡が似合う爽やかな少年で、二人に比べて頭一つ分身長が高く、剣道で鍛えられた体は細身に見えてもしっかりしている。付け加え東高創立以来の秀才と呼ばれ、文武両・道有智高才の絵に書いたような優等生だった。

 自然とクラス委員に任命され、生徒会にも所属している。実際、要領が良いぶん正義感と真面目に大きく欠ける一面があるので、向いているのかどうかは分からない。

「おつかれ、って今までどこにいたんだよ」

「特別委員会ーぃ。緊急で生徒会が集められてんの。俺達ちゃらんぽらんと違って修二は忙しいから」

 優秀な幼馴染を参勝するわりには僻みも憧れもみせない様子で悠々としていた。

「あぁ……今日の全校集会の引き続きなんちゃらみたいな?」

 そりゃぁ、これだけの騒ぎが起きればねぇ。太一は肩をすくめて里子の席に視線を投げた。

 ――夏休みを間近にして、緊急で行われた全校集会。

 その内容は県内で多発している学生の自殺に関するものだった。多くの生徒は退屈に話を聞き流していた。「命を大事に」と力説する教師を眺め、「あぁ暑いナァ」「地球温暖化が進行するよ。クールに行こうぜ」など小言を巡らせ、冗談と小突きあいをしていた。だが、その集会と同時進行に出回りだしたのが「志摩里子が自殺未遂をした」という噂である。

 七月二日から一度も姿を見せない里子は完全なる音信不通となっていた。

 自宅にこそいるらしいが、家族ともろくに会話をしていないらしく、詳しい状況が全く掴めていない。

 今朝ニュースで報道された、先日十一日に転落し意識不明の重体と取り上げられた少女Aは里子ではないか。そんな噂まで立ち始めている。自殺と決定つけるには早い段階でも、転落による怪我を負ったことは事実であることが担任教師からも説明を受けた以上、覆(くつがえ)せることではない。

 そして、二年五組全員に緊急で面談が行われている。太一はそれを『取り調べ』と茶化していた。担任教師と副担当。おまけに刑事も一人立ち会って、狭い進路指導室で行われている。京助もそれには同意できた。

 志摩里子の名前を耳に入れると、まず連想するのがこげ茶色の髪を三つ編みおさげと、青白い肌である。それはいつだって生気を感じさせないほど、白い。

 修二も里子と親しかった人間の一人でもあるわけで、精神的なダメージは少なからずある。情に厚いやつなので、余計なことに首を突っ込んでいないかと心配になった。

「なんだかお祭り騒ぎだよね」

 どこか楽しそうな太一に修二が不謹慎を咎め椅子に軽く蹴りを入れた。

「つーか、そんなに話し込む話題があるのかぁー?」

「まぁ一応。てか、なんで太一も残っているんだよ」

「悪いか。キョーと愛を語り合ったら」

 強引に肩を寄せてこようとする彼を迷惑そうに京助は振り払ったが、修二はその間に更に割って入る。

「京助。早々に立ち去るといい。悪いが今日はお前を護れそうにない」

 真剣な面持ちで熱弁された。思わず絶句してしまい、太一に名前の訂正を求めることができなくなる。この過保護さはどこから来ているのかは知らないが「娘を大事にするお父さんかお前は」と思わず指摘したくなった。 以前太一が修二は京助の番犬だ。と揶揄していたことを思い出す。あながち間違っていなかったのかもしれない。兄妹のように共に育ったが同じようには成長しなかった。

「修二君さぁ、自分は一般的普通の人間です。みたいに装っちゃっているわけ? 人を変態扱いしないでくれる? 俺から言わせればその眼鏡こそヤラシイから」

「眼鏡に誤れ、全世界の銀縁眼鏡に」

 かけている人間じゃなくてあえて眼鏡か。どうにもずれているというか、捻くれているというか。不毛なやり取りに終止符を打つために強制的に閑話休題を申し出る。

「……話変えてわりぃーんだけれど、生徒会ってなんかやるつもりなのかー?」

「生徒会って言うより、俺個人が見舞いに行けと。怪我自体はたいしたことないらしいから面会できるそうだ」

 面談を終えて、彼女がクラスでいじめの対象になっていたわけではないと言うことが判明した為だそうだ。それにしても予想出来ないことの連続に戸惑うばかりである。

「とりあえず。俺戻るよ。じゃあな」

 あっさり教室から離れる彼を見送って、京助も席を立った。太一も付いていくつもりのようで帰り仕度を済ませた鞄を手に取る。

「俺さ、志摩っちとキョーちゃんって付き合っているんだと思っていた」

「なんだよー、藪から棒にぃー」

「キョーは女の子寄せ付けないだろ。でも志摩っちにはなんだかんだ優しいじゃん」

「そうは言ってもよーぉ。俺はあいつを恋愛対象に感じたことは微塵もねぇーぞー」

「それはそれで彼女、傷ついちゃうようなデレカシーのないコメントだねぇ」

「デリカシーな」

 廊下の窓から差し込むオレンジの光は太一の横顔を照らす。妙に幼く見えたが口にすると怒れる子犬になるので沈黙を護った。

「机、眺めてアンニュイな溜息も付いていたじゃん。まるで恋する乙女か生理中の乙女みたいに。……志摩っちの噂って結構多いんだよね。父親と上手く言っていないらしいとか、学生連続自殺の発症である高梨杏奈(たかなしあんな)と知り合いらしくて、その子の復讐をしようとしているとか、自分も後を追ったとか」

「……あいつがー?」

 情報通で、それも御幣が少ないことで有名な太一だがそのことに関しては疑わずにいられなかった。

「マジだよ。あの人の悪意とは無縁の志摩里子。噂だからどこまで本気かは知らないけれど、何もないところに煙はたたないって言うしね。……で、ぶっちゃけ一番聞きたかったことなんだけれどさ、京助ってもしかして『バネ脚ジャッキー』?」

「は?」

 意表を突かれ反論する以前に「分かっている」と微笑まれる。大きな掌が顔の前に掲げられ制止した。まるで『待て』といわれた犬のように。

「違うだろ? どーせ。機械音痴のお前にありえない話だもんな」

「機械音痴じゃねぇー。見放されているんだー」

 鼻で笑われたことに憤慨し、慌てて反論する。

「何に?」

「家電の妖精」

「馬鹿か」

 太一は腹を押さえて笑う。顔を真っ赤にして憤慨した彼がずかずか進むので慌てて心無い謝罪を。

「『バネ脚ジャッキー』は都市伝説だよ」

 なんだかんだ解説を挟む。ようは自分が話したいのだ。

「口避け女と同じ部類かぁー?」

「おっと、チョイスが古いねぇ」

 どこかのサイトを開き携帯電話の液晶画面をずいと突きつける。其処には白い壁紙に黒い明朝体の文字の羅列がずらりとあった。

「……えー……。

『バネ脚ジャッキー』の要求に答えると、一つだけ願いを叶えてくれる。

『バネ脚ジャッキー』の正体を知ろうとする者は、存在を消される。

『バネ脚ジャッキー』は全ての秘密を握る森羅万象(しんらばんしょう)・全知全能(ぜんちぜんのう)である。

『バネ脚ジャッキー』は人間でも怪物でもない。ジャッキーなのだ。

 ジャッキーは新しい都市伝説。史上最強の都市伝説。悪魔は裸足で逃げて行き、神ですらも味方につける。……怪奇だなーこれは」

「胡散くせぇだろ? でもよ、ジャッキーは『いる』んだぜ」

「見たのかーぁ?」

 太一は体つきのわりにしっかりとした人差し指を立てると、左右に振る。優雅にキザな演出は酷く不釣合いだった。

「ジャッキーに姿形はない。ジャッキーは『コール』と『メール』でターゲットとコンタクトを取るんだ」

「それじゃー簡単に相手を見つけ出せるんじゃねぇーのかーぁ? ハッキングとかで簡単に割り出せたりするんだろ? えーと、端末?」

「それがよ、ジャッキーはハッカーなのかクラッカーなのか分からないが、履歴のつく全ての機能に爆弾を残すんだ。メールの場合、開いて二時間経過すると携帯電話pc問わずにウイルスが発生して機能が完全に停止する。それを防ぐ為には、メールの内容、履歴を全て削除するしかない」

 ハッカーとクラッカーの区別が付かないのだが、そこは流した。後で検索しよう、と理解している素振りで頷く。

「相当巧妙な手だぜ? ネット警察も手が出せないって噂だ。ちなみに、こちらからのコールは一切できない。そもそもジャッキー事態が警察って噂もあるくらいだ」

 太一は新品の玩具を目の前にした子供のように目を輝かせていた。彼はもとより都市伝説や心霊現象などカラクリがあるもの、眼に見えないものの類が大好物なのだ。それらを推理するわけでもなければ、正体を知ろうとするわけではない。凡人には理解しがたい自分ルールを元に、とにかく研究するのである。

「俺もジャッキーみたいになりたいんだよ。なんていうか、あの存在が知られているのに姿がない感じ、すっげぇいいじゃん! こんな事件の全貌なんて簡単に分かっちゃうんだろうよ」

 ――お前くらい行動力のある奴ならできんじゃねぇーの。

 口内で呟くが言葉にしたら調子に乗りそうなので嚥下した。実行したときに背中を押したことへの責任は負えない。そして関わりたくない。

「で、なんで俺がジャッキーなんて噂が立ったんだー?」

「キョーちゃんの存在自体が胡散臭いからじゃない? 頭がいいのに何考えているか分からないし」

「それは悪態だと受け取るべきなのかぁー?」

「褒めているよ。俺は真似できないもん。協調性ゼロな感じとか」

「……むき出しの悪口かー?」

「褒めているだろ。日本人らしくない日本人。不満なのか?」

「……なんだかなぁ」

 ふと階段の踊り場に設置された大きな窓から覗く、新しく建設させる建物に眼をやる。細いパイプの上をひょいひょいと歩く大工は、高さに対する一切の恐怖が無いように見える。あまりの軽やかさに体重がないのかと錯覚するほどだ。

「なぁ太一ー。転落死ってことはそれなりに高さが必要だろー? アノ人とかー、今落下したら死ぬかなぁー」

 黄色いヘルメットを被った背中を無遠慮に指差す。その人物は白いタオルで汗を拭うしぐさが妙に似合う。広い背中からは頑強な筋肉をはっきりと伺えた。

「いや、そんなへましないだろ。大工なんだから。……と言うよりアレだけ鍛えられていそうだと骨折もしなさそうだな」

「どんな気分なんだろうなぁー。死ぬ前に見る風景ってのはぁー」

 小学生の頃、学校の屋上に酷く感動したことがある。ただ位置が高いというだけなのにまるで別世界のようだった。いつもと同じはずの街が、こんなにも素敵なものだったのか。ときめきを覚えてしまう。

 酷く釣り合いを失いそうになる場所。それが快感であり、恐怖でもある。もしかしたら何かの拍子に落下してしまうかもしれない。

――落ちるってどのような気分なのだろう。

 未曾有(みぞう)の体験を想像し、くすぐる好奇心を何度も押し殺した。

「屋上から見た、景色みたいに綺麗なのかなぁー」

「知るかよ」

 さすがの太一も志摩に聞け、という不謹慎な発言はしなかった。

 校舎から出るとオレンジ色の夕焼けに染まる街を一望できる。何度も見た光景だったが、相変わらずの美しさに京助は溜息を漏らした。地形がいくらか高いところにある高校のため、緩やかな斜面から町並を伺うことができるのだがこの夕焼けに染まる時間だけは『いつも』と全く違うものに見える。

 ――何の変哲もない住宅街を光が全て一色単にべた塗りした光景。

 どこか違う世界に迷い込んだかのような違和感と、見とれる新鮮な美しさ。今日に限ってそれを強く感じた。この街で、人が死んだと聞いたせいである。

「本当にさぁー、この街で人が死んだのか?」

「俺のこと信用していないわけ?」

「そうじゃねぇーつの。普通に俺達が生活して、普通にいつもと同じ時間が流れている。その中で、寸分違わない場所にいる誰かが死んだなんて信じられねぇー……」

「俺達と同じ歳の学生だもんな。ま、少なくとも高梨杏奈(たかなしあんな)は俺達と無縁の生活送っていただろうけれど」

「口を挟んで悪ぃーんだけれど」

 京助は申し訳なさそうにおずおずと挙手した。

「やっぱり知らないよね」

 呆れた、という目つきはいつものことなのでさほど癪にならない。

「有名人?」

「ある意味、な。モデルだよ。ティーンズ雑誌のモデルだけじゃなくて、ヌードモデルも併合してやっている」

「マージでーぇ!」

 ヌードという言葉に過剰反応することは疚(やま)しい気もしてしまうが、女性とは異なる染色体がその単語に反応する以上しかたがない。だが、太一は即座に呆れるというよりも悪戯に成功したというような、意地悪い笑みを作った。

「キョーちゃんのえっちぃ! 誰がエロ本の話をしたよ! 絵画だよ、斜体のヌードモデル。芸術の世界なり! ピコッソだね、ピコッソ」

「ピカッソなー。いや、ピカソか」

「へんっ! キョーのスケベ」

「男はみんなそれなりにはスケベだろーが」

 まぁ、AVじゃないから犯罪ではないのだよ。説明を再開した太一は自慢げに脳内の博識を表すかのように両手を広げた。

「さほど絵画に詳しくもない俺が分かるほどに有名な絵師が揃いも揃って高梨杏奈に群がるんだ。児童ポルノ法に引っかかるかもしれないリスクをわざわざ背負うんだぜ? それだけ魅力的な裸なんだろうな。週刊誌がそれを面白おかしく公開して以来、彼女は一時期有名人! 俺も見てみたいよ。そんなに良いものなのか」

 思わず素直に驚嘆(きょうたん)を漏らした。

「描きたがられる裸ねぇー」

 想像してみるが自分好みの体系の女しか想像できない。なにか彼女にしかないものでもあるのだろうか。若い娘の肌と曲線。麗(うら)らかだとしても、犯罪的な臭いのするあやふやな境目だ。

「いつ頃の話なんだー?」

「二ヶ月くらい前のことだ。ホームレス連続暴行事件と入れ替わるように話題が消えたよ。こっちの騒ぎも学生だから、学生の頻度の低下を汚らしいおっさんたちが連日テレビで評価している」

「品格ねぇー。んなもん生まれたときから持ち合わせている気質や環境ついでに育ちの問題じゃねーのか」

 ちげぇねぇ。太一はにやりと口の端を歪めて笑う。それは彼の癖のようなものだ。

「だろ? で、話を戻すが、一躍有名人となりバッシングを受けても屈強に立ち向かう高梨杏奈は七月一日に死んだんだよ。自殺の可能性が限りなく高いといわれている。転落死。隣の南高の生徒だ」

「詳しいなー。さすが情報屋と恐れられる相模太一君。君の辞書にプライバシーという言葉は存在しねぇー」

「キョーちゃんは無知も甚だしいよね」

「一応この街で転落事件があったことは知っていたよ。詳しいことは小耳に挟んだかもしれねぇーけれど、右から左に流したなー」

 将来これで大丈夫なのか?

 心底不安を覚えたのは、言うまでもなく太一だ。修二が過保護になってしまう理由も分かる気がする。あまりに頼りなさすぎる。放っておけば、溝に嵌って一夜明かしてしまうのではないだろうか、と心配するくらい信用できない。

 ふと国道脇の歩道に出たときオレンジ色の夕焼けに、灰色の憂鬱な雲が空を染めていることに気が付いた。

「こりゃ、夕立来るかも……。――つか、あの方向だ……」

 太一がコンクリート色の大きな雲を示した。

「高梨杏奈の死体があった廃墟ビル」

 へぇ、とも、そうなのか、とも、言う間も無く、二色の空に金切り声のような女の声が轟いた!

 道行く人々が立ち止まり、周囲を見回す。京助と太一が顔を見合わせた。

 ――そのとき!

「助けてっ!」

 二人同時に背中から突き飛ばされた! 正しくは、突き飛ばされたのは京助だけで

「……どーいう状況?」

 太一は飛び込んできた少女に抱きつかれていた。それも背骨を折り曲げられるような弓なりの体制で肩に顔を埋められている。

「お願い! 助けて!」

「え、あの! すいません! 嬉しいけれど誰!」

 ぽかんと尻餅をついた状態の京助をよそに、パニックになった太一は抱きつく少女の顔を覗おうとするが、まるで拘束するようにきつく抱きついてくる彼女の顔は見えなかった。傍から見れば相当奇妙な体制で、何かに怯える少女に声をかけている。

 チェックのプリーツスカート。襟ぐりに紺のラインが二本入ったブルーのシャツ。東高校のセーラー服と違って最新のデザインであるそれが南高校のものというのは、京助から見ても分かった。長い茶髪を巻き毛にしている少女はがたがたと震え、やがてずるずると膝を折る。

「おい!」

 京助が慌てて体を支えたが、衰弱したようにぐったりとした。

「お前……月館麻緒?」

「知り合いかぁ?」

「中学の同級生だよ」

 焼けた肌に長い睫が印象的な少女だった。所謂ギャル系のメイクを施してあるかんばせは青白く変色している。

「あ、あそこから、突き飛ばされそうになって……!」

 か細い指が先ほど二人が通過したばかりの歩道橋を指差す。

「……突き飛ばした奴は見たか?」

「わかんない……。いきなり、背中に静電気みたいな痺れがあって……。びっくりして転びそうになったの。そしたら髪の毛掴まれて道路に落とされそうになって……! 叫んだから、逃げたみたい」

 何人かの通行人が三人を遠巻きに見守る。京助は麻緒の背中を摩りつつ、辺りを見回した。

「嘘だろ。こんな明るいところで」

 確かに歩道橋に人影は一切ない。しかし国道沿いであるだけ交通量はかなりあり、歩道には通行人がいたのだ。

(なんて大胆な)

 驚嘆以上に恐怖がこみ上げる。

「すみません、警察……」

 太一が近くの主婦に頼もうとしたとき、麻緒の携帯が振動する。その刹那、彼女の表情はさらに恐怖の色を増した。

「いや、いやぁああ!」

「おい! どうしたんだよ!」

 頭を振り乱したことで胸ポケットに入れていた携帯電話がこぼれ出た。それを遠ざけようと壊れることも気にせずに脚で蹴るように追いやる。淡い桃色のスライド式携帯電話はコンクリートを滑った。

 パニックを起こした麻緒は両手で髪をぐしゃぐしゃにかき混ぜ、狂ったように暴れだす。太一が懸命に抑えこみ、何度も落ち着けと連呼したが耳に届いている様子はなかった。

「……」

 京助は携帯電話を拾い上げた。本体より大きなストラップのぶら下がったそれは、今時の女子高生らしい装飾が施されていた。なおも振動している。液晶画面の表示は公衆電話だ。わけもなく、背筋が凍りつき嫌な感じがする。

「……もしもし」

 人の電話を使うことに引け目は感じたが、それを耳に押し当てる。

「……」

 応答はない。鼓動が暴れだすように早くなった。

「誰、ですか」

「アーア。死ナナカッタ、ネ?」

 沈黙の後に、耳に飛び込んできたのは、間違いなくボイスチェンジャーだった。

「おい! まさかお前!」

 勿論反応はなかった。一方的に切られる。リダイアルに意味がないことを知りながらも掛け直す。「その番号は現在使われておりません……」女性アナウンスが、諦めろと言わんばかりに響く。

「……バネ脚、ジャッキー?」

 しばらくは、月館麻緒の鳴き声と、太一の宥め。集まってきた野次馬の雑音がその場を埋め尽くす。

 京助は携帯を握り締めたまま、呆然と立ち尽くした。

 Aspect 朝比奈蓮太郎

「こりゃ、魔王でも降りてきそうな空だな」

 特に意味のないことを口にした。オレンジと灰色のコントラストを描く君の悪い空の下。ホラースポットと呼ばれる廃墟ビルで煙草を不味そうに銜えている。

 彼は断じて廃墟マニアなどではなく、私用で訪れることはまずありえない場所だ。

「何を思って此処を選んだのかねぇ」

 高梨杏奈の死体が発見された廃墟ビル屋上。そこに、刑事・朝比奈蓮太郎は不機嫌そうに君臨した。

 七月一日。高梨杏奈の死体が発見され、九日後の七月十日は志摩里子が転落し、怪我をした。志摩里子は自殺ではないと供述していると担当刑事から聞いていたが、実際このような場所に用事があるわけもない。

 くゆり紫煙を泳がせて、考える。

 ――人間は何故、自分という生き物に対して、殺人を犯すのだろうか?

「理解できねぇ」

 はん、と鼻で笑うように即答した。きっと自分のような人間は一生を費やしても分からないだろう。

 学生時代に励んだ部活動での無理な筋力トレーニングが影響して身長が伸び悩み、現在でも己の身長をコンプレックスに思っている。付け加え二十八歳には見えない童顔のせいで警察と名乗っても信用されないことが多い。

 蓮太郎が現場検証で何度も訪れたこのビルに来たことには、深い意味なかった。別段眺めが良い場所ではない。ありきたりで地形が高ければどこからでも見えるような街の風景だ。

 すぐに見飽きてしまい、暗くなる前に署に戻ろうとその場を後にする。足場の悪い階段を下りながら、たった十六歳で命を投げた少女のことを、ぼんやりと考える。

「俺が十六のときか」

 本日は梅雨明けを観測していないにも関わらず、体感温度をついに越えた猛暑。夕暮れ時の現在でも異様な湿度と熱気が鬱陶しい。

 べたべたと体に張り付く衣服に苛立ちながら、高校時代のことを回想した。当初悪餓鬼の代名詞だった蓮太郎は過激な性描写がある漫画を古本屋から入手し、ブックカバーを使って図書室の本とすり替える悪戯を友人と共に仕掛けたことがあった。だがその日のうちに犯人は彼と割り出された。理由は「普段図書室になんか来もしない朝比奈君が、難しい本に触れていたから」という目撃情報によるもの。友人は裏切り、自分だけが反省文というお咎めを喰らった。勿論言いだしっぺなのだから自業自得である。

「馬鹿なことしていたなぁ。俺」

 毎日が楽しかったという記憶はない。だが、それなりに青春を満喫していた。馬鹿なことをして、笑って、怒られて、喧嘩して、恋をして……。死のうと軽はずみに口にしたことはあったかも知れない。しかし、自殺したいと考えたことはなかった。

「俺と比較しても、何の意味もないけれどよ」

 がりがり爪を立てて頭を引掻くのは癖である。禿げるからやめろ、と上司の制止を現在進行形で振り切っていた。

 担当していた、動物の死体遺棄事件の犯人を昨日現行犯で逮捕した。そこまでは良いが、犯人の動物担当葬儀会社のサラリーマンがわけの分からない発言を連発して言い逃れをしようとたいそう粘ったのだ。そのせいで取調べに丸一日費やしたのである。結局、蓮太郎のキレかかった形相に負けて、葬儀費用を安くする為に骨の一部だけ抜き取って、残りの肉片を捨てたと供述した。「さっさと言えよ!」盛大な怒鳴り声は署の外まで響き、上司に頭を引っ叩かれた。

 空気がどんよりと澱んで見える廃墟から出ると、なおも蒸し暑い空気が待っていた。やかましいヒグラシの声にいらいらしながら車のエンジンをかける。顔を上げると『keep out 立ち入り禁止』と書かれた黄色いテープを見つめる少女を見つけた。

「……?」

 右側に纏められたサイドテールの髪。少し色素の薄い瞳と髪。紺のサマーセーターにブルーチェック柄のプリーツスカート。それは南高校の独特の洒落たデザインの制服だ。

 薄汚れたスニーカーをつっかけるように履き、缶バッチの付けられたリュックサックを背負っている。中身が殆ど入っていないのか、ぺたんこに等しい。

 右手に色鮮やかな花束を持っていた。そこで合点がゆく。

「高梨杏奈の友達か?」

 話を聞こうと車から出ようとしたとき、少女はいともたやすく黄色いテープをすり抜ける。

「ちょ、おい!」

 慌てて駆け寄ると、青ざめた少女の顔があった。怒られること承知の上で望んだことだったのか、すぐにテープから出て「ごめんなさい」と頭を下げる。潔さに呆気にとられれた。

「えーと、あーと……あの、警察の方ですよね?」

「そうだ」

 本来、事件現場に踏み入るなど言語道断なのだが、今にも泣きそうな表情の少女を怒鳴りつける気にはなれなかった。できる限りの愛想を用いて、できる限り穏やかを装って問う。

「どうしてテープを越えたんだ? 見えなかったわけではないんだろ?」

「えーと、私、どうしても杏奈が最後に見た光景を見たくて……」

「悪いが、中に入れるわけには行かないぞ」

「分かっているんです。でも。あーと、その……。信じられないんです。杏奈が自殺なんて、どうしても」

 

 少女は鏡友花と名乗った。

 蓮太郎の所属する刑事課強行犯係では、学生の連続する転落自殺の事件について完全に捜査が滞っていた。

 全国各地で発症する連続墜死事件。発症と言われる高梨杏奈の遺体が発見された七月一日以降、全国で十件も転落自殺事件が起こっている。十件全員が命を落としたわけではない。しかし、たった数日間でこれほどの影響を及ばした。もっとも恐ろしいことは、現在事件に関係した学生十一名全員の関連性が学生であるということ意外全くないということだ。

 奇怪な『連続殺人』ならぬ、『連続自殺』。世間がもっとも注目したのはやはり高梨杏奈の件だった。何故、彼女の死が影響を及ぼしたのか。何故、自殺したのか。など推測が飛び交っていた。

 南高校の生徒ならば何度か事情聴取を受けているかもしれない。しかし猫にもすがる思いで、蓮太郎は鏡友花に話を聴かせてもらうことにした。

「君と高梨杏奈さんは」

「えーと、クラスメイトです」

 廃墟ビルから移動し、二人はファミリーレストランに入った。よく効いたクーラーが少し肌寒い。夕飯前の中途半端な時間だったが、涼みに来たと思われる客でテーブルは殆ど埋まっていた。娯楽施設の少ない街であるため、自然と若者が集まる場所は限られているのである。

「えーと、刑事さんとお話しするのは三度目なんですよ」

 一度目は学校、二度目は今みたいに呼び止められて。彼女は指折り説明する。そのしぐさは妙に落ち着いており、声をかけたときのようなパニックぶりはもう覗えなかった。

「あーと、樹要(いつきかなめ)さんという刑事さんでした」

「あぁ。部下だよ」

 情報を部下に先回りされている気分はあまりよいものではない。舌打ちした蓮太郎を怪訝そうに見つめ小首を傾げたりするたびに、サイコロ装飾の髪ゴムが可愛らしくころんと動く。

「悪かったな、何度も協力してもらっているみたいで」

「いいえ。早く解決してほしいですから。それに、えーと……私のほうこそ、すみません」

 蓮太郎は苦笑いする。まるで秘密機知を守っているガキ大将のような気分になったからだ。

「行かせてやりたいのは山々なんだが……。話が収まったら解放するだろうからそれまでは我慢してくれ」

 友花は素直に頷くと、少し可笑しそうに笑った。怪訝に顔をしかめれば、言い訳をするようにあわてて口ごもる

「……えーと、もっと怒られるかと思いました」

「気持ちが分からないわけじゃない。……俺もやったことがあるんだよ。刑事になる前に黄色いテープを潜ったこと」

 啜ったアイスコーヒーが想像以上に苦かったことと、思い出したくない記憶の苦さに頬がたいそう歪んだことだろう。友花は口に含んだオレンジジュースを噴出す勢いで驚いていた。

「あの時、熊みてぇな刑事に止められて殴られるかと思ってひやひやしたよ。注意だけで終わったのは奇跡だぜ」

 ――色鮮やかな花を片手に、テープを潜る。死体となった人間の、最後に見た景色を見る為に。どんな思いで死んだのかを、少しでも知る為に。

 月日は流れて、立場は逆になった。友花があの日の自分と重なり、どうしようもない虚しさに苛まれた。

「……そうか……。あれからもう、七年も経ったのか」

「え?」

「いや、なんでもない。ところで、君はどうして高梨杏奈が自殺じゃないって思ったんだ?」

 グラスの中の氷をストローでつついていた友花は自信なさそうに口ごもる。些細なことでも良いと促すまでしばし黙っていた。

「えーと、あーと……杏奈は、人に理解されにくいところはあるけれど嫌な子ってわけじゃないんです。私も仲良くなるのに時間がかかりましたし。今では私の一番の友達だったんです。

 でも、ちやほやされる性格じゃないっていうか、自分から孤独を好んでいる閉鎖的な雰囲気とか、やっぱり理解されなくて。いじめってわけじゃないんですけれどそれなりの嫌がらせは受けていました。……全く相手にしていませんでしたけれど」

 これまでに多く報告を受けていた事実だったが、高梨杏奈という少女の人物像は安易に想像が付く性格ではなかった。正直、錬太郎は友花のように仲の良い同級生がいたことに驚いている。

「えーと、杏奈は何があっても自殺なんてしない気がするんですよ。以前いじめについての授業で、学生の自殺を取り上げたビデオを見たときに『自殺するのに遺書をわざわざ書くとか意味わかんない。私だったら面倒だから自殺なんて絶対しないわ』って言っていました」

「……なんだそりゃ」

 ひねくれた性格ということは薄々わかっていたことだが、指摘せずにはいられない発言である。

 高梨杏奈という少女は、本当に十六歳の娘なのだろうか。彼女に全く共感できないわけでもないのだが、しばし疑問に思ってしまう。

「……自殺って、何でするんだろうな。人間なんていつか必ず死ぬじゃねぇか。わざわざ手を下さなくたって、必ず」

「そりゃあそうですけれど」

 友花は困ったように笑う。

「生まれたときから死ぬことが決まっているなんて割り切れるのは、強い人間だけだと思います。みんながみんな、そんなに単純に白黒つけられるわけがない」

「……確かにそうかもな」

 世話しなく働くウエイトレスは、自分たちの脇を通過するたびに奇妙な組み合わせを一瞥する。援助交際を疑われたのかもしれない。長居はしないほうが良いと判断し氷で薄まったコーヒーを啜る。

「えーとあーと。なんか、刑事さんって変わっていますね」

 微苦笑のような表情を作ってドリンクバーのお代わりに向かう。その際、蓮太郎のグラスも手に取ってくれた。

 友花は顔立ちこそ普遍的で特徴はないが、全体的に少女特有の可愛らしさがある。容姿と反する落ち着きと気丈な振る舞いの違和感を覗けば、ろくに顔を覚えることができないほどに普通な娘だ。

 今日会話することが初めてではないように彼女には警戒心がない。事情聴取も回数を重ねれば慣れるものなのだろうか。

 一端口火を切った彼女が閉口したことから、おそらくもう情報はないということなのだろう。蓮太郎が会計をするために伝票に手を伸ばしたとき、彼女がぽつりと呟く。

「えーと……クラスの子に、月館麻緒って子がいて……杏奈がああなってから、ずっとおかしかったです」

「そりゃクラスメイトが亡くなったら」

「違うんです!」

 立ち上がり、必死の形相で詰め寄った。面食えば、周囲の目を気にしたのかすごすごと引き下がる。

「……。噂では『バネ脚ジャッキー』に関わったらしくて。詳しくは全く知らないんですけれど」

「『バネ脚ジャッキー』……?」

(おいおいまたかよ)

 記憶を辿れば案外浅い地層にそれはある。「ホームレス連続殺人事件」の真相をつかんだ前代未聞の都市伝説。同僚から聞かされた話だったが、県外のホームレスに暴行を加え逮捕された学生は『バネ脚ジャッキー』による情報提供で逮捕されたらしい。本来なら感謝状を贈るところなのだが、ジャッキーがおそらくハッカーでありクラッカーと思われている。ジャッキーを良く思う警官はいない。都市伝説であるそれを蓮太郎も信用していなかった。

「えーと、ご存知ですか? 『バネ脚ジャッキー』」

 都市伝説であることを説明すると馬鹿にされると思ったのかおずおずと口にする。「『口裂き女』の巻き起こした社会現象を飛び越さん勢いだからな」説明を制止させた。

「ばかばかしいと否定できないのは、完全に眼に見えないからだろうな。一蹴しようとも説得力がない」

「今の社会では、変質者よりもネットウイルスのほうが恐ろしいと感じる人間もいるくらいですし。えーと、でも、ジャッキーは『ヴァンダル殺し』って呼ばれているから、ファンがいたりもするんです」

「ヴァ……。なんだそりゃ」

「ヴァンダルです。えーと、アクセス制限の突破やその制御機能の破壊を特に好むクラッカーをアタッカーっていうんですけれど、アタッカーのうち、サイトの荒し行為を行う者を『ヴァンダル』って呼ぶことがあるんです。あーと……『荒し』の意味とかはわかります?」

「さすがにそれは分かるよ。一応刑事だから」

 おっさんといえども。と付け加えないのは二十七歳の意地だ。彼女は曖昧な相槌の後、相変わらず自信がなさそうに「えーと、あーと」と二の句を続けるのに時間を有する。

「目立つメールボムやスパム投稿を続けた人が、とんでもないウイルスに感染させられて、血祭りにあげられたって噂があって」

「血祭り?」

「えーと、あーと、多分、ネット上に赤裸々(せきらら)に個人情報を流出させられたって意味だと思います。それで、「ニュービーの分際ででしゃばるな。母親の乳でもしゃぶってマスでもかきやがれ、童貞野郎」っていうメールが届くとか」

「君、それ人前で発言するの止めなさい。うら若き少女が出しちゃいけない単語が並んでいる」

 なんだか居た堪れない気分になるのは何故だろうか。「これぐらい普通ですよぉ」年端も行かない少女が首を傾げ肩をすくめるので、世も末とつくづく聴覚で体感した。

「えーと、刑事さんはジャッキーが人間だと思いますか?」

「そりゃ、人間だろ?」

 他に選択肢があるものか。グラスに口をつける。口内に流れ込んできた小さな氷を噛み砕いた。ジャッキーは新種のコンピューターウイルスという噂もあるが、その説は全く信用していない。意思のあるウイルスが存在してたまるか。

 多少の非合法を恐れず目的に到達する。だが自分を正義だと信じている。社会を騒がせることを快楽とし、見下しているような気分になる。

(……どうせそんな連中だ)

 蓮太郎は自分の想像図を描き、あまり話しの合いそうな奴ではないと思い込んでいた。『バネ脚ジャッキー』という単語を聞くだけで思わず嫌悪感が露になってしまう。もしかしたら『ジャッキー』を名乗るだけあって女性かも知れない。ただ考え付くことは何台もあるpcに埋め尽くされた薄暗い部屋で、にたにた笑う卑しい姿だ。

「えーと、あーと、最初はジャッキーのことを意識していなかったんですけれど、最近までは結構好きだったんです。怖い話じゃないし、願いをかなえてくれるっていう噂もあったから。でも、今は」

 からんと、氷が溶ける。二層になった友花のオレンジジュース。もう手をつける気がないのか、手元から離れている。

 何故か、この沈黙が降りた瞬間に彼女の周囲のみ、ぞくっと身震いするほど冷たい空気を纏っているように見えた。それほどに、彼女は何か気迫のようなものを纏っていた。

「ジャッキーが杏奈を殺したんだって……思っています」

 Aspect 浅月京助

「……あぁ。じゃーちゃんと家まで送ったわけねー」

 京助は電話片手に連日の部屋干しで嫌な匂いのする洗濯物を畳む。受話器の向こうの太一はまだ外にいるようで、車の騒音や電車などの雑音が響いている。

「もう、あいつの母親しつけぇの! 前から知ってはいたけれど、ありゃぁ異常だね」

「教育ママゴンなのか?」

「違う違う。なんつーか、ギャルママ? 友達親子なんだよ。仲がいいのは否定しねぇけれど、だからって「犯人は捕まえてくれたの?」とか、「どうしてもっと早く気が付いてくれなかったの?」って俺に言うことなくねぇ?」

 太一の声真似が似ているかどうかは分からないが、安易に想像できた。妙に可笑しくて笑ってしまえば、こっちは本当に疲れたんだ! と憤然としている。

「悪い悪りー。了解。お疲れ様。また明日な」

「おう」

 パニック状態にあった月館麻緒を宥めるのには時間が掛かった。京助も太一に連れ添い麻緒を自宅に送ると言ったのだが、彼が首を縦に振らなかった。どんな刺激も与えないに越したことはない、友人である自分だけが付き添うと言ったのである。

 不明瞭な説明だったが、この電話で意味が分かった。人相も愛想も悪い自分が付き添ったのでは彼女の母親に何を言われるか分からない。

 面倒事に巻き込まれたくはなかったが、押し付けてしまった気分になり、思わず罰の悪い表情を作た。最後の洗濯物を畳み、生乾きのものはコインランドリーで乾燥機をかけるべきか否かしばし考える。ここ二回連続、乾燥機を使うために外に出て夕立に見舞われている。

 自宅の乾燥機は何故か水を吐いて壊れた。だがもっと恐ろしいことに、近所のコインランドリーの乾燥機を一つ壊してしまった経験がある。コインを入れた瞬間に真っ白い煙を吐いて、小銭の投入口から大量の小銭を吐き出したのだ。思わす怖くなって逃げてしまった。それ以来一番近所のコインランドリーは使わないようにしている。

 とことん電子危惧に嫌われる京助を見放していなかったものといえば、固形電話だった。呼び鈴が正常であることにありがたみさえ感じる。

「はい、浅月ですがぁー」

「ちゃお!」

 日本ではあまり聞きなれない挨拶である。鼓膜を揺らしたのは、ハイテンションな低い男の声だった。悪戯だろうか。眉間に力を込めればざわざわと煩い背景。その聞こえてくる全ての言葉が日本語でないことは確かだった。

(あぁ、なるほど)

 項垂れるように溜息を付き、頭を抱える。名乗らなくてもいい。相手はあいつしかいない。

「いやぁ、俺が今どこにいるのか分かる? 分かる? 分からないよな? どこでしょーう?」

 誰だ。なんて改めて聞くつもりは無かったけれど問わせる時間も与えさせない言葉の連携。電話回線を通さずに目の前にいたら思わず拳を振り上げたくなる。苛立ちが下腹に響いた。

「……何の用ー?」

「おうおうおうおう! 相変わらずクールドライだねぇ。カラカラカラカラのかっぴかぴかぴかぴに乾いていやがる。せっかく電話してやったのに……って、あぁ! お前今受話器置こうとしているだろー!」

「何で分かるんだー!」

 未だにコードに繋がっている埃被った受話器からは「にひひひひ」と電波障害を思わすような、低い笑い声がした。

 この男、つまり、家主であり叔父はたいそうマメで気の聞く男だが、度を越したイタズラを平気で仕掛ける……京助から言えば面倒くさい奴だった。自宅に監視カメラの一台や二台仕掛けて、京助を驚かせたりするような、すこぶる面倒くさいことを好みそうなので思わず身震いしてしまう。

「お前のことなら、おじさんなんでも分かるよー。今日履いているパンツの色とか」

「……」

「あ、引いた? もしかして引いた? ねーけいちゃーん」

「おーい。どうせ国際電話なんだろー。早く用件を述べろー。迅速、かつ簡潔にー」

「へいへいへいへいよー。興味無しですか。関心ゼロですか。無味乾燥ですかー」

「酔っているのかーぁ?」

「正気だ。めちゃめちゃめちゃめちゃに」

 受話器を通して匂いを感じることはできないのでなんとも判断できないが、正気であるらしい。マシンガントークは全くの余地を入れない。慣れていることとは言え、電話の向こう側の男と同じテンションでの対応は彼にとって無理難題なことだ。

「仕送り、足りているか?」

「なんだよー。急に気持ちわりー」

 ソファに座りテレビのリモコンで電源を付けた。プツンと音が鳴って、電源が切れた。思わず薄ら笑いと絶句をしてしまう。受話器に拾われないように呟く。

「……ブルータス。お前もか」

「あ? なんだよ、何か言ったか?」

「なんでもねぇー。……仕送りだろ? 別に足りているよ」

 電化製品を買い直して貰うという考えが浮ばないのは、どうせまた壊れると諦めているからである。

「自炊しているのか?」

「まぁ。買ってくるのが面倒くさいし。家事嫌いじゃねぇーし。つかなんで分かるんだっつーの」

 ははっと笑う叔父の、情けなく垂れ下がった眉毛を思い出し自然と頬が緩んだ。

「生活費、誰が払っていると思っているんだよ。妙に費用がかかっていないからな。市販の弁当生活よりも自炊のほうが重ね重ねしていると安さが眼に見える」

「あー。そういうことー。俺はさっきからあんたに監視されていそーで気味が悪くて仕方が無いんだけれどねー」

 室内の蒸し暑さは異常で、もしかしたら外のほうが涼しいかもしれないと窓を全て開放したのに風は一切ない。溜息を吐いた瞬間に、またしても「元気出せよ」と声をかけるかのようなタイミングで黒一色の液晶画面が急に活動しだした。深夜に同じ現象が起きたら只のホラーである。

「もっと、迷惑かけていいんだぞ」

 京助は仰ぐ団扇の手を止めた。急に冷え切った空気に包まれたかのように背筋を硬直させる。きっと受話器の向こう側の男も、あのにやけた面構えを引き締めたに違いない。

「わがままを聞いてやれるくらいの余裕はあるんだ。そりゃぁ、仕事柄傍にいてやることは殆どできないが」

「あのさーぁ」

 無理にでも話を遮る。それは、聞きたくないという明らかな拒否表明だ。

「俺が、アンタにそんな言葉を求めると思ってんのかー?」

「……」

「悪いけれど、あんたはまだ若いだろー。俺みてーな餓鬼がいるとバツイチと勘違いされるぞー。高校生のコブつきなんて、寧ろコブじゃなくて腫瘍だからなー。……たまには日本帰ってきたらどうだー? ここはアンタの家だろー?」

「んー。まぁ大人にはいろいろ事情があるんだよね。それに、家ってものは買った者じゃなくて、住んでいる人間こそ『家主』にふさわしいと思うんだよね」

 あぁ言えばこういう、減らず口。初めて血の繋がりを感じDNAの恐ろしさに震えた。

「そのうちまたこっちから連絡入れる」

 そしてあっさり回線は途絶えた。定期的とはいえなくても、たまに掛かってくるこの電話は京助を繋ぎとめる。そのことには大きく感謝していた。

「早く結婚すりゃーいーのに」

 ろくに日本にいないくせに一軒家を所持する男。女性関係の話題は卑猥なことしか話し合ったことがない。腹を割って話せる相手ではあるが、照れくさいのも正直なところだ。

 一息つく間に再び呼び鈴が鳴る。言い残したことでもあったのだろうか。だが予想に反して「ヤァ」飛び込んできたのは例の如くのボイスチェンジャーだった。これまた日本では聞きなれない軽快な挨拶である。

「無視カ硬直カ、眼ニ見ミエルネ」

 二日ブリ、と丁寧に名乗り出る。私ハ『バネ脚ジャッキー』と。

「決断ハ決マッタカイ?」

「意味がわからねーよ、何もかも不明瞭すぎて暗中模索(あんちゅうもさく)もいいところだー」

「ハハ、答エニハ及バナイ返答ダネ?」

「……あんた、俺に何を望んでいるんだー?」

「ワオ、思イツカナイノカナ? 随分ト怠慢ナ脳味噌ダ。正常ニ機能スルコトハアルノカナ?」

 かっと頬を赤く染めた。がらにもなく罵倒しようと口を開けても、弱みを握られている以上従うことしかできない。畜生と歯噛みする。

「マァイイ。高校生ノ連続転落事件ノ存亡ヲ……高梨杏奈ノ死ガ自殺デ無イコトヲ公表シロ」

「最初からそーいったらどーなんだよー。回りくどくて、合理的判断にかける奴めー」

「合理的判断ナド求メテイルワケナイダロウ? オマエノヨウナ愚図ニマカセル仕事ナノダカラ」

「都市伝説様は何様のつもりだよ? てめーで何もせずに、人への司令塔はそんなに遣り甲斐があるのかー?」

 さぞ気分がよろしいようだ。こっちは掃き溜めから上を見上げすぎて首が痛ぇんだよ。その悪態もナラバ首ヲ捨テレバイイ。とバットで打ち返されそうなので心中に抱く。暑苦しさで悶えていた数分前が嘘のように、現在背筋は凍り鳥肌が立っている。

「私ヲ気ニスル有余ガ貴様ニアルノカ? 指定サレタコトスラ満足ニコナセナイクソッタレノガキガ」

 これほどにない罵詈雑言(ばりぞうごん)を剥き出しに続く会話の中で、懸命に自分の感情を押し殺す。さもなくば、「殺してやろうか」など思ってもいないことを口走りそうなのだ。

「……なー、あんた」

「ジャッキーダ、クソ餓鬼」

 ああ殴りたい。切実な願いが拳を形成しても、電話を殴りつけたところでその先にあるのは虚しさだ。

「……ジャッキーは、どうして事件に首を突っ込む」

「最強ノ都市伝説トシテノ立場上、当然ダ」

「ならば、高梨杏奈にこだわる理由は? 俺にとっちゃ知りもしない人物なんだぞ」

「コダワッテイルワケジャナイ。オマエニシカ出来ナイ事件ハ現在コレダケダカラダ」

「……高梨杏奈が自殺の可能性は」

「アリエナイ」

 一方的に続けられる。釈然としない、するわけがない。淡々と続く会話は台本を読み合っているようなものだった。まるで挨拶を交し合うことのように。

「月館麻緒を殺そうとしたのは、お前か?」

「……誰ダ?」

「はぁ?」

「私ハ知ラナイ。ナンノ話ダ」

 面食らって、思わず受話器を耳に押し当てた。ボイスチェンジャーが相手であるため、感情は分からないが嘘をついているようには思えなかった。というよりも、嘘をつく必要がないように思えた。

「……ドウセ、『落下姫』ノ仕業ダロウ」

 また変な新しい単語が出た。頭を抱えれば、「私ノパクリ都市伝説ダ」短く説明を述べてくれた。そのことに関して触れられたくないのか、さっさと二の句が続く。

「私ノ目的ハ志摩里子デモアル」

「は?」

「アレハ狙ワレテイル。彼女ハ落トサレタ」

 鈍器で殴られたような衝撃が走る。死んではいないと二の句が続いても、言葉は詰まったままだった。指先が一気に冷たくなり、全身から血の気が引いた。

「今生キテイル以上、狙ワレ続ケルダロウ」

「ちょっと待てよ。自殺や事故じゃねぇーって言えるだけの理由があるのかー?」

「ダカラ、狙ワレタト言ッテイルダロウ。馬鹿カ」

 里子は京助が知る以上、人の悪意とは関わりなく生きてきた。他人から殺意を持たれること事態想像できない。京助と同じく「君子危うきに近寄らず」体質の彼女は自ら危ない橋を望むことはまずありえないことなのだ。

「高梨杏奈ノ死亡現場。志摩里子ハソコヲ自分ノ事故現場トシテヌリカエタ」

 ジャッキーは悠々と解説した。中途半端なことに、同じ住所・同じ廃ビルでも実際に彼女が落下した場所と彼女の転落場所は大きく違うということ。高梨杏奈が墜落したのは屋上の東側。一方、志摩里子が落下したのはそこから十メートルくらいずれていること。――何故そんなことを知っているんだよ。遮りたいが、何を返されるかわからないので嚥下する。

「よく調べあげたな」

「天上(てんじょう)天下(てんげ)・唯我独尊(ゆいがどくそん)・森羅万象(しんらばんしょう)・全知全能(ぜんちぜんのう)ノバネ脚ジャッキーダ。アタリマエノコトダヨ馬鹿ナ学生ト一緒ニスルナ胸糞悪ィ」

 脳内ボルテージの「殴りたい」が、メーターを振り切った。「とび蹴りしたい」に昇格だ。左腕手首を絞殺するかのような勢いで握った。脈の鼓動を感じながら、今にも噛み付きそうな思いを慰める。

 太一から説明を受けた廃墟ビルには興味本位で訪れた経験がある。東高校と駅の中心を通る国道近くにひっそりと佇み、線路を通過する車体の巻き起こす風に頼りなく煽られているビル。 初めて中に入ったときの印象は、ど迫力の廃墟というわけではないくてもどことなく趣があると感じた。間違っても深夜に近寄りたい場所ではなかった。

「あの場所、なにか意味でもあんのかー?」

 特別な何かがある場所とは到底考えられない。しかし何故二度も同じ場所で転落事件が起こったのか。

「考エロ」

 説明は面倒くさいとぽいと投げる。無責任な。抗議は唇から零れた。

「分カラナイトキコソ考エロ。精神的ナ向上ヲ常二求メ、考エルコトヤ歩ミヲ止メルナ。人間ハ考エルコトヲ放棄シタトキニ本当ノ意味デ死ヌ」

 結局京助を困惑させることしか伝えるつもりは無いようで、苛立ちのあまり嘆息を一つ。相変わらず一方的に通話は途切れた。

「ありえねーよ。ホント」

 いつの間にか聞きなれたボイスチェンジャーが、苛立ちをさらに掻き立てるがそんなことを気にしている場合ではない。投げるように受話器を戻すとギシギシと軋むソファに深く座る。どっと疲れが押し寄せた。眩暈を錯覚するほどの疲労がこみ上げる。行き場のない、どうしようもない感情がふつふつ浮かんでは泡のように輪郭を失った。

「高梨杏奈」

 素性は知らない。名前も本日知った。南高の、自分と同じ年の女子高生。それなりに有名人。志摩里子と何か関係がある。……たったそれだけしか知らない。

「……二週間ねー」

 ――このまま秘密を公開されたら、自分はどうなるのだろう。

 おそらく先の未来に、愉快はない。黒々とした闇が広がるだろう。しかし、自分は光の元への向上心を抱いたことがあっただろうか?

 あの、忌まわしき過去を、秘密と呼ばれる闇を

「護らなきゃならねー理由はねぇんだよなぁ」

 七月十三日 Tuesday

 Aspect 朝比奈蓮太郎

 アンティークな小物に敷き詰められた店内。

 可愛らしいというよりも、どこか不気味で不思議な雰囲気。それは完全なるアーティフィシャルな世界であり異世界を漂わす魔的な産物の列なり。ここが日本であるかも忘れさせる閉鎖的密閉空間。常連たちの穴場であり、たまたま立ち寄った客にとっての居辛さと好奇心を掻き立てる。蓮太郎は常連の部類なのだろうけれどいつまでたっても馴れないこの場所に溜息を付く。

「午前中からくつろぐなんて、良いご身分でありんすね。税金泥棒」

「これでも被害者の家に出向いて事情聴取をしたあとだ」

「ほう、それで相談とはどんな面倒でありんすか?」

 凛とした声と雰囲気を纏う店主はアンティークな椅子に腰掛け、長い脚を組んだ。

 古めかしい丸い眼鏡と漆黒のパンツスーツ。手首までしっかり覆うカットソーは凹凸の激しい肢体を包む。照りつける太陽にさらされない肌は白く、昼間の今でも薄暗い店内はクーラーによって七月あるまじき温度だ。

 ――世の中省エネブームだというのに。蓮太郎は呆れつつ腕まくりしていたワイシャツを正す。何から何まで高級そうなものを身に着ける店主と異なり、自分のスラックスもシャツも安いだけが取り柄という哀しい代物。

「面倒事、決定なのか」

「あい、ぬし自身が面倒な奴だから仕方が無いでありんしょう。朝の貴重な時間にゴミの分別をしなきゃいけないことに気がつかされた絶望感に匹敵する、微妙な面倒臭さでありんす」

 例えの悪さは彼女特有の癖のようなもの。

「……なぁ」

「あい?」

「いつ聞こうか、この店に入った瞬間からずっと迷っていたのだが」

「なんでありんすか?」

「その妙な言葉使いは、いつ頃終わる予定だ?」

 遊郭で使われているような滑らかな郭言葉ではなく、どこか片言というか、慣れていないのに無理やりに使っているようにしか覗えない。尚且つ、西洋風の店内・彼女の服装・その口調は潔いほどにちぐはぐなのだ。

「生まれつきでおすものを(生まれつきなんだから、しょうがないでしょ)」

「嘘付け! なんて言ったのかいまいち良く分からんが、どうせ適当なこと言いやがっただろ。この出任せ女郎」

「わっち、ぬしみたいなんやぁいやー。(えー、私あなたみたいな人、苦手だわー)」

「やかましい!」

 何故急に郭言葉を使い始めたのだろうか。何年同じ時間を過ごしていても、彼女の思考回路は文字通り奇想天外なのだ。この女ほど「奇女」という二文字が似合う存在は二人と実在しないと断言できる自信がある。

 唐沢黒奈(からさわくろな)。正真正銘本名。彼女と二十年付き添った蓮太郎は、断ち切れない腐れ縁を感謝しつつも嫌悪する。他の誰にも、彼女以上に『黒』を華やかに、かつ優美に使いこなせる女性はありえないだろう。

 天職ならぬ、天名を授かった彼女は陶器のように白くきめ細かい肌を誇り、切れ長の瞳と艶やかなショートヘアの似合う艶やかな美人だ。しかし、奇想天外な行動や言動。気分屋で掴み所がなさ過ぎる性格のせいで人とはとにかく馴染めない。本人も望まず孤立孤独をとにかく愛する。禁忌と呼ばれるものに惹かれ、魔的なものに興味を示す。グロテスクなもの好み、凡人のなかに眠るふとした狂気や、憎しみの開花を見ることを好むサディスト。

 つまりは生粋の変態である。

 そんな彼女がこの「椿屋」で、人間相手の接客業をするなんてどんな心境の変化が起ったのだろう。幼馴染である彼はつくづく疑問に思っていたが、ろくでもない解答が返されそうなのであえて質問しなかった。

「今、警察もなかなか忙しいようでありんしょう? わざわざ尋ねてきてくれたからには、なにかけちなこと(悪いこと)があるんしょう?」

「けちなこと、どころじゃねーよ。いいかんじにサボらないと過労死するぜ」

 メンソールの効いた煙草を咥えると、ポケットの中から新聞の切り抜きを取り出す。

「いくら引き篭りでも、知っているだろ? 全国の学生の相次ぐ転落死……。少なくともウチの管轄では事件と自殺の両面で調査しているんだが、どうにも釈然としなくてな」

「あい」

 黒奈は自分で入れた紅茶を啜る。蓮太郎の冷めたものにも注いだ。

「高梨杏奈、ねぇ? この娘が自殺感染源と呼べるだけの影響力があるでありんすか?」

「話が早いな。……高梨杏奈は芸能人とはいえど児童ポルノ騒ぎを起こしたせいもあって同学年からの印象はすこぶる悪い。仮に熱狂的なファンがいたとしても命を絶つとは考えられない。……言い方は悪いが、影響力自体ないに等しい」

「そういえば、同じ廃墟ビルで一人転落事件を起こしたそうでありんすな。確か、同年代の女子高生」

「詳しいな」

 ろくでもない情報源ばかり使う黒奈を蓮太郎は良く思っていない。間違っても幼馴染に手錠など掛けたくないので、一般市民のままでいて欲しいのが正直な感想である。……無謀な望みだと彼が一番自覚しているが。

「そりゃぁ、これだけ大胆に連続する自殺なんて奇怪でありんすからなぁ。好物ゆえにしかたがないでありんしょう?」

 首を傾げた後、彼女は瞼を閉じて沈黙する。彼女は決まって物事を思考するとき、味わい咀嚼するように時間をかける。黙って開口を待った。彼女との会話は、痺れを先に切らしたほうが負けなのである。

「……私が考えるに、謎を残す為、だろうな」

「はぁ?」

 鳥の巣のように跳ねた髪をがりがり引掻く。仕事ばかりでろくに梳かしていない髪は彼を妙に老けて見せた。童顔を気にしているので構わないと自分では思っているが、同僚は「若い男のわりにおっさんくさい」と呆れるばかりである。

「自分だけが抱えた理不尽を、どんな形でもいいから他人に与える」

「つまり迷惑をかけてやろうと悪意をもった悪戯か?」

「おそらくはその延長でありんすなぁ」

 黒奈は肩に少しばかり掛かる短い髪を、優雅に払う。青白いほどに白い肌は薄暗い店内によく映えた。ノスタルジアを演出する橙色の電球。そのうちの一つがちらちら点滅している。

「高梨杏奈の事件に続く自殺は、ワザとこの時期に転落死を選んだんでありんしょう。奇妙奇怪のブームに乗った、印象に残る死に方。一種のファッションやスポーツと大差ない流行って奴だ。自殺したものの周囲としては相当記憶に残されるだろうよ。日本全国津々浦々(にほんぜんこくつつうらうら)。発生・感染・蔓延(まんえん)する転落自殺をした人間の一人が、知人だなんて」

 迷惑な話じゃないか。憤慨(ふんがい)しようにも、あくまで彼女の考えである。溜息を付いて灰皿に灰を落とした。気が付けばいつの間にか再開されている言葉使い。

「お前さ、統一しようぜ。苛々するんだけれど」

 煙草の紫煙をくゆり上げが不思議と臭いは気にならない。独特の香水が漂う店内では嗅覚ですら外界とは異なるなのだ。

「何のことでありんしょう?」

「……」

 こりゃだめだ。そうそうにお手上げした。話を本題に戻すことにする。

「万が一にも、お前の考えが当たるとして……。甘えたなクソ餓鬼ばかりだな。世の中」

「あちきはまだしも、ヤンキー警察が強行犯取り締まるこのご時勢に、何を言ったところで無意味でありんしょう。腐った大人がそれをはるかに上回る数で溢れかえっているでありんす。当たり前のことでありんしょう? 警部補?」

「喧嘩売っているなら買うぞ。誰がヤンキーだ」

「個人名は出してないでありんす。ぬしの勝手な被害妄想をか弱い乙女に擦り付けないでくださいまし」

 黒奈は咽喉をクククと低く鳴らし、彼の煙草を背凭れにかけてある背広から抜き取った。ほっそりとした指。美しく整えられた爪が煙草を摘む。注意も制止も意味を成さないことを既知しているので、溜息を噛殺す。

「このクソ熱いのに、背広なんて持ち歩いているんですねぇ。サラリーマンじゃあるめぇよ」

 何故急に江戸っ子。野暮な指摘は嚥下した。

「刑事なんてサラリーマンとさほどかわりゃしねぇんだよ」

「お疲れ様でありましょう中間管理職。いや、中間以下。やめちまえ。もう人間であることすら放棄しろ」

 にたにた笑う真っ黒な女をたまに殴ってやりたいと思う。しかし女には手を上げない主義である。「うるせーな」睨むしなかない。

「……正直お前に相談するつもりはなかったことなんだが」

「あちき以外に相談できる相手なんていないくせによう言いよりますわぁ」

「……聞かなかったことにしておいてやるよ。――これなんだが」

 背広の内ポケットから白いコピー用紙を取り出す。黒奈は広げた瞬間に顔を顰めた。読みにくさのあまりげんなりしたようである。

「知っているか? 『バネ脚ジャッキー』。今日朝刊と一緒につっこんであった」

 溜息を吐いて煙草を吸殻入れにねじ込んだ。

 今朝も気温は相変わらずで、湿度の高さに鬱々していた。だが郵便受けからそれらを取り出した瞬間にぼんやりする思考は凍りつき、思わず息を呑んだ。

 何の変哲もない茶封筒に自分の住所と『バネ脚ジャッキー』と書かれた宛名。中身を開けば、飾り気の一切ないカタカナと漢字の羅列。文面は短く端的だった。

――復讐ハ果タセタカ?

「今頃、か。今更、か……。全く、笑っちまうよ」

 手紙を握って固まったままの黒奈を横目に、蓮太郎は厨房に入ると水道から直接水を煽った。口元から滴る水道水を袖で拭えば、自嘲気味に自分が笑っていることに気がつく。

 いつになく黙り込んだ彼女はいらいらしたように前髪を掻き揚げる。手紙を蓮太郎の胸板に押し付け、そのままカウンターの外に追いやった。

「七年……。いや、五年も経過したのか。全く、歳をとった気がしない」

「俺も昨日気がついて驚いたよ。……なぁ、コイツは何が言いたいんだと思う?」

「さぁな。忘れるなってことだろう」

 そんなことも分からないか。苛々したように煙草をふかす。蓮太郎が怪訝に顔を顰めて「忘れるわけがない」と抗議すれば、黒奈は憤りを無理やりに隠した表情でネクタイを掴んだ。

「そうじゃない。こいつが言いたいのは、お前の過去ではなくお前が払うべきだった代償と、失わせたものだよ」

「は?」

「分からないなら、お前は、分かるまで縛られろ」

 機嫌を悪くしたのか、くるりと背を向ける。

 さっさとでていけ。虫を追い払うかのように手をひらひらさせた。それが客に対する態度かとしばし呆気に取られたが、彼女の気分が山の天候のように掴めないのは今に始まった話ではない。

「……どおりで客がいないはずだ。繁盛するわけも無い。口調戻っているし」

「何のことでありんしょう? 今日は定休日なのでございまするする。それをぬしが急においでになるものだから、わざわざあけてやったでありんするする」

 看板には「クローズ」の文字。虚言ではないようだ。返答ができなくなり、畜生と言葉を濁す。口先からでまかせが湯水の如く溢れ出る蓮太郎だが、黒奈に口喧嘩で勝利できる日は、あと二世紀程先の話になりそうだ。敗北の苦渋に眉間の皺を深める。

「二枚目と三枚目の中間かんばせが台無しでありんすなぁ」

「煩せぇよ!」

 自棄になって立ち去ろうとすれば「もちっと待ち」置いたままの背広を投げた。

「すかん話ばかりに花がさきなんし。一つお耳に入れとうことが。

 人間は、考えることを止めたときに死ぬ。魔女は、退屈に耐えられなくなったときに絶命する。……死ぬなよ蓮太郎もっと私を楽しませろ」

 それがお前の使命だ。彼女はそう高らかに豪語するものだから、勝手に言っていろと無視することができなかった。

「せいぜい頑張りますよ。中間以下管理職は」

 重い扉の先には太陽がいる。その照りつく熱さに触れた瞬間に、現実に呼び戻された気分になった。

 ふいに、スラックスに突っ込んだコピー用紙を握り締める。

「……やってやろうじゃねぇか、畜生め」

『背景 朝比奈蓮太郎サマ。

 月日ノ流レトハ早イモノデ、アノ日オ前ガ切リ捨テタ闇ガ、五年ノ歳月放置サレタママダ。生カスモ殺スモオ前ノ自由。シカシ、オ前ニハコノゲームニ参加シナクテハナラナイ義務ガアル。

 イイカ、コレハゲームダ。参加ソノモノガ×ゲームノ楽シイ狂喜ダ。オ前ハ謎解キヲスル可愛ソウナ主人公。モシクハ傍観スル腰抜ケタマナシ野郎。オ前ダケガ、アノ日カラ逃ゲラレタナンテオモウナ。

 私ハバネ脚ジャッキー。全テヲ記録シ、傍観スル者。ソシテゲームノ法律。

 ――復讐ハ果タセタカ?

 良イ結果ヲ待ツ。バネ脚ジャッキー』

 Aspect 樹要

「えーと……まぁ、とにかく……」

 自分の立場が不利になると口ごもるのは、樹要の悪い癖である。

 月館麻緒の事件報告に南高校を訪れた要は、まず真四角の応接間に通された。高梨杏奈についての事情聴取ですでに何度も訪れた南高校だったが、広さのあまり慣れることができない。マンモス校と呼ばれるだけあって、何に関しても設備が整っているのが覗えた。小奇麗な応接間に着席し数分しか経過していないのに、重苦しい空気に押しつぶされそうになる。

 刑事である自分を目の前にしながら、ふてぶてしさを保つ不機嫌な教師はもう顔見知りといって良いほどここ数日顔を合わせていた。胡散臭いものを見る視線を向けられることには慣れていたが、完全に敵意むき出しの視線は久々である。いい加減しつこいと言いたいのだろう。それに関しては同意できた。自覚している。

 しかし今回は事情聴取ではなく報告だった。

「先日七月十二日午後四時三十分過ぎ、国道四号線沿い道路の歩道橋から月館麻緒さんが背中にスタンガンを押し当てられ、背後から突き落とされそうになった」

「本人から、我々もそう聞いておりますわ」

 担任教師、大塚誠二の顔にはさっさと説明して帰れ。そうでかでかと書かれている。わざと話を引き伸ばしてやろうかと意地の悪いことを思いついたが、気がつかないふりをすることにした。

「背中に静電気のようなものが走ったと証言していた通り、使用されたスタンガンはペン型タイプの痴漢撃退用のもので殺傷能力は一切ないものでした。スカートのベルト部分に押し付けられた形跡があり、そのおかげで静電気程度の痛みで済んだのでしょう。ベルトに残された焦げ目から、スタンガンのメーカーの特定ができました。……たしか、月館麻緒さんは数日前に護身用スタンガンをなくしたと友人に話しをされていたそうなんですが」

「いや、知らんな。そもそもそんなものは学校に言語道断で持ち込み禁止に決まっているだろう。盗難にあったとしても、学校に申し出るとは思えんな」

「そう、ッスね……」

 敬語が下手な要は思わずいつもの口調に戻ってしまい、慌てた。大塚は気にする素振りはなかったが、相変わらず不機嫌そうにこちらを睨んでいる。

 クーラーの聞いた真四角の応接間。普通校長や学年主任も立ち会うものだろうに、不在という理由で対面ソファに一対一で睨み合うように着席している。気まずさと空気の重さになんともいえない感情がこみ上げた。

「高梨杏奈の事件もはっきり終わっちゃいないのに、大変だね、警察は」

 ただの嫌味にしか聞こえなかった。

 事情聴取を散々受けた人間はその後警察にはとことん冷たいものが多い。それは勿論、同じ質問をくどくどと繰り返されるからだろう。要もその事実はちゃんと理解している。しかし、状況も供述も人によってはすぐに変わるのだ。何度も確かめなくてはならないのは警察が無能だからではない。真実を追究するためには仕方が無いことであり、最終的には彼らの安全を守る為に奮闘しているのだ。ある程度の譲歩は素直に欲しいものである。

「どんなに些細なことでもかまいませんので、何か彼女のことで気になったことはございませんか?」

 何の手がかりも無しに、ただ学校に報告しただけで引き下がったら、絶対に拳を上司から頂戴する形になるだろう。ここ数日の行き詰まりに強行犯係はぴりぴりし続けているのだ。

「あぁ……マジ勘弁願うッス」

 手加減のない痛みを思い出し身震いする。そんな心境を知ってか知らずか、対面のソファに踏ん反り返って座る大塚は重々しく口を開いた。

「そういえば、携帯電話の盗難はあったぞ」

「いつ頃ですか?」

「七月五日の月曜日だ。月館麻緒だけじゃない。二年の生徒の携帯電話……確か二十名くらいが一斉になくなったそうだ。その日のうちに、全部各地で発見されたそうだが」

「怪談話みたいですね」

「高梨杏奈が亡くなって、まだ四日しか経っていなかったからな。そんなことにかまっている余裕もなかった。……今考えてもイタズラとしか思えないが」

 南高校に訪れる前に、先輩刑事である朝比奈蓮太郎と月館麻緒の自宅に寄った。彼女の証言だと、スタンガンを無くしたのも七月五日としている。そして、その日は高梨杏奈の葬儀だ。ただのいたずらにしては不謹慎で悪趣味極まりない。

「参考までに、高梨杏奈と月館麻緒の交友関係など教えていただけますか」

「……高梨杏奈は常に向上心のある生徒で、協調性は微塵も無いし感受性も欠けてはいたが、勉学においては妥協しない生徒だった」

「はぁ」

「大体の人間はそう言うだろうよ、聞こえよく、な。個人の意見としては、自我がしっかりしているというよりも自ら孤立を望んでいるようだった」

 大塚は汗をかいたグラスに入っているわずかな麦茶を飲み干した。襟ぐりが少したるみ、黄ばんだ白いTシャツにどこにでもあるようなジャージ。体育会系の大柄な体。誰がどう見ても体育教師と明白に分かる。熊のような体はラグビー選手のように切磋琢磨(せっさたくま)された筋肉と、年齢が積み重ねた脂肪で固められているようだ。それでも角度を変えれば堀の深い顔立ちがなかなかの二枚目に伺える。

「では交友関係は狭かったんですね」

「我々が知る分にはだがな。少なくとも鏡友花以外に友人と言える友人はいないように見えたな」

 ふと眼を落とせば、右手の甲に蚯蚓腫れのような線が入っている。要は珍しいところにあるケロイドに眼を奪われた。赤黒く変色しているが感知して随分時間が経過していることが覗える。大塚はすぐさま無遠慮な視線に気づき覆うように隠す。

「……昔生徒ともめたんだ」

「すみません。……ほかには何か?」

 大塚とは対照的に、要の体は細長く腰周りなど彼の半分くらいしかないだろう。赤みのある地毛のせいで、未熟さや青臭さが感じられる。おまけに天然パーマなので今時の若者らしさが入り混じっていた。本人の理想はハードボイルドなおっさんと豪語しているので、若さの要素はすべてコンプレックスに感じている。現に、要の言動一つ一つに食い入る大塚は容姿も含め受け入れがたいようで、良い印象を与えていないだろう。

「俺に言わせれば、小生意気。挑戦的、好戦的な娘だった。常に周囲を警戒しているような眼で見るくせに、一切の恐れや怯えがない」

「人間不信の傾向があったのですか?」

「どちらかというと全ての人間を見下しているようだった」

 短く切りそろえられた黒髪が揺れるたび、オーデコロンが香る。苛立ちがうっすらと表情を覆っていた。慣れない敬語を使うこっちも苛立っているんだ。怒鳴りたい心情をなんとか押さえ込む。忍耐は得意分野だと虚勢した。

「凄まじい集中力の持ち主で、授業中はとにかく黒板と教師を一点に見つめるんだ。まるでエモノを前にした肉食獣のように。かと思えば、授業中に話をそらすと一気に集中力が無くなる。……まぁ真面目といえば真面目なんだが……。明白に眼に見えて態度が変わる。それが正直面白くないという印象があった。俺だけじゃない。他の教師も言っていたよ」

「気の強い子だったのですね」

「強い強い。正直、将来が恐ろしかった。どれくらい化けるのだろうかね。どんな方面にも才能は伸ばすことができただろうし、何より物事を吸収することにおいてはかなりの天才だった。だから、恐ろしい反面、楽しみだったよ」

 急に肩を落とし項垂れるように頭を下げる。実際、大塚自身高梨杏奈を嫌っているわけでもないようだ。この大男にも道徳があったか。要は先ほど嚥下した「ご愁傷様」の一言を丁寧に口にする。

「対照的に、月館麻緒は協調性に長けてリーダーシップのあるタイプだ。明るく、周囲に気配りができる。半面、他の生徒と拗れることもあったようだ。まぁ、彼女も良くも悪くも目立つタイプだから、不審者に出くわすことは今回が初めてではないと本人から聞いたよ」

「不審者、なんですかね、今回のは」

 手帳から顔を上げると、軽蔑の眼差しを向けられていた。そんなものは知るか、と言いたげな、いやそう物語っている視線である。「それはおたくが決めることだろ」ごもっともな意見。反論できるはずがない。われながら愚問であったと後悔した。

「少なくとも、月館は自殺じゃないんだろ?」

「自作自演は不可能でしょうね」

 人目に付きにくい場所ではあったが、人通りはそれなりにある所での犯行。傷害事件として処理しているがそれが連続墜死事件と繋がるものなのかはなんともいえない状況である。しかし、同じ高校の、それもクラスメイトの被害が続いたのだ。全く関連がないとも言い切れない。

「高梨杏奈は勿論と思われますが、月館麻緒も自殺を考えるタイプではなさそうですね」

「二人とも……言い方は悪いが、苛められたら苛め返すタイプだ」

 そういうところは似ているのか。

 要は単純な子供とは程遠い最近の女子高生に恐怖心を抱く。

「……月館は、高梨と仲は良くなかったと聞く。アレだけ方向性の異なる人種同士だから、当たり前なんだがね」

 大塚はまるで懺悔でもするように膝の前で手を組むと、前屈みになった。苦しそうに項垂れて、瀕死の獣のような唸り声で呟やいた。

「俺は長年教師をやっているが、まさか、自分の生徒が自殺するなんて思ってもみなかったんだよ」

 Aspect 浅月京助

『取調べ』の翌日にしては静かだと感じたのは京助だけではない。修二もそれに同意して君が悪いと舌打ちをした。東高校二年五組の教室は三時間目の休憩時間にいつもの賑わいを見せていた。談笑する者や昼休みが待ちきれず間食する者など自由に過ごしている。

 誰もがちらりと、里子がいた唯一の形跡となっている座席に眼をやるが、あえて騒ぎ立てることもなければひそひそと噂を口にする者もいない。まるで名前が呪いであるかのように、誰もが暗黙のルールを言わずと護っていた。未曾有の事件に、騒ぎ立てる気にもなれないようで、その名も『君子危うきに近寄らず』。

「みんな心配はしているんだろうけれど、関わりたくないのも正直な理由なんだろうな」

 冷静に分析し、文庫本に眼を落とす幼馴染が優雅に眼鏡を正す。京助はそのキザに類似する仕種を横目で観察しつつ、煮え切らない感情を溜息として吐いた。

 日常の中に普段見ないものといえば、単語帳とむっつり睨めっこしている太一のぴりぴりとした空気だ。常に頭に花を咲かせているめでたい野郎のくせに本日限りは焼け野原である。

「まだ気にしているのか」

「みてーだよ」

 いつもの天真爛漫のカケラもない。本日は柴犬というよりも機嫌の悪い猫だった。逆立つ毛や尻尾が今にもひょこりと顔を出しそうである。二人は呆れと憐憫の視線を向けるしかなかった。

 前回の英語授業の際、英語教師が問題の回答を間違えた太一を執拗になじった。それを非常に根に持ち、本日また指名されることを予測して予習に励んでいるらしい。

「べつにカミー(英語教師のあだ名)の言っていることなんて気にしなきゃいいじゃねぇーか。俺なんか職員室で教材のダンボール持たされて起立だぞー。三十分間ー」

 それは気にするべきじゃないのか。指摘もそうかぁ? とのんびり流す程度だ。修二はどうしてこう、二人はバランスに欠けるのだろうと頭を抱える。太一もこれぐらいおおらかに物事を受け止めるべきというか、プライドを半分ドブに投げたような性格になれば色々と楽だろうに。――そう考えつつも、世の中みんな京助のように無心無関心な奴ばかりだとしたら成り立つものも成り立たないだろう。 

「そーいや、結局修二は志摩の家に行ったのかー?」

「いや、明日ってことになったよ。明日は職員会議で午前中授業だけだろ。……でも、昨日お前らが目撃した南校の事件があったばっかりだからな。不審者対策だかなんだか、いろいろまた話し合うらしくて結局取りやめになるかも」

「はー。相変わらずいろいろ大変なんだなー」

 昨日のようにうだうだ時間を持て余している自分たちは違うと感心すれば「もう、無理だ!」もくもくと集中していた太一がついに匙を……もとい単語帳を投げてきっぱり宣言した。

「前の時間潰してまで集中していたからな。普段教科書を開くこともしない奴がさすがにこれ以上やるとパンクするんじゃないのか? 容量が少ないことを認めたほうがいいぞ」

 修二の嫌味は耳に入っていないのか、気にしていないだけなのか。京助の教科書を睨み始めた。長文を指なぞりしながら眼で追う。

「今やるくらいなら、家でじっくりやればいいだろ」

「うるさいよ眼鏡委員長。俺は眼鏡に萌えないからな」

 予鈴が鳴っても一向に移動しようとしないので二人一斉に一蹴する。のこのこずるずると移動し始める太一はそのさいも眼を教科書から放す気配は無い。確かに集中力はある男なのだが、方向性や時間配分を明らかに間違えている。

「……そういえば京助。電話のことなんだけれど」

 突然のことで、思わずびくりと背筋を凍らせた。眼を見開けば自分よりも大きな背中が背もたれに体重をかけるところだった。

「気にしなくていいと思うぞ」

「は?」

「電話、来たんだろ? あの人から」

 そこまで聞いて、やっと示すのが叔父のことだと理解が追いついた。考えてみれば『ジャッキー』のことは誰にも言っていない。どこか安堵の溜息が漏れる。

「お前が決めることだから。この先、どうするとか」

 京助のそんな様子を知ってか知らずか、何事もなかったかのように装って英語教師の神岡が現れたと同時に号令をかけた。

「……」

 ――何でもかんでも見透かしやがって。

 釈然としない京助は、修二が着席した瞬間に背もたれを蹴った。

「偉そーにすんなぁ」

 聞こえる程度の小声で悪態を付いてやるが、彼は肩を揺らして笑っている。一応笑いをかみ殺しているつもりなのだろう。舌打ちをして、過保護すぎる親友に小さく礼を言った。

「じゃぁ今日はぁ、この前間違えぇたぁ相模からぁ呼んでもらおうかぁ」

 馬鹿でかい神岡の声に太一の背筋が正されるのが見える。本当に英語の教師なのか、と疑問に思うくらい訛っている日本語。一瞬と惑ったように立ち上がった彼の手にした教科書には浅月京助と書かれていた。

(あの野郎っ! 俺の教科書じゃねぇーかよー!)

 どうやら自分の教科書を家に忘れたようで。不自然な行動に注意力を使うべきだったと後悔するが後の祭り。英文を読み終わってウインクを投げる太一に睨む気力も失せる。とりあえずこの一時間、神岡に指名されないよう願おう。そう思った刹那「次ぃ、浅月よろしくぅ」指名されたのは単なる偶然とは思えない。

「まぁまぁそう怒るなって。ほら。苺カステラやるからよ」

 上機嫌の太一はむっつりと弁当を頬張る京助に食べかけの鈴カステラを突き出した。巻き込まれずにすんだ修二はそのやり取りを……正しくは一方通行にまくし立てられている状況を呆れて、それを見つめる。

「苺カステラなんて邪道なものがあるのか」

 着色料以外の何でもないピンク色。邪道という言葉に肩眉をピクリと眉を吊り上げる。

「食ってみろ。上手いから」

「俺、甘いの苦手」

 ふいと顔を背け拒否。胸倉を引っつかみ、口元に砂糖の香り漂わす苺の鈴カステラを押し付けた。

「苺はなににだって合う万物の食い物だ。甘いの苦手でもいけるって」

「お前、苺愛好家だったのか。てか、白飯を食っている俺に普通勧めるか?」

「ご飯にも合うぞ」

「嘘付け!」

 ひねくれたままの京助はひたすらに飯をかきこんでいた。あまりのあからさまな無視に太一が先に痺れを切らす。

「あぁもう。俺が悪かったって! ごめん!」

「最初から言えよー」

 数十分前の授業中、英文を読めと言われても教科書がない以上無理な話。忘れ物など言語道断の神岡の眼光が鋭く光る。隙を見て渡そうと修二も試みたのだが、盗むほどの隙もなく「立っていろ!」と唾を飛ばして激昂(げっこう)した。授業始まりにしてものの二分でその場に立たされ続けたのである。

「未開封のコロッケパンとおまけやるから」

「弁当あるからいらねぇーよ」

「それは、弁当なの? 今時日の丸弁当とかレアなんだけれど」

 重箱なのにおかずが梅干。みっしり詰まった白米をひたすらかき込む。量だけが魅力のようだ。本当に給仕が出来るのかと心配になる代物である。

「電子レンジが壊れたから冷凍食品に頼れねぇーんだよ」

 手作りのおかずも前日の夜に冷凍して保存をしているので、解凍しないとどうしようもない。だからって白米……と太一は指摘しようとしたが、第三者がやめとけと征する。

「あー……あとこれね」

 促されて眼をやれば新聞の切抜きや雑誌、インターネットの記事をもとに作られたレポートだった。その記事が全て、高梨杏奈の事件であることは一目瞭然なわけで。

「ちょっと俺と一緒に真相究明しない?」

 ちょっとそこまでコンビニに行こうぜ。同じくらいのノリであっけらかんと誘われる。

「しねぇーよ」

 即答で付き返そうとするが、まぁきけ。と宥める。

「昨日、月館麻緒が突き落とされそうになったのって、転落事件と全く関係ないわけじゃないと思うんだよね。少なくとも自殺ではないし」

「あのなぁ太一。俺たち素人が首突っ込んだくらいで解決できるような事件なら、警察なんていらないだろ」

「解決することが目的ってわけじゃないさ」

 怪訝な顔つきをする修二にずいとレポート用紙を差し出す。そこには高梨杏奈の死体があった廃墟ビルの写真が様々なアングルで貼り付けられている。

「志摩っちがこの場所に行ったのってさ、高梨杏奈の後を追うためだと俺には思えないんだよね。それこそ、志摩っちは高梨杏奈が誰かに殺されたと思っている」

「……真犯人に始末されそうになったってことか?」

 煮え切らない表情の修二はともかく、ちらりとも覗わずそっぽ向いたままの京助に苛立つ。せめて話ぐらいは聞けと肩を叩けばその手を振り払われた。

「京助が乗り気じゃないのはよ、志摩っちに対して何かをしようと思う感情がわかないからなわけ?」

 この薄情者め。口にこそしないが、うっすらと嫌悪の混じる口調。自分を無理やりに落ち着かせる為にコーヒー牛乳を嚥下した。温くなったせいでべたべた張り付く感じがしたのか、咽喉元を摩る。

「俺はさ、正直高梨杏奈の死どうこうじゃなくて、志摩っちの墜落が自殺未遂か事件かが知りたいんだ。でもそれに辿りくためには、やっぱり最初から洗わなきゃならない。志摩っちが高梨杏奈を追うように消えたことも、なにもかも荒いざいにしなくてはならない。そのためには、お前らみたいな奴らに協力して欲しいんだよ」

 彼に誠心誠意(せいしんせいい)頼みごとなどされたことがなかったせいか、あまりの懇願ぶりに修二は面食らう。まぶしいほどの真剣さは、いつもの軽率でお茶目な彼の性格とは程遠かった。

 相変わらず京助はうつむき、黙りこくったままで、あまりに腰の重さに痺れを切らしたのか焦ったように説得を続ける。

「本当はこんなこと言いたくないけれど」

 一瞬口ごもる。嫌な予感がして、修二が制止させようとしたが手遅れだった。

「こういうの、一度被害者を経験した京助が一番分かるだろ?」

「やめろ太一!」

 即座に肩を掴んだ! だがそれを振り払い必死な形相で京助に詰め寄る。それでも彼は微動もしない。

「なぁ、聞いてんの?

「……だから、だ」

「は?」

「だから、全てを明らかにすることが賢明なのか、分からねぇーんだ」

 やっと顔を上げたかと思えば、見知った表情の彼はいなかった。

 ぞくり、と背筋が凍る。

 修二は頭を振り、戦慄く唇はわずかな隙間から空気を漏らす。「もうやめろ、うんざりだ」今にもヒステリックに叫んでしまいそうになる自分を、理性で押さえつける。そのせいで、思うように言葉が咽喉を通過しない。太一のように、「本気で言っているのか」と問うことができない。京助は苛立ったようでも怒ったようでもなく、嘲笑うように口元だけを歪めた。

「嘘言ってどーすんだよ。志摩は死ななかった。……それだけが真実じゃねぇーか」

 人間の体温を、一切感じさせない表情だった。死んだ魚のような瞳が酷く残酷に……いや、眼はぎらぎらと獣のような灯があるのに生気が無い。闇よりも深い漆黒のようで一切の光がないのだ。

「高梨杏奈を殺した人間がいるとして、志摩がそいつを殺そうとしているのならば……。外野の俺たちは志摩の復讐を止めることが賢明か? それとも復讐を手伝えばいーのかよ」

 項垂れるように、うわ言のように口にすると肩を掴んだままの太一手首を握る。その瞬間、太一は全身の産毛が立つのを感じた。恐ろしいほどに冷たく、人の肌という感触がなかったのだ。

「異常だって言われても、正直な話後悔をしているかどーかなんて」

「京助、もういい。別に太一だってそんなこと聞きたかったわけじゃない!」

「ちょっと待て! なんの話だ!」

 蚊帳の外の太一が喚いたが、二人とも眼もくれなかった。

「わからねーんだよ」

「京助!」

 目を剥いてどこにも視点をやらない人形のようにぼんやりしている。半開きの唇を動かすことなく、壊れたレコーダーのように言葉を吐き出すことを止めようとはしない。

 ――それは正しく、異常だ。

「きっと、あのときだって俺がやらなくてもほかの誰かが」

「もういい!」

 太一が立ち上がり、机を蹴り飛ばす! 賑やかな教室は、女生徒たちの短い悲鳴に包まれる。しかし、すぐさま水を打ったように静まり返った。

「どうせ俺は、お前のことなんてなにも知らない。でもな、俺が考える以上に薄情で嫌な奴だってことはわかった」

 太一の搾り出すような声音は誰も聞いたことがないものだった。周囲はことの異常さに怯み、すごすごと三人を避ける。

「もうお前みたいな異常者に、何も頼まない」

 京助が正確に、太一の声を聞いたのはそれが最後だった。次の瞬間には、頬に鈍い痛みが走っている。

(あぁ、殴られたんだ)

 気が付くまでに、かなりの時間があったようだ。ただぼんやりと、教室の天井を見上げていれば、修二が太一を羽交い絞めにして、殴りつけている残像を眼に焼き付ける。

 哀しくもない。切なくもない。怒りもない。今の京助にあるものは痛覚だけだった。

 七月十四日 Wednesday

 Aspect 志摩里子

『バネ脚ジャッキー』が敵か味方かは志摩里子にとって大きな議題である。

 里子が目覚めたのは七月十二日のことだった。丸一日以上の昏睡から目覚めても、あぁよく寝た。という感想が正直な第一声。二日たった今、無理やりに退院したわけだが未だになんだかぼんやりしていた。

 周囲を一首し白い壁の狭い部屋。そこに漂う消毒液の香り。まるで箱に幽閉されているみたいじゃないか。そう思ったとき病院の一室とやっと悟ったのである。

 初めての入院は妙な気分だった。亀裂が入った右膝はギプスで覆われ、自分の脚とは思えないほど動かない。右腕も首から三角巾で吊られていた。もともとアルコールの臭いが苦手で、居心地の悪さに長い時間ベットの上で大人しくなんてしていられなかった。

「ほんと、放任主義の親でよかったよ。普通なら絶対許してくれないもんなぁ」

 わずかな荷物を入れたショルダーバックを肩から提げ、えっちらおっちら左脚を引きずりながら呟いた。

 病院は里子の小さな背中を睨むように佇んでいる。医師にむちゃくちゃな説得をしての強制退院はさすがに引け目があった。どっしりと大きな建物は自分を睨んでいる気がして振り向くことなんてできなかった。

「私は」

 ――実は、自分が思う以上に馬鹿なのかもしれない。

 せっかく、『バネ脚ジャッキー』が「気をつけろ」と警告してくれたにも関わらずあっさりと転落し生死を彷徨ったのだから。こげ茶色の髪を三つ編みに結わえ、デニム生地のミニスカートとお気に入りのミントブルーのシャツに肢体を包んだ彼女は考察する。

「ほんとありえない」

 現在学生は学校にいる時間帯だ。無遠慮な視線を向けられることには、慣れ初めていたが居心地の悪さに溜息を零す。太陽に照り付けられて陽炎の生じたアスファルトがさらにげんなりさせる。ふいに、すれ違った男から妙な臭いを嗅ぎ取る。カッターシャツとスラックス姿の男は里子の全身を嘗め回すように拝見すると彼女と視線をぶつけた刹那に背を向けた。

 ――アルコールの臭いと、コロンの臭い。

 里子にとって何よりも嫌いな、芋焼酎に似た濃厚で肺にたまる臭い。ねっとりとしていて、同じ空間にいるだけで酔いが感染してしまう気分になる。

 固い松葉杖を握る掌を広げた。汗ばんだそこに、高梨杏奈と繋いだ手の感触が残っている気がして乾いた瞳が泣きそうになる。

 ――美しく笑う、艶やかな黒髪の美少女。

 長い睫と大きなこげ茶色の瞳。弾力のある唇。すっきりとした輪郭と線の細い肢体。ショートカットに切りそろえられた一切の不純を許さない髪。手抜かりのない完璧な、悪意の堕とし子。

 猫のように警戒心が強く、普段は怒ったように口を結び能面を貫くがとても愛らしく微笑む一面を魅せることもある。

「無邪気で残酷な、私の……共犯者」

 彼女の死体と対面した瞬間から、いや『バネ脚ジャッキー』からのコールを受け止めたときから里子は覚悟を決めていた。

『ジャッキー』は願い事を叶えてくれる。実際は要求を『ジャッキー』は聞くことすらせずに、まるでチェス板の駒を進めるように誘導するだけだったが確かに頼りになった。勿論完全に信用したわけではないが、約束通り警察にも学校にも黙っていた。

 灼熱のアスファルトを、かつんかつんとひたすら松葉杖で打つ。皹が張った右膝頭は痛みこそ無いが妙に熱が篭っている。わずかな頭痛は昨日からずっと続いていた。汗を拭うと自らの三つ編みに結い上げられた長い髪が揺れる。蒸し暑さに癇癪を起こしてしまいそうなとき、やっとそこが目に止まる。

「……あった」

 どんな場所かも分からないくせに、まるでオアシスに辿り着いたように胸が躍った。

 営業しているのかどうか分からないほど薄暗い店内……普段出入りはしないだろう、高そうな喫茶店だ。藁半紙に刻み込んだ店名と照らし合わせ確認する。

 ――間違いない。此処で合っている。

 重々しい扉を思わず睨む。深呼吸か溜息かも分からない息をつく。黴の臭いと、異国を思わす香水が看板から怪しげに漂っていた。

「ここが、椿屋」

 こげ茶色の床は滑らかな光沢を放つ。何所もかしこも、古ぼけた匂いの漂う店内だが、清潔に保たれた空間だ。日本にいることすらも忘れる異質で異様な演出に思わず息を呑む。

「わぁ……」

 物珍しさに目移りし、美術館にいるような気持ちになり感嘆を一つ。まるで御伽噺の世界だ、と、黄色い声が思わず毀れた。

 もとより少し廃れた裏通りやノスタルジアな雰囲気を好む里子にとってなんとも言えない嬉しさがこみ上げるのだが、胸騒ぎがして落ち着かない。

 古ぼけたガラスケースには蝶の標本と洋風の本が並んでいる。明らかに高価そうなティーカップ。オブジェと思われるアンティーク調の机には、おそらくガラスで作られている優美なチェスが飾られている。『Reservation seat』と書かれたカードが椅子に置かれていた。

「いらっしゃい」

 カウンターの奥から、凛とした声音が響いた。

「あ……」

「志摩里子、でありんすね? よう脚を引きずっておくれましたなぁ」

 黒いシックなワンピースに黒いストールという高価そうな服装をした女性が微笑みかける。妙な郭言葉に思わず眉を顰めたが、どうも、と間抜けに返事をした。

 妙に薄暗い店内で、彼女の病的なほどに白い肌は浮かび上がるように見える。官能的にも見える美しさにしばし圧倒された。常に体調を心配されるほど青白い自分と、同じように黒奈は白い。

「唐沢、黒奈さん」

「あい」

 短い黒髪がさらりと揺れると、何か懐かしいような不思議な香りが漂う。美貌に魅せられ、じっと見つめた。カランと小さく、カウンターに放置された水滴の浮かぶグラス。風情のある涼しい音。クーラーの良く効いた店内では少し肌寒い。

「好きな所にお座りなんし」

 妖艶な笑みに従うままに腰をかけると透明な水が置かれた。

「お、お構いなく」

「一応客でありんしょう? もっと楽にておくれなんし。『ジャッキー』から私のことは説明されているでありんすか?」

「はい。椿屋の魔女に会え、と」

 異型とも呼べる美しいかんばせに笑みが浮ぶ。魔女という言葉を控えようかと考えたのだが、里子は黒奈を見たときから自分のイメージする御伽噺の魔女とまるで重なったので納得してしまった。黒奈は害されたような顔をせず寧ろ嬉々としている。たいそうな変わり者。と噂されることは本当のようだ。

「黒奈さん。私、『ジャッキー』に此処へ来るように言われたんですけれど」

「そりゃそうだ。私が『ジャッキー』に頼んだんだ。お前に合いたいと」

「え?」

「私は奇怪なことが好きでね。今回の事件も独自に情報を集めている。昨日も隣の県で二名も自殺志願者が飛んだそうじゃないか。お前、転落したそうだな。なかなかいい情報を持っていそうだから、話してもらおうかと思ってね」

 にやりと笑う。悪戯を思いついた子供のように。里子は呆れた。彼女に対する好感が急落する。それと同時に、自殺志願者と指を向けられた気がして耐えられなくなった。不機嫌面をぶら下げ「帰ります」と立ち上がり踵を返そうとする。

「まぁ、待てよ。交換条件と行こうじゃないか」

 いつの間にか煙草を咥えた黒奈が意地悪く笑っていた。まるで手品のように優雅に焔を灯し、座れと顎で示す。

「望む方向は同じはずだよ、志摩里子。ならば」

「あなたの力なんて必要ありません」

 頼る手がかりも宛ても今はない。『ジャッキー』もこれ以上味方してくれるとは限らない。それでもこの得体の知れない女に情報を与えられることは屈辱だった。のこのこジャッキーを信じた自分への嫌悪と羞恥のあまり、苛立ちが下腹で疼く。

「……騙された」 

「誰が協力しようなんて言ったんだ?」

 冷めた表情で切れ長の瞳を向けられる。怒鳴られているわけでもないのに、迫力があった。怖気づく自分に叱咤する。「従え、と。そういっているのならばまっぴらご面こうむります」こげ茶色のゆるくあまれた三つ編みがクーラーに煽られて少し揺れた。

「極端な奴だな。私はこんなにも利用価値がある人間にも関わらず、野放しにするお前が気に知れない」

「利用?」

「そうだ。互いを互いの為だけに利用すればいい。其処には何も存在しない。後腐れも、非難も。何もできない餓鬼ならば、それなりに力にすがり付けばいいだろう。くだらないプライドなんて捨てろ。自分の常識なんぞ檻に過ぎない。堕落しろ。小娘」

 屈辱を感じる羞恥すらも放棄しろ。汚れなければ見えない真実がある。

 眩暈がするようだった。あぁ、人はこうして穢れて大人になるのかと。ただ、それでもいいと踏ん切りが簡単につくほど素直ではなかった。この主従関係に似た状況を、ひっくり返してやろうと、ぶち破ってやろうという闘志。屈辱に似た感情の中からふつふつ湧き出る。あくまで心を落ち着けたまま椅子を引き、着席した。満足そうに嗤う黒奈は嬉しそうに頬を吊り上げる。

「さて、問いたいことなのだけれど、君と高梨杏奈の関係とはずばり?」

「えぇ、まぁ。あなたもその様子だと度存知で。プライバシーを破ることが趣味ですか」

「誰が張ったかも知れないような、生暖かい牛乳の膜のように薄いデリカシーなどあってないようなものだよ」

「否定しないんですね。節操なんて、有って無いようなものですか」

 興味本位にしては手が込んでいることに違和感があり、軽蔑と警戒を胸に秘め伺う。我慢できずに額の包帯に触れた。汗で濡れた包帯は気持ちが悪かった。全身に作られた傷が疼くように痒い。膿をしみこませた右肘の傷は彼女が微動するたびに乾いてガーゼに付着したことを感じさせる。

「愚問だね。志摩里子。そんなこと言ったら、お前の友人である相模太一なんて私以上のパパラッチだ」

「その名前をフルネームで何度も呼ぶの止めていただけますか? 鬱陶しいです」

「怒るなよ。良い名前じゃないか」

「馬鹿にされている気がするんです」

 咽喉を引きつらせるように笑いながら、黒奈はパイプ椅子に腰掛ける。カウンターを挟んで向かい合う形になった。悔しいが、改めて美しいと感心させる美貌が視界に入った。

「あなたは」

「黒奈。名前で呼べ」

「黒奈さんは、どうしてこの事件に興味を持ったのですか? 異常な事件なんて、世の中いっぱいあるじゃないですか。確かに連続墜死する学生の事件は話題性がありますけれど、現在騒がれていることでも、あと一月も経過すれば風化されてしまうと思います」

「何が言いたいんだ?」

 少なくとも、この県内で続くのは自殺ではなく事件だと里子は核心している。それは、高梨杏奈がそんなことはしないという否定ではなく、自分が突き落とされたからだ。

「他の県のが自殺なのか事件なのか、はたまた事故なのかは、私には推測しかねます。ただ、自殺ならばそれは単なる話題に便乗したに過ぎない。……あなたが興味を持ったのは連続墜死をする学生ではなく、高梨杏奈なんじゃないんですか?」

 相変わらず貼り付けられたような笑みのまま、一切の表情を微動させなかった。だが改めて真剣な瞳で、店内に溶け込みそうなほどに闇色の瞳で射抜くように見つめる。

「へぇ」

 沈黙を破ったのは黒奈の感嘆だった。

(なるほど、ただの感情任せな馬鹿な娘ではないようだな)

 彼女を見くびっていた自分を少し恥じた。「してやったり」とにやり笑う里子は憎たらしい反面さすがと褒める。

「お前には悪いけれど、私は知りたかったんだ」

 哀しそうに微苦笑した顔は、ひどく幼く見えた。少し前まで話していた人間とは全くの別人に見えるほど雰囲気をがらりと変えて、彼女は煙草を灰皿に落とす。

「虐待していた大人が、自分の子供の死にどう反応するのかを」

 哀しそうに笑う表情に、橙色の光が作る明暗が酷く寂しさをさらに引き立たせた。虐待という言葉を耳にした瞬間に、胸の前で絡ませていた指に力を込める。何かが張り裂けそうな想いだった。

「……」

 黒奈は自分で注いだグラスの水を一気に流し込むと、また貼り付けられたような無理な笑みを取り繕う。相変わらず美しいものだったが、入店したときに感じた華やかさは其処にはない。まるでなにかに懺悔しているような、暗く、寂しいものに見えた。

「……高梨杏奈の母親に、私の友人の警官が事情聴取をしたんだ。事件と事故と自殺の三面で調査を進めていると説明したときに「もし殺されたのならば損害賠償とか取れる?」と口走ったそうだな。まったく、馬鹿だよなぁ。そんなことを言ったときに、身内がもっとも疑われることすら分からないんだろ?」

 里子も杏奈の母親を知っている。

 金にがめつく、アルコールとニコチンにひたすら依存する腐った雌だ。女であることを武器にした、露出を表に出す服装……其処から香る煙草の香りと混じる香水は思い出すだけで吐き気がする。杏奈と同じ大きな瞳と綺麗な二重瞼なのだが、彼女を美しいと評価したことは一度もなかった。

「もしも、高梨杏奈の母親が、少しでもあの子の死を病んでいたならば」

 これは唐沢黒奈の懇願。

 そう悟ったとき、今同じ時間を共有する彼女もまた、見えない何かと戦い続けているのだと悟る。同じところにいるのに、同じ方向を見るわけでもなく、同じ希望を望むわけでもない。

「少しでも悲しんでいたら、私も少しは、救われた」

  

 Aspect 浅月京助

 黄色と黒の縞模様。踏み切りの前に立つ少女は通過する列車の吐き出す風に長すぎる前髪を揺らした。

「えーと、あーと。感染する自殺、高梨杏奈の呪い、かぁ」

 学校で現在騒がれている噂について、鏡友花は考察する。

 傷害事件にあったと、月館麻緒本人が騒いでおり、高梨杏奈の呪いだと噂が立ち始めている。もし彼女が化けて出たとしたら、何人かのクラスメイトは間違いなく呪い殺されても文句を言えないくらいの嫌がらせをしてきた。友花は鼻で笑った。

「そーだよ。殺されちゃえばいいよ」

 底の磨り減ったスニーカーをぺたぺた鳴らして、誰にも届かないように呟いた。

 電車が去ったばかりの線路は熱いのだろうか? 触れてみようとは思わなかったが気になった。ふと、線路を渡り終えたところで空を見上げる。紫外線がキツい本日は快晴。焼け付くような光の中で、見覚えのあるシルエットを見つけた。

「えーと」

 中肉中背。しかし遠目でも分かる、手足の長さ。コンクリートで固められた橋の上にいる存在に向かって思わず小走りになる。

 どこか眠そうで、無気力な瞳。あぁ、変わっていないな、と思わず立ち尽くし見とれてしまう。名門校ならではの古ぼけた制服に身を包み、少しだらしなくはだけさせている。綺麗な首のラインが覗えた。

「なんか用ー?」

 一瞥もせずに、相変わらずの間延びした口調での質疑。少し低い、よく通る声と端整な横顔は微動もしない。

「えーと、まだ正午なんだけれど、こんな時間にうろつくなんて不良予備?」

「その台詞そのまま全力投球で投げ返しとくー。ちなみに我ら東高校生徒は成績会議につき午前中授業だー」

「あーと、気が合うね。南も職員会議で生徒一斉下校だよ」

「用がねぇーのにー、わざわざ此処まで来たのかー? 鏡友花」

「えーと、あーと。名前、覚えていたんだ。浅月京助くん」

 久々に会話したにも関わらず、違和感が無い。それがなんだか可笑しくて肩を震わせれば、ゆっくりとした動作で振り向く。やっと視線を絡ますことができた京助。対面するのは三ヶ月ぶりくらいのことだが、何年も会っていないような懐かしさがある。

「一応中学のクラスメイトだろー」

 協調性の微塵もない彼にこれほど似合わない単語はない。友花は小さく噴出した。なんだよー、とむくれる彼は自分よりも少し年下に思える。

「えーと、変わってなさそうだね。相変わらずの間延び口調。すごいやる気のなさそうな寝起きの感じ」

「人のことは言えねーだろー。優柔不断の化身みてぇーなその口調」

 むき出しの嫌味や悪態でも、懐かしの馴れ合いである。

「ところで小田切君は? 一緒じゃないの?」

「なんでそー、みんな、俺と修二をセットにしたがるんだー?」

 別に常に一緒にいるわけじゃない。心外そうに顔を顰めた。彼女は釈然としないまま隣に寄りかかると小さく息をつく。

「隈、あるけど疲れてんのかぁー?」

 無遠慮に目元を示され、思わず赤面した。彼は妙に思慮深いところがあるのだが、オブラートに包まないというか、後先を考えないというか……用は気が利かないのである。

「えーと、あーと? ちょっとね」

「南高だっけー?」

 彼女の制服を確認した後に口にする。襟ぐりにラインの入ったシャツとチェック柄のプリーツスカート。悪戯っぽく友花は笑うと、「言いたいこと、当ててあげようか?」と意地悪く笑う。

「高梨杏奈は私の友達。月館麻緒はどうでもいいけれど。あと佐々木彩とも仲いいかな」

「最後の名前ははじめて聞いたなー」

「そう? 結構騒がれているよ。自宅マンションから飛び降り自殺未遂。生きているけれど全国で……えーとあーと? 十一番目?」

「いつだ?」

「七月十日。つい最近」

 里子の転落事件と近い。京助は顔を顰め、穏やかじゃねぇなぁと空を仰ぐ。街は相変わらず安穏としているように見えても、実は危険や怪奇と隣合わせなのだ。

 災難、というわけではなくても連日のストレスが募りに募って、京助は確かに弱っていた。勿論自殺願望が出始めて線路を睨んでいたわけではない。学校では太一と気まずいままで、帰宅すれば『バネ脚ジャッキー』からのコールに怯えなければならない。板ばさみ上体の動き辛さややりきれなさを誰にも相談できないままで鬱々と悩める子羊だった。

「みーんな、さ。えーと、この重苦しい空気とか、嫌な感じとか、勿論連続自殺とか、『バネ脚ジャッキー』が悪いのよ」

「は?」

「『ジャッキー』が悪いのよ」

 知っているでしょう? 確認を求められ、顔を向ける。彼女の漆黒の瞳に間抜け面をぶら下げた自分が写る。

「まぁ一応な」

「あいつが、みんな悪い」

 鏡友花という少女は特別美人な印象こそないが、くりっとした大きな瞳が印象的で、愛想がよいため基本的に万人受けする性格である。サイドテールに結われた色素の薄い髪も、ラフに着こなす制服も清潔感がある。一見して、中学時代から変わったところは殆どない。だが、『ジャッキー』という単語を口にする彼女は不気味だった。

「『ジャッキー』は、許せない」

「……どーして、『ジャッキー』なんだ?」

「こんなに不自然な自殺が、当たり前のように続くわけがないじゃない」

 質問の答になっていない。だが聞く耳を持たないのか、食い違っているのか、彼女は「『ジャッキー』だから」と不明瞭な回答を当たり前のように口にした。珍しい断言には口を挟む余地も隙間もない。

「電子器具を通す『ジャッキー』に、姿形はないって聞くけれど?」

「それは見られていないだけでしょう? 都市伝説だもの。これまでに口裂け女や首なしライダーが表舞台に引きずりだされたことがあった?」

 オチは必ずあるけれどそれを隠し続けることが当たり前だ。実相しないからこその伝説ではない。白日に晒されないからの伝説なのだ。

「生きた人間以外の何物でもないよ。きっと。自分を正義だと信じ込んだ下種か、ピカレスクロマンに酔ったトチ狂いの馬鹿野郎。狂った殺人犯よ」

 まるで自分が見てきた事実であるかのように、毒牙をむき出しにして唸った。京助から見ればそこにあるのは狂ったリアリズムにすぎない。何かの逆恨みさえ感じさせる偏見だ。黙った彼を咎めるように、通過する貨物列車がちょうど二人の間を走る。わずかな振動を足裏から感じる。痺れに少し似ていた。ごうごうと騒音を轟かせて、やがて音は消えてゆく。

 巻き上がる疾風に持ち上げられた二人の前髪。同じ黒に部類する色の筈なのに、何かが違う黒。

 道行く人の視線は、二人に捧げられていた。誰もが一瞬だけ、ちらりと。襟ぐりに二本。紺色のラインが入った南高校指定のシャツ。どこに行ってもその視線が捧げられるのだろうか。彼女は一切の視線を無視していた。京助は彼女の制服と対照的にシンプルな制服を風に泳がしながら何気なく自らの頬に触れた。左の、少し熱帯びた肌。若干晴れているのだろう。噛み合わせがすこぶる悪い。

「……えーと、あーと? さっきから気になっていたんだけれど、殴られたの? 痛そう」

「痛てーよ」

 同じようになってみる? 笑えない冗談を一つ。友花はあまりのユーモアとセンスのなさに呆れを通り越して関心した。

 食えない彼に、何かを言ったところで意味がないと諦めたのか、話すことを突如放棄した。リュックサックを下ろし缶飲料を取り出す。

「えーと、あげる」

 押し付けるように手渡した。冷やせ、という意味が込められていることを機知し、頬に寄せた。少し温い。

「ありがてーんだけれどさぁー。なんで二個も持ってんだー?」

 プルタブを爪で引掻く彼女は「えーと、あと三つあるけれど?」と自慢げにバックの中身を見せた。平坦なそれには確かに同類の飲料が無造作にある。ポーチとペンケース以外の何もないリュックサックは自分の通学鞄とさほど内容量の誤差がなさそうだ。

「自動販売機のくじだよ。連続六回」

「すげぇーな!」

 身を乗り出して感心するので、悪戯っぽくピースした彼女はそう? と首をすくめる。

「あーと? 良くあることじゃない」

「嘘だね。俺、目の前で連続三回売り切れたことがあるくらい、見放されているんだぜー?」

「えーと、見放されているって、誰に」

「自販機の妖精に」

 真顔で淡々と口にする。馬鹿じゃないの、と一蹴することもできないくらい真剣な顔付きだった。

「……寧ろすごいと思うよ」

「あと家電の妖精にも見放されている」

「えーと、あーと? 意味分からないんだけれど。つまり運がないんでしょ?」

 生まれつき備わるものなのだろうか、京助はひたすら缶を頬に押し付けた。運を金で買えるのならば迷わず大人買いしたい。頬の痛みは運とは関係ないが、思わず連想してしまう。そこは一日経過してうっすら変色し始めている。青痣になるかもなぁ、とぼんやり溜息。できたところで特に不安が生じることはないが。

「えーと、誰に殴られたの?」

「友人……?」

「なんで疑問系?」

「……みてーな奴」

 同じ問いをされたら、太一が自分を友人と回答してくれるだろうか。それが気になった。

「なにそれ。喧嘩とかなの?」

「俺は狂犬を止めたから」

「あーと……だからそのわけのわかんない回答は何所から生じるの。会話する相手に分かるように思考回路を展開させようよ」

 そんなだから友達できないのよ。という痛恨の一撃は嚥下した。腫れた頬を見ていると、さすがに気の毒かと同情したのである。まるで彼の母親になったようだ。口煩く問いたださないと彼との会話が成立しないことは経験済みである。

「えーと、カツアゲとかじゃないんでしょ?」

「ねぇーな」

 ならばいいや。一気に飲料を煽った。カラになったそれをスニーカーで潰す。気持ちが良いほどに潰れ、音を上げたそれは小さくコンパクトにまとまった。

「えーと、何かができるわけじゃないけれど、許せないじゃん。そういうの。早く治るといいね」

「なぁー。鏡。一ついいかー」

 それじゃ、とあっさり背中を向けて遠ざかって行く彼女を咄嗟に呼び止めた。

「『バネ脚ジャッキー』を探しているのか?」

「勿論」

「何がしてーんだ?」

 手首を握り締めて、予測できる返答に覚悟した。なんとなく分かっていても聞かずにはいられない。京助は自覚して、止めることもできなければ満足に手伝うこともできない非力な分際だ。だから、鏡友花が何を犯しても、志摩里子が何を間違っても手出しなんてできるわけががない。

 どれくらいの時間、錆びだらけの橋の上に立っていたのかは分からない。何度目かの電車が通過する。音の唸りは聴覚を苦しめる。巻き起こされた風が視界を遮る。それでも、眼を開けていようと専念する。瞬きの一つでもした瞬間に、友花が消えてしまう気すらしたからだ。傾き始めた正午の太陽。照りつける日差しの下、長いようで短い静寂が降りる。

 彼女の周囲にまとわりついているように見える穏やかな怒気が、ガラス玉の瞳には蠢いている。京助はそっと息を呑んだ。ぞくりとするほどに精悍な顔つきで、鋭い刃のようなあからさまな殺意を込めた眼。潔いほどの悪意を、彼女は包み隠さず晒した。

 決まっているでしょ? そんなとこ。

「殺したい」

 Aspect 月館麻緒

 夕焼けは血のように赤く。光は夏蜜柑を連想させるほどに鮮やかで、色の強いオレンジを放つ。雑木林の側の歩道で少女は早なる心臓を押さえた。

「ねぇ、本当にできるんだよね?」

「当タリ前ダヨ」

 騒がしい国道の脇。鬱葱とした雑木林の奥にある小さな公園を突っ切って父親のゴルフクラブを大事そうに握った月館麻緒はボイスチェンジャーにひたすら確認していた。

「お願い、あなただけが頼りなのよ『落下姫』」

 青ざめた表情で、咽喉を掻き毟る。

 明るい茶色に染めた髪。校則違反承知の上だったのだが、素行が悪いと生徒指導担当の教員にしつこく注意されつい先日ダークブラウンに染め直した。何度もカラーリングしたにも関わらず、艶を失わない美しい髪は、彼女にとって自慢なのだ。しかし、今は艶が覗えないほどに痛み、肌も酷く荒れていた。

 自業自得と自分でも分かっていたが、麻緒はタブーを破り、『バネ脚ジャッキー』の呪いに感染した。

 握っていた携帯電話が振動し、メールが届いた。件名は無題。一昨日からその名前だけがフォルダに刻まれている。

 ――コンクリートハ硬クテ冷タク無愛想ナンダヨ。

 最初の文面だけで噴出す脂汗。逆立つ全身の産毛。鳥肌のあまりぶるりを身を震わす。

 ――知ッテイルカナ? 転落死ハ辛クハナイ。一瞬デ決着ガツク。全テノ人生ノ清算ヲタッタ一瞬デ支払エルノ。

 もう読みたくない。見たくない。しかし最後まで見続けないと、自分は殺される。蘇ってきた悪魔に、自らが作り出してしまった悪に殺される。

 ――落下シテ私ヲ受ケ留メナカッタコンクリートハ赤イ絨毯ヲ……真紅ノ花弁ヲ散ラシタヨウニ美シク優美デ綺麗ナモノヲ形成シタ。月館麻緒。貴女コソ、飛ブベキデハナイノカシラ。

「いやぁっ……」

 携帯電話を思わず投げ飛ばしそうになったが、ぎりぎりのところで踏みとどまる。外の空気に当てられて、挙動不審が一層のこと酷くなっていた。彼女はすぐさま電話をかける。相手はワンコールもしないうちに応答した。

「もしもし? 『落下姫』?」

「ウン。ソウダヨ。マタ『バネ脚ジャッキー』カラノメールカナ?」

「うん……。どうしよう。私また殺されそうになるの? どうにかしてよ! あなたも都市伝説でしょ!」

 公共の場ということも忘れて、ヒステリックに叫んだ。幸い周囲に人通りはなくて、忙しそうに自動車を走らせるサラリーマンばかりだった。

「落チツケ。君ハ大切ナコト、忘レテイルダロ?」

「え?」

「貴女ハ『バネ脚ジャッキー』ニ望ンダ。高梨杏奈ヲ殺セト。『バネ脚ジャッキー』ニハ覆セナイルールガアル。……アナタハ払ウベキ対価ヲ払エズニイル」

「だって、だって! 知らなかったのよ、本当に願いを叶えてくれるなんて思っていなかったの! あの女は目障りだったけれど、冗談だったのよ! 消してとは言ったけれど、殺してとは言っていないじゃない! 私のせいじゃないわよ!」

 ボイスチェンジャーは奇怪な音を上げた。それが笑い声とは理解できない機械的で君の悪い音声。しばし流れるそれを耳に入れながら、眩暈を覚える。

「『落下姫』ハ、『バネ脚ジャッキー』ノ対価ニ興味ハナイヨ。デモネ、セッカク君ヲ助ケテアゲヨウト思ッタノニナァ」

「いや、いや……! ごめんなさい。なんでもするから見捨てないで!」

「君ハ結局、『バネ脚ジャッキー』ヲ使ッタヒトゴロシノ癖ニ」

 違う。否定したかった。それでも、今『落下姫』から見放されたら本当の意味で自分は終わる。

 先日歩道橋で突き落とされそうになった恐怖が蘇り、脚がすくんだ。

 ――怖い、怖い!

 それでも、『落下姫』の要求を呑まなかったらどうなるか分からない。意を決して目的地まで毅然と向かおうと踏み出す。

 やがて見えてきたマンションは、廃墟と呼べるくらい錆びだらけで今にも崩れそうな場所だった。汗ばんだ手でゴルフクラブを握りなおす。

「殺られるぐらいなら、こっちから殺ってやるわよ……! 『バネ脚ジャッキー』!」

 ラインストーンを重要にした装飾品は殆ど禿げてしまっている携帯電話。一端『落下姫』との通話を切った。ポケットにねじ込むと風に暴れるプリーツスカートを押さえる。軽すぎて頼りなく感じるゴルフクラブに念を込めた。

 一発目が肝心だ。絶対に命中させなくてはならない。確実に急所を、動きを封じる為の場所を狙う。その後は叩きつけろ。とにかく、己の起動が制止するまで、懇親の力で。

 グリップの握りごこちに違和感はあったが、武器になるものなどこれぐらいしか用意できない。

 都市伝説『落下姫』は『バネ脚ジャッキー』のせいでどん底にいた麻緒に救いの手を伸ばした。都市伝説なんて頼りにしたくないのが心境ではあったが、警察も両親も、学校も友人も頼りにできない今『落下姫』に従うしかない。

「殺られる前に、殺るんだ……」

 ヒトゴロシになる覚悟なんてあるわけが無い。これまでに誰かに殺意を抱いたことが無いなんて言えば完全な嘘になるけれど、実行に移すことは……二回目だった。

 胃がねじ切れそうなほどのストレスを抱いて、取り壊しの決定されているアパートの螺旋階段に慎重に脚をかける。全て『落下姫』の指示だ。

 住人に見られては困る。噴出す汗を拭った。四階まで到達したときに、あまりの高さに膝が笑う。

「も、もしもし? 付いたわよ。五〇七号室の前。聞こえている? 『落下姫』」

「ウン。モチロン。サァココデ君ニ質問ガアル。君ノクラスノ井川勇一君ハ君ノ恋人ダヨネ?」

「そ、そうだけれど……」

「彼、ホームレス暴行事件ノ犯人ダヨネ」

「え?」

 怪訝に首を傾げた刹那、黄色と黒の縞模様のロープが背後から投げられた!

 反応することもできない素早さで、ロープが猿轡をなり遠慮なく顔面に括られる。抵抗しようと手足をじたばたすれば、腕に鋭い痛みが走った。一直線に赤い線を引いている。

「うう、う!」

「今度騒いだら、顔斬っちゃうかもよ」

 鋭い剃刀を眼に刺さるように見せ付けられ、青褪める。

(こいつが)

 ――バネ脚ジャッキー? それとも、落下姫?

 押さえつける人影は全く見えない。しかし剃刀を握る手には見覚えがある。日に焼けた丈夫そうな腕。太く長い指。なにより、手首に結ばれているのは青と黒のミサンガ。

(まさか!)

「お前。俺のこと売ったらしいな」

 視界に写ったのは、同じ南高校の生徒で恋人の井川勇一だった。

 部活で鍛えた筋肉が制服から覗くほど鍛えられており、かなり長身な少年だ。自分が進めて空けさせた耳のピアスはどこかおぼこい印象のある彼には似合わず、今や塞がりつつある。どんなときでも麻緒に優しかった彼は、一度だって手を上げられたことなど無かったのに無骨な指で胸倉を掴みあげる。

「言うな、って言ったはずだぜ? てか、お前も俺らと一緒にホームレスぼこったじゃねぇか。今更一人だけ逃げようとしてんじゃねょ!」

 怒りに耳まで赤く染めた形相は今までに見たことが無いもので恐怖のあまり息を呑んだ。がくがくと震えだす膝。冷や汗が吹き出て志向回路が正常に機能していない。……それでも、話が噛み合いそうにないことは分かった。売るも売らないも、本日ここに来たことに井川勇一は一切関係ない!

 猿轡のせいで何も喋れずに固まっていると下腹部の辺りを蹴り飛ばされる。

「うぅっ!」

 体をくの字に曲げてもがけばガムを飛ばされる。顔面に張り付いた生温いそれ。屈辱のあまり睨み返した。

「へぇ、これで俺のこと、殺そうとしたわけ? それで高梨杏奈の殺害に自分は関係ないって証明するつもりだったわけだ」

 勇一は落ちていたゴルフクラブを拾い上げると、薄ら笑いを浮かべている。恐怖のあまり後ずさりすれば、「動くな!」と顔のすぐ脇をゴルフクラブが飛んだ。

「ひ!」

「お前一人が逃げるなんて、無理に決まっているだろうが!」

 埃や泥で汚れたコンクリートに押し倒される。そこは酷く汚れていたが、そんなことを気にする余裕はなかった。……勇一の殺気は本物だった。冷や汗が全身から吹き出る。謝罪をしようにも、逃げようにも体が一切動かない!

「俺を裏切ってまで逃げたかったのかよ! てめぇ!」

 一切の迷い無く、ゴルフクラブが振り上げられた!

 ――殺される!

 その刹那、隣の五〇六号室が勢いよく開放される!

「な」

 勇一の注意が五〇六号室に向けられた瞬間、一斉に何かが彼を取り囲んだ。地べたに這い蹲っている麻緒をよそに、黒い雨合羽のようなものを着たそれぞれは勇一を毛布のようなもので頭から覆いかぶす。ゴルフクラブで牽制しようにも、手首を千切られん勢いの蹴りが放たれ、カランと音を立てて落ちた。

(なんなの……!)

 幸い体は拘束されていなかったので麻緒は自力で猿轡を解くと気付かれないようにゆっくり後退りすれば、毛布でもみくちゃにされている勇一の叫びが轟いた。

 その場から逃げることなんてできなかった。雨合羽の集団は彼女を完全に無視していたが、味方とは到底思えるわけが無い。ただ下半身全てが縫い付けられたように微動もできない。もっとも、自分を殺そうとした恋人を助ける気などさらさら無かったが。

 ふと、通話状態のまま放置されている携帯電話を手に取る。どういうことだと問いただす前に、相手は、『落下姫』はくすくす笑っていた。

「私ヲ殺シタヒトヲ探シテイルノ」

「え……?」

「コレデ、トリアエズヨカッタンジャナイ?」

「何言っているのよ! 言いわけ……」

 言いかけて、詰まった。麻緒はやっと思い出す。バネ脚ジャッキーは自分になんと、対価を求めた?

「飛び降りて、死ね……」

「ソウ、ダカラ、私『落下姫』ガ君ヲ救エルンダ。君ノ代ワリヲ用意シタダロ?」

「勇一が、私の代わりに……落ちて死ぬ?」

 一方、勇一は麻緒が口をぽっかりあけて、呆けたように座り込んでいるところを毛布の間から垣間見る。「ふざけるな!」叫びは全て言葉にならず前から後ろから、わけの分からない圧迫で窒息しそうだった。異臭を放つ毛布の中でひたすらに呼吸器官を唸らせるが気休めにもなりそうにない。汚物に近い臭いを放つそれの中で、ふと体が浮くような、妙な感覚にあることに気がつく。

 饐えた臭いから解放された瞬間のこと。

「え」

 ――それは一瞬よりも短い、刹那。

 ――一時間よりも長い刹那。

 理解することは困難ではなかった。あっという間のことで、戸惑う時間は無かったけれど、落下している。胃が押し上げられているような浮遊感に全身が包まれた。

 毛布から開放された肢体が宙に投げられたのだ。まるで普段自分が菓子パンのゴミを放るように。

 長鳴りする少女の叫び。その断末魔の刹那に、物がつぶれるような誰もが聞いたことのない嫌な音がした。それが砕けた骨の音だと分かる人間はそうそういないだろう。そして、勇一の視界が完全にブラックアウトする。

 放置自転車などが無造作に積み上げられた所に、なにか分からない君の悪い音が響く。

 オレンジ色の夕焼け空。体から生える無数の曼珠沙華(まんじゅしゃげ)。その紅は鉄錆の香りを誇る。

 噎せ返るほどに強く、直視することができないくらい、残酷に美しく。

 誰かが口笛を吹いた。

 それは、通話上体のままの麻緒の携帯からだった。

「言ッタデショウ? 私ハ『私ヲ殺シタヒトヲ探シテイルノ』ッテ」

 七月十五日 Thursday

 Aspect 朝比奈蓮太郎

 午後の日差しは最好調。なにかの嫌がらせか。誰かに訴えたくなるようなカンカン照り。だが、クーラーをつけているのに何故か湿っぽく黴臭いその真四角の部屋には関係なかった。唯一の窓もブラインドが閉まっている。

 四つの対面するように設置されたデスクと綿のはみ出たソファー。どこかの事務室と見間違えるような狭苦しい場所。そこは刑事課強行犯係(けいじかきょうこうはんがかり)の人間が頻繁に利用する資料倉庫だった。

 所轄のたまり場となっているそこは所謂『下っ端』にとって休憩場のようなもので、蓮太郎と要は住人と呼ばれるほどに入り浸っている。

 蓮太郎は栄養食を貪りながら資料に目を通していた。男ばかりに囲まれる数日。生活を振り返っても、この灰色一色の署内を見渡しても色気もなにもあったものじゃない。

「色気ねぇ」

 いや、一応あるのか。灰色の壁をちらり睨む。どこの誰が張ったのかも分からない、少々劣化し、色の抜けてきたポスターが張ってあった。ビールジョッキを掲げるきわどいビキニ姿の女性。物置部屋とはいえ警察署にビキニポスターはいただけないだろう。誰もが思いつつ、剥がそうとはしない。

「そういえば、起訴されたらしいですよ」

 沈黙を破り捨てた樹要は、ジャムパンを頬張りもごもごと咀嚼。

「何の話だ?」

「先輩の部屋に空き巣に入ったかわいそうな馬鹿野郎の話ッス。たまたま進入した部屋は既に荒らされた形跡のある乱雑状態。金目のものもろくに見つからなければ、警察手帳を忘れた家主が帰宅。結局なにも盗むことなんてできないまま、ベランダから死ぬ思いで逃走。しかし鬼の形相で追いかけてきて、抵抗するも力量明白。コンクリートに頭打ち付けられて脳震盪。家主が携帯電話で救急車に搬送させる。……なんだかどこに突っ込みを入れるべきかわからねぇ話ッスよ」

 どこのB級漫画だ。犬も食わない事件である。

「俺が悪いのか」

「そういう問題じゃないでしょ」

 本日二つ目のメロンパンを開封する。

「所長が前代未聞だって茹でタコになっていたじゃないッスか。いくらなんでも素人にドロップキックかまして十の字固めまでしなくても」

「甘いな要。もし相手が柔道有段者だったらどうする? 北斗心拳の伝承者だったら? はたまた少林寺拳法の達人だったときは?」

 都合のいい妄想だけは頭にぽんぽんと浮かぶんだな、あんたは。そう口にしようとして嚥下したのは、一応彼が年長者であることを考慮した上での賢明な行為だ。

「そう言われたら言い返せないッスけれど……。外見、普通に冴えないサラリーマンだったじゃないッスか」

 五十歳前後の中肉中背。まさにどこにでもいる中年男性。安物のスーツと眼鏡。手馴れた空き巣というわけでもなく。その道が短いわけでもない。

「人を見かけで判断するな」

「……見られちゃまずいものでも、あったんスか?」

「なんでだよ」

 今度はクリームパンを開封する。毎度のことながら良く食うなぁ。とまじまじ観察した。既に開封されたあんパンとつぶあんパンとメロンパン。ジャムパン・鶯パン・カレーパンなどの菓子パンの袋が机には広げられている。

「あまりの慌て様で、周囲の民間人は殺到した先輩を刑事って見抜けなかったみたいッス」

 要はにやりと笑う。

「比較的、現場でも冷静だし現行犯逮捕なんて慣れているし得意分野でしょ。なのにどうしてそんなに焦っちゃってたんスか?」

 表情を引きつらせてがりがり髪を引っかけば、「禿げますよ」と注意された。要は今度行ってみようかな、と冗談めかしに口にする。しかし彼は言葉にする大体のことを有限実行する奴なので肝を冷やした。

「年長者をからかうな!」

 拳を脳天から振り下ろす。かわすことが出来ず「あだ!」と直に受けとめた。煙草を咥えようとしたが、箱には一本もなかった。畜生と短く吐き捨てる。そのまま箱をぽいと投げた。要は痛ったいなぁ、と脳天を摩る。それでも咥えたパンは離さない食意地には尊敬すら覚えてしまう。

「ゴミ箱にちゃんと捨てましょうよ! あんたは鼻水拭いたちり紙を投げて捨てたがる面倒くさがりのおっさんか!」

「どこのおっさんの話だよ! こんな若々しくぴっちぴっちのおっさんいるか!」

「ウチの親父ッスよ! ぴちぴちとか死語だし」

「知るか! 俺が法律だ」

 まだびっちびちの二十七歳だ! 抗議ついでに彼の座るパイプ椅子の足を蹴る。すると「クリームが零れるじゃないですか!」真剣にコロネを頬張る要が迷惑そうに抗議した。

「まったくもー。おっさんの癖に大人気ない。いいじゃないッスか。先輩と違って俺は三日間近くここに缶詰ッスよ? やっと外に出たと思えば熊みたいな教師との対面でのガチにらめっこ。一度だって家に帰っていなくて胸毛がもさもさ生えた腹を一生懸命引っ込める年齢の中年たちと共同シャワーなんだ。ストレスだってあっちのほうだって溜まるもんですって」

 下品な単語は聞き流すことにした。

 菓子パンを頬に詰めるように頬張るしぐさは兎を連想させる。一八〇をオーバーする身長の男が甘い菓子パンを吸い込んでゆく様はなんとも言えない。そして年長者の上司を批判する単語をぽんぽん口にする彼の将来はおそらく期待できない。

「なんだその俺はサボっているみたいな言い方。だいたい、またおっさんって言っただろ」

「適度にガス抜きはしているみたいじゃないですか。俺が南高で大塚誠二の事情聴取をしていたとき、何所に行っていたんです?」

 じとっとした目で睨まれれば、なんの話だと抗議する前に、なるほど。すぐさま既知した。

「黒奈は彼女とかじゃねぇぞ」

 蓮太郎の口から零れた女性の名前。ピクリと要は反応すると目を逸らす。

「本当だって。あいつとはただの腐れ縁」

 なんでこんな浮気を誤魔化すようなことをしなくてはならないのだろう、と思いつつも彼のご機嫌を伺う。

「忙しい合間を縫ってまで会いに行きたい女性が、ッスか」

 ずいぶんとご機嫌斜めである。思わず溜息をついた。なんだ焼餅か。などとからかう気分にすらなれない。

「なんだ、お前。死体の解剖につき合わせたのがそんなに根に持っているのか」

 高梨杏奈の司法解剖は、本来蓮太郎が立ち会うはずだった。しかし面倒臭さのあまり「体調が悪い」と仮病を口にし無理やり要を出向かせたのだ。

 スプラッタやホラーの類が苦手な要。それはそれは酷い顔色で、酔っ払いの如くふらふら覚束ない足取りでデスクまで戻れば、蓮太郎はこの部屋のボロソファーで寝息を立てていたのだ。かろうじて彼が上司であること、理性がまだ健在していたことが引き金となり、握られた鉄のような拳が凶器になる、という最悪の状況からは回避された。

「それより、煙草買ってきてくれ。マルボロのメンソール」

「自分で行けよ」

「先輩に対する敬意はないのかね、樹要くん」

「おっさん。メンソールって、吸いすぎると使い物にならなくらしいよ。アレ。まぁ使用することもそんなに無いでしょうけれど」

「え、マジで? ……って、おい。既に敬語でもなんでもないなお前。反抗期か」

 高梨杏奈の死体は誰が見てもあからさまに転落が原因である死体で、全身の穴という穴から血を噴出していた。破裂した水風船のようになった心臓もや粉砕された骨は本当に酷い状態だった。

 検死官は口にした。この死体は、まるで水風船のように心臓が破裂していると。

 その死体は嘗て人型であったことを思わせないほどに形を崩していた。それを見るだけでも根性を奮い立たせたのに、それをさらに切り刻む……。要は検死官にだけはなれないとつくづく思った。

「要、すげぇ言いにくいこと、一ついいか」

「何スか」

「井川勇一と月館麻緒の件。ウチが扱うことになるから多分検死またあるぜ」

 手にしていたファイルから菓子パン、全て落とすと面白いくらいに青褪める。

「勘弁してくださいッスよ! 俺井川勇一の死体見るだけで吐きそうだったんスから!」

「今もりもり元気に食ってんじゃねぇか」

「全部リバースしそうッス」

 口元を抑えて腰を曲げたので便所に行け! と怒鳴った。

 七月十五日早朝に発見された井川勇一は完全なる変死体だった。脳裏から眼球へと貫通された自転車のサドル。それが決定的原因なのは誰が見ても明白だが、傷口周辺の腐敗以外は殆ど腐っていない状態。頭部の著しい腐敗は死後三日近くを思わせるものなのに、胴体部分は直後といっても過言ではないくらい綺麗なまま。一重に『ありえない』死体だった。

 一方、月館麻緒は井川勇一が発見されたアパート傍の車道で発見された。目撃者がいない以上交通事故で処理する方向ではあったが、轢いてしまったトラック運転手曰く、まるで最初から死ぬつもりでいるように自ら飛び込んで来たらしい。

「不可解ッスよね。なんであんな取り壊しが決まったマンションなんかで……」

 誰が持ち込んだのかも分からない綿のはみ出たボロソファーに横になり、ぐったりしている。よほどトラウマだったのか、未だに顔色が優れなかった。蓮太郎もさすがに心配する。

「あと、二人の携帯電話がまだ見付かっていないらしい。誰かに呼び出された可能性もあるから、通話記録を今調べているところだそうだ。……月館麻緒の最後の通話した相手は鏡友花らしい」

「鏡……? あー……南高校の不思議ちゃんだ」

 偏屈な覚え方ではあるが否定はできない。

「彼女がさっき署に連絡をくれたみたいだ。月館麻緒と死亡直前まで会話していたって」

 毎回巻き込まれているというか、首を突っ込んでいるというか。ぎりぎりのラインで『重要』参考人ではない彼女。人懐っこい笑みには何か隠されているのではないかと疑ってしまう。

「最後、なんて会話したって言っていたんスか?」

「当人も意味不明だと思ったらしいぞ。そもそもそんなに深い交友があったわけでもなかったそうで、最後に電話をかけた相手が自分であることに鏡自信も驚いているそうだ。ただ、何度も助けて、とか、追われている。と訴えていたらしい」

「月館麻緒はストーカー被害とかにあっていたわけじゃないッスよね?」

「被害届は出ていないな。井川勇一と交際していたようだが、周囲から見るぶんには順調だったようだし」

 長い間彼女のいない成人男性二人。羨みと僻みを込めて「爆発しろリア充」と呟く。休みのなさのあまり大人気なさと人間性が大きく欠陥し始めた。

「ただ月館麻緒は都市伝説と関わってから不可解な行動を見せるようになったらしい」

「『バネ脚ジャッキー』ッスよね?」

「いや、他にも『落下姫』とかいう、ネットでは有名な奴との関りを持っていたらしいな」

「何所からの出ですか?」

「さぁな。どこにでもいる馬鹿野郎だ」

「先輩みたいな?」

「あぁ。お前みたいな天然パーマ野郎かもな」

「世界中の天然パーマに誤ってください。天パの過酷な宿命はお前みたいなストレートにわからねーッス」

 後半はただの八つ当たりである。蓮太郎が回転椅子の背もたれに深く体重をかけると耳障りな悲鳴が上がった。煙草に点けるわけでもない炎を燈し、ゆらゆらとオレンジのそれを眺める。百円ライターからもゆる炎は小さく消えてゆく。じりっと指に力を込めると一瞬の火花と共に咲く安い焔。

「高梨杏奈は自殺で、その自殺は幽霊や呪いを発動させる為。つまり零体となって蘇り、数々の若者を殺している。……まぁ大体似たり寄ったりの内容でネット内に出回っているらしい」

 ぱちんと蓋をして火を消す。前髪を掻き分け、頭皮に爪を立てた。禿げるという忠告は耳に入ることはない。

「彼女が自殺ということはまだ確定していない。だが週刊誌ではそれを思わせるような内容で書いてある。だから『自殺』に関してはまだ眼を瞑るとしよう。だが、以上に一人歩きしているだろ?」

「『落下姫』が、高梨杏奈ですか」

 蓮太郎が差し出した藁半紙を凝視する。ふざけた絵文字で書かれているそれらは、おそらくどこかの掲示板やツイッターなどをコピーしたものだろう。他人の死について中傷し、面白可笑しく騒ぎ立てる根性がわからない。理解もしたくない。嫌悪を覚えるその先に、確かに多くの仮説に共通するワード。

「この世への、恨み?」

「高梨杏奈はこの世に恨みがあって、または若者に対する嫌悪・殺意があって蘇ったことが前提になっている。日本全国津々浦々。転落自殺した人間全て『落下姫』の仕業だと。……個人名を使うと警察が厄介だから、あえて名前をつけたんだろう。『落下姫』、ってな」

「落下姫、ですか。随分ひねりのない名前にしたッスね」

 センスを求めるところだろうか。要の観点はいつもどこかずれている。

「落下姫から、メール。または電話が掛かってくると、その人間は必ず転落死する。落下姫と名乗る彼女は必ず『私ヲ殺シタヒトヲ探シテイルノ』というらしい」

 何を回答しても、最終的には死ぬ。今のところ対処法はない。『バネ脚ジャッキー』と類似した、信憑性のない新しい都市伝説。

「幽霊説がもし、真実で、落下姫が存在したらえらいことッスね」

「馬鹿言うな。問題は、落下姫が本当にいるのかどうかだ」

「は?」

「高梨杏奈が蘇って人殺しをしている? そいつはすべての未解決事件に決着つけちまう一言だろ。落下姫が存在するとしたら人間だ。百パーセントな」

「憶測で物事を判断するのは先輩の悪い癖ッスよ。都市伝説様ヶに呪われちまう。……現に日本全国で高梨杏奈が転落してから十一人も墜落自殺を図った学生がいるんスから」

 ろくに信用していない都市伝説を、それも馬鹿にして鼻で笑っているくせに庇う姿勢をわざわざ見せる。蓮太郎に逆らいたいがための行為で、十分に青筋を浮かべさせる理由だ。

「単純に幽霊説を信じてみるとなると、高梨杏奈はこの世に恨みが合ったことになるんスよね?」

「そうだ。家庭事情以外で単純に考えればいじめだろうな」

「その事実はないと担任は否定しているッスけれど、信用できないですからね。実際生徒が何をしているかなんて把握できるわけもないんだから。つまりは、高梨杏奈が自殺しても誰も疑わない状況に彼女がいた可能性があるってことッスよね。自殺に仕立て上げられても不自然にならない理由とか」

 自分で口にしていて嫌気がさし、げんなりした。そんなこと考えたいわけが無い。

 現代のいじめの問題が陰湿なものに変わってきていることは分かっている。要は以前、厚生労働省地方厚生局麻薬取締部で勤務していたときもいじめが原因で自暴自棄になった人間を多く担当してきた。深刻化しているが、それを止める方法も対処も今のところ無い。だからといって無視し続けることができるものではなく、深刻な社会問題の一つだ。要も蓮太郎も幸い全く関係なく学生時代を過ごしたが。

 蓮太郎は何故かふいに、高梨杏奈の死に顔を思い出した。死体袋に収められた彼女の頭はひしゃげていて、頭蓋骨が粉砕されていた。詰め物をしても、葬式で顔を見せることは出来なかっただろうし、死に化粧を施すこともままならないほどに酷いものだった。眼球のない眼窩。前歯のない空虚な口。おかしな方向に曲がった鼻。正直思い出したくも無いが、忘れることができない。数年で死体は見慣れたはずの蓮太郎でさえ嘔吐しそうになった。

「あんな死に方じゃあ、成仏できるものもできないよな」

 死体袋の中で永久の眠りに付いた彼女は、生前、美しさのあまりに散々好奇の眼に晒された面影は一切無かった。

「もしかして、高梨杏奈って死亡していないんじゃないッスか?」

 馬鹿じゃないのか。呆れるより先に、疲れているのか、と心配が勝る。

「整形して彷徨っていたりして。幽霊より実際、生きた人間のが怖いッスからねぇ。……あ、それか『バネ脚ジャッキー』関連とか」

「急にどうしたんだよ。ついに脳内までくるくるになったか」

 あまり聞きたくない単語に、心臓が跳ねる思いをする。

「だってほら、鏡友花は『バネ脚ジャッキー』が犯人だと思うって言っていたじゃないッスか。それに、何か似ているでしょう? 『落下姫』と『バネ脚ジャッキー』。手段が同じというか」

「話題に取り込まれすぎだろ」

「バネ脚ジャッキーVS落下姫。新星の都市伝説対決ですか」

「だから、そんなこと言ったらどの事件も迷宮入りしちまうだろうが。だいたいなんだ? その売れない推理小説みたいなタイトル」

 警察要らず。『ジャッキー』が治安を守る国。都市伝説の力量はどれほどのものか既知していなくても、蓮太郎は一切信用をしていない。あやふやで姿のないもの。それがなんとも腹立たしく感じる。

「そもそもあの手紙はなんなだ……」

 手紙一枚だけで音沙汰無く、悪戯目的を疑い始め、それらを考えるだけで苛立ちが増した。ひとり言は要の耳に届いていなかったようで、首を捻りながら勝手に一人連想ゲームを続けている。

「じゃあ、こういうのはどうッスか、先輩。『ジャッキー』の関連する事件は全て繋がる。だから、ホームレス連続暴行事件も学生連続墜死事件も、全て『ジャッキー』が解決する為に仕組まれた事件」

 Aspect ?

「痛ってぇ……」

 角田巧(つのだたくみ)は殴られた頬に手の甲を当てる。しばし口内をまさぐれば、どろりと血の味がした。歯は折れていない。

 日はとっくに暮れており、月も真上に君臨する。蛙と自動車と踏み切りの音だけが田舎町には立ち込めていた。

「誰だか知らないけれど、馬鹿だよな」

 喧嘩もしたことがなさそうな少年の拳がこんなにも響くとは。角田は痛感しつつ悔し紛れにアスファルトを蹴った。

「……ホント馬鹿だよな。見放しておけば、こんなことにならなかったのに」

 誰に言ったわけでもない独り言は蒸し暑い夜に溶ける。暗闇を照らす街灯に集る蛾。バチっと鈍い音を何度も立てても光に体当たりする。人気のない、木々に囲まれた公園で錆びたブランコは風でかすかに揺れてぎぃぎぃっと奇怪な音色を奏でる。

「こんなことに巻き込まれずにすんだ、の間違いじゃないか? まぁ巻き込んだのが俺たちだから首謀者が言うのも微妙だけれどよ」

 長身痩躯(そうく)である椎木海斗(しいきかいと)は、覗き込むよう屈めた。落ち着いた物腰の彼は同じ高校生とは思えないほど大人びている。賢く、口調こそきついが器用でなんでもそつなくこなせる。そんな彼を角田は日々羨ましいと感じていた。

 思えば、先ほど自分を殴った……。自分たちが喧嘩を売った少年も賢そうな顔立ちをしていた。

 どこかぼんやりしているが、整った顔立ち。道行く人の目を引く容姿。血相を変えて歩道橋から身を投げようとするサラリーマンを助けようとしたあの少年。

 ――死のうとする人間なんて、放っておけばいいのに。

 いい人、と呼ばれる存在はカモなのだ。食い物にされ、傷つけられ、捨てられる。インスタントカメラのように、荒々しくシャッターボタンを押し続けられた後は核であるフィルムだけ取り除かれ、焼却の運命。名前も知らない彼は、今頃事情聴取でも受けている頃だ。カツ丼でも差し出されているのだろうか?

「アイツ、マジむかつく! オレのケータイぶっ壊しやがってよぉ!」

 一方、普段から落ち着きのない信楽良(しがらきりょう)はゴミ箱を蹴り飛ばした。ステンレス製のそれは変形すると倒れこそしなかったが、中の空き缶を吐き出す。わずかな異臭が放たれる。

 ニキビ面に大きな瞳。茶色よりも明るく染め上げられた短い髪。いくつも空いたピアスなど、誰が見てもお墨付きの不良だ。百七十センチの角田よりもいささか小柄なのは、幼い頃から飲酒禁煙を繰り返したことが理由だと本人は豪語する。それが恥じるべきことだと思考回路が働かない彼とは意見が食い違うことが多いが、長年の幼馴染だった。

「落ち着けよ。いくら人通りがなくても派手に騒いでいたら目立つって」

 溜息と同時に信楽を宥めるが、ぎょろりとした視線がこちらを鬱陶しいと言わんばかりに捉える。

「あぁ? そんなんだからお前はヘタレ何だよ。いつまでたっても童貞のくせに指図すんな」

 かっと頭に血が登った。お前のような甲斐性無しと一緒にするな。詰め寄って胸倉を掴みあげようとしたとき「やめろ信楽。角田に当たるなよ。落ち着け」椎木が腕を掴んだ。

「おうおう! てめぇはいいじゃんよぉ! 殴られもしなければ、ケータイも壊されなかったしよぉ!」

 深い溜息の後に落ち着けよ。と再度復唱する。

「あの場で、作戦練って警察呼んで、今こうして安穏とできるのは指示した俺だ。予定外の負傷は全て後先を考えることなく、ろくに思考錯誤もしないで人任せにしているお前らの責任だ」

 文句あるか。と切れ長の瞳が細められる。何も考えずに行動している。という真実を指摘された信楽は「畜生」と唸る。

「でもよ、海斗。なんで急にあんなことしたんだ? お前、あのサラリーマンが死のうが生きようがどうでも良かったじゃん?」

「当たり前だ。分からないのか?」

 そんなことも説明しなくてはならないのか。と呆れ、見下す。そういう偉ぶった態度さえとらなければ、有智高才(うちこうさい)を安易に認めることができるのに。なにからなにまで嫌味たらしいのは玉に瑕だ。椎木としては「分かってもいないくせに従ったのか」と彼らの無知を呪う。

「あのリーマンが自殺をしようとしているのが分かるのは俺たちのように数時間前、あの場を通り歩道橋に立ちすくんでいた姿を見た者だ。 もしあの高校生とリーマンがもみ合っているところから拝見すれば、襲われているように見える筈」

 確かに止めようとした高校生に向かって「来るな!」だの「助けてくれ!」だの叫び、発狂していた。

 残り少ない髪を振り乱し、眼鏡がずれ、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった中年のサラリーマン。醜く腹が出ているあの姿を思い出すと、何故だか嫌悪と苛立ちがこみ上げる。自分は弱者だ。人に見せ付けるかのように自信なさそうに垂れ下がった眉毛。まるで自分の父親を連想させる。角田は鬱々とした気持ちになった。

「連続墜死が流行している今だ。すぐにでもあの高校生は犯人扱いだろうよ。俺が呼んできた交番の警察も、高校生だけ捕らえてそそくさ消えただろ」

 角田はしきりに頷き素直に参勝した。信楽は「それが何になるんだよ」とご立腹。携帯電話が犠牲になったことが未だに納得いかないようである。

「だから、この墜落事件解決を防ぐ、警察に仕掛けた罠だ」

「あぁ? 犯人庇ってどうするつもりだよ」

「俺たちも犯人みたいなものだろう」

 何でもないことのように口にする椎木と「あぁそうか」と納得する信楽。頭が良くても道徳のない男と、思いやりという言葉の意味すら知らない男。角田は軽い頭痛に見舞われる。ふと、左耳のピアスをなくしたことに気が付き更に重くなった。

「あの、三つ編みの女。東高の奴。マジ俺たちの顔覚えていねぇーよなぁ?」

 信楽は急に何を考えたのか話題を変えた。街灯が点滅し始めて、一瞬暗闇が降りる。繁華街のない田舎町の夜はたいそうさびしいもので、住宅の明かりも少なくなる今、ほぼ全ては闇に包まれている。

「なんだ、不安なのか?」

「違げぇよ! トドメさすべきだったって言っているんだ!」

「馬鹿! 誰かに聞かれていたらどうするんだ!」

 角田が慌てて制止した。それをけたたましい笑いでかき消し「マジ、小心者すぎじゃーん?」と馬鹿にする。

「そうだぞ。角田。お前もう少しどっしり身構えていないと、いざとなったときに対応できない」

 椎木がそう口にして、煙草を取り出す。ポッキーを摘むように信楽は摘み、咥えた。

「ん」

 差し出されたそれを、拒否した。気分じゃないのである。浮かない顔を見て、彼は面白くなさそうに火を燈した。その刹那。

「うわっ!」

 森林の奥で、シャッター音と共にストロボの光が迸る! 光は一瞬ではなく、三人が気が付いた今も光り続けていた。

「な、なんだ?」

「カメラだ! 言わんこっちゃない!」

 角田は光に向かって地面を蹴った! 嫌な汗が噴出す。光は二十メートルも離れていない。走れば追いつくと自信を持ち疾走した! 木々の根で足場が悪く、腐った落ち葉がぬかるみになっている。後ろで追いかけてくる二人の様子を確認する暇もない。

 ストロボは止まる。一気に周囲は暗くなるが、公園の点滅する街灯がかろうじて光をさし暗闇にはならなかった。

「待てこらぁああ!」

 雄叫びを上げたのは信楽。角田もそれを望むが、叶うわけもないと唾を吐く。目標は体躯こそ分からないが、どうやら影から推測すると身長は自分と同じくらいである。

「まさか」

 あの高校生か? いや、そんなはずはない。まだ一時間もしない出来事で、そんなに早く釈放されるわけがない。気をとられると足もとられるので、ただ懸命に掛けた。

 どうやら前方を行く目標は懐中電灯を使用しているようだ。ふらふらと怪しげな光が見える。独特のオレンジ色のそれは彼の足元を照らす上で必要であるわけだが、その光のせいで場所を表明していることに気が付いていないのだろうか? 雑木林を抜けると、硬いコンクリートで舗装された駐車場に出た。既に静まり返っている製麺所。標的は懐中電灯を角田に向かって放る。それはかなりの送球であったが、中学時代野球を経験している彼にはキャッチできた。投げ返そうと腕を振るう。その瞬間、凄まじいストロボが再び迸る。

 間合い十五メートル。その距離に追い詰められておきながらその人物はひたすら角田の写真を撮る。逆行の光の中で一眼レフカメラのレンズを見た。フラッシュに眼をやられ、一瞬くらむが握った拳を叩きつけるために標的と一気に間合いをつめた!

「この野郎!」

 しかし、標的は身を屈めて肘を打ちつける! それを腹に喰らい、体を屈折させた。ぐぅっと唸りを上げる。それと同時に今度は膝が胸を突く!

 コンクリートに体躯を伏せる。仰向けになるよう蹴り飛ばされ、夜空を見上げた。ぬっと現れた標的の顔はよく見えない。しかし街灯が照らす光は、赤いラメの施されているピン留めを照らした。

「お前が、里子を落としたのか」

 咽喉元を踏まれ、かろうじて呼吸できる状態だ。自分の呼吸がうるさくて聞き取れない。落とした。という唯一の単語だけが耳の奥でリフレインする。

「聞こえてんの?」

 静かな苛立ちが込められた、落ち着いた声。つま先に体重が込められて、苦しさのあまり脚をばたつかせる。

「東高の三つ編みの女の子を殺そうとしたのか? って聞いているんだよ!」

 角田は虚ろになる視界のあまり自供することすらできなかった。酸素が薄すぎる。呼吸ができない。咽喉元をぐりぐりとさせるスニーカーの底は肌を無情に擦る。

「そうだったら」

「!」

「どうするんだよ?」

 赤いピンの標的は横から飛んできたとび蹴りを喰らい、受身を取れずに叩き込まれ吹っ飛んだ。一眼レフカメラが同時にコンクリートの上を滑る。

 蹴りをかました信楽は標的を掴み上げようとするが、彼は即座に抵抗する。取っ組み合い、標的が彼を軽々しく投げてコンクリートに叩きつけた! そしてそのままカメラを拾うと、製麺所の駐車場を後にしようとフェンスをひょいと飛び越える。

 後に続く椎木は、無残にコンクリートに潰れる二人に目線をやり、忌々しそうに舌打ちをしてフェンスに脚をかけた。

 七月十六日 Friday

 Aspect 相模太一

 嘗てない迫力の鬼ごっこに心臓を破裂させそうな感覚に陥る。太一はぜぇぜぇ肩で息をしつつもひたすら走り続けた。

 デジタル腕時計が日付の境目を越えたこと電子音で告げる。わずかな音にさえ背筋を凍らせた。

「ありえねぇって」

 自分で仕掛けた喧嘩だ。負けるわけにはいかない。負けたらおそらく

「殺されるだろうな」

 太一は蹴り上げられた右腹に手を当てる。肋骨の辺りが悲鳴を上げていた。殴り合いの喧嘩なんて初めてである。と豪語したいところだが、つい先日、ひっぱたいた友人のことを思い出した。

「……」

 その友人浅月京助が、警察に取り押さえられている瞬間を目の当たりにしたのは当然偶然ではない。

 

 ――先日。

「いい加減にしてくれよ、俺、あんまり関わりたくないんだって」

 電話の向こうで今にも電源を切ろうと虎視眈々と狙う友人。太一はすかさずに口にする。

「ばらしちゃおうかナァ」

「わー! ヤメロ頼む!」

 にやりと笑うと「じゃぁ続けようか」と脅した。そしてメモした確認事項をすらすら口する。

 電話の相手は胃がねじ切れそうな思いで「この電話が終わった瞬間に相模太一とは縁を切ろう」と溜息を一つ。運命を変えるのであれば、この男とであった四年前からリライトしたいものだ。「畜生」などほんのわずかな悪態すらも拾う彼は到底敵う敵ではない。

「月館麻緒は読者モデルをしており、いずれ大きな舞台で活躍するモデルを目指していた。そのため、自分を差し置いた高梨杏奈に逆恨みをしていた。

 井川勇一は高梨杏奈にフラれた経験があり、月館麻緒との交友が深い。高梨杏奈に嫌がらせをする前は、他の女子にちょっかいを出している」

 太一はふうと息をつく。そわそわしているであろう電話の向こうの存在は早口だった。

「……俺、未だに覚えているよ。月館が雑誌を高梨さんに突きつけて『コレ、アンタでしょ?』って聞いたんだ。もう、すげぇ顔。俺、月館と高梨って普通に仲の良かった関係だと思っていたからびっくりしたんだよ」

 丁寧だが、おどおどとしている。受話器の向こうに落ち着けと宥めたいが、原因は自分なので妙な気分になる。カツアゲでもしている気分だ。中学時代の友人である彼に対して一切の謝罪の念は無いが、われながら同情はしていた。

「つーか、お前も俺も月館も同じ中学出身じゃん。なんとなく分かるだろ? あの性格……」

 月館麻緒に関して、正直好印象はあまり無かった。責任感が無いくせにリーダーシップを発揮しようとする幼稚さや、垣間見える猫かぶり。それでも小悪魔的なところが可愛らしく見え、明るさや協調性に長けている。良くも悪くも、どこにでもいるタイプの女子高生だ。

 交友関係こそ深くなかったが、彼女が死亡したことを今朝のニュースで知ったとき、衝撃と喪失のあまり青褪めた感覚は未だに残っている。

 友人は変わらず、おどおどした様子で続けた。

「……しかも、そのあと高梨さんは児童ポルノ法だかでかなり報道機関騒がせただろ? だから嫌がらせは酷いつーか、なんつーか……」

「こっちのデータでも、月館麻緒って人物は八方美人ってことになっているぜ。実際、月館麻緒はプロダクションの応募とか、よくやっていたみたいだな。……毎回書類審査落ちみたいだけれど」

「お前のデータってなんだ! あ、話すな? 聞きたくなんかないぞ!」

 すでに友人の声は涙声だ。

 膝の上のノートパソコンを弄り、経歴を見る。カーソルをずらして確認するが手当たり次第もいいところで、雑誌モデルの応募も一度きりということが分かる。

「で。単刀直入に言うんだけれど、加害者になりそうな人物名前挙げてくんない?」

「そ、そんなこと」

「できない、とか言わせないぜ?」

「な、なぁ太一。やめろって。悪いコトと言わないから、な?」

 本気で身を案じてくれる。太一は彼の性根が優しく真面目であることを気に入っている。だがその優しさは今の太一にとって鬱陶しいものであることこの上なく、微苦笑しながら「やめるかよ」と低く聞こえないように唸った。胸の高鳴り。と表現すれば不謹慎だろう。それでも、自らが挑む大きな存在を前にして、一瞬の物怖じもすることなく望むつもりでいた。だから足枷になる優しさも、怖気も必要ない。

「……俺の友達のたーいせつな人なの、杏奈ちゃんは。俺は会ったことないけれど」

「でも、もしこんなことがばれたら」

「その言い方だと、いるんだな?」

 有無を言わさず攻めた。若干申し訳ない気もするが仕方がない。この尋問でまた一人友人を失うことになりそうだったが構わなかった。

「俺が、言ったなんて絶対言うなよー!」

 おそらく半べそだ。それでも語ってくれた名前。太一はそれを何度もリフレインさせ、データと照らし合わせながらPCに打ち込む。通話が切れた後、同じことを複数名に繰り返した。

「容疑者なんだよ。お前ら三人」

 太一は走りながら呟く。肩口から確認すれば、背後にいるのは椎木一人だ。

 南高校に通学する全てのツテに脅迫……聞き込みをして割り出した結果、二名以上から名前の挙がったものを徹底的に調べた。そして五名以上から指名された三人の行動について実際に張り込むことにしたのである。

 彼らの行動パターンを観察し始めたと同日。思わぬ展開で京助と彼らが接触し、彼はまんまとカモられる。警察に連行された彼がどうなったのかは不明だが、上手くやったと信じよう。実際彼は無実なので簡単に釈放されると確信があった。

「東高、三つ編み少女なんて今時、志摩里子ぐらいしかいねーんだよ、この野郎」

 入り組んだ古い団地を抜け、隠れられそうな場所を探す。脚を引きずるようにして街灯が二十メートルごとに儲けられている道路まで走ると、一端コンクリートに膝を突いた。後ろに人影はない。冷えたアスファルトに爪を立てる。

「いってえよ。痛ぇ。泣いていいですか、畜生」

 吹き出た汗なのか、激痛による涙か分からない雫がぼたぼたと。

「ちくしょ、改良に改良を銜えたオリンパス E-330が……」

 コンクリートに打ち付けられたせいで傷だらけだ。フラッシュ機能を強くする為にいろいろと入り組んだ仕組みにしたため、重量がかなり増えたことを呪う。しかし写真は取れた。

「志摩っちがもし犯人の顔を覚えていれば、この写真も役立つだろうけれど……」

 そうでなかったらこの努力も半減か。

 溜息をつけば、肋骨の痛みも増す。

「俺だってやるときはやるんだよ、畜生。情報屋嘗めんな!」

 汗を拭うと、立ち上がる。整った呼吸を潜ませた。辺りには虫の鳴き声しかない。

 見えない闇、三百六十度全ての方向にフラッシュをたいた。やはり、衝撃のせいか光の力は落ちている。シャッターも伐りにくい。

 ふいに、京助との喧嘩を思い出した。

「間違ってなんかいない」

 そう、自分の選択は、正しくはなくても過ちではない。薄々、京助にとって誰にも知られたくないことがあるのは既知していた。両親がいないこと……事故か事件かは分からないが、それが関連することも分かっている。

 それでも過去からも逃げようとする彼は正直気に入らない。誰かが助けてくれないと生きていけない。その助けが当たり前だと無意識に思っているのではないだろうか、そんな傲慢さが垣間見える感じがするのだ。自分が言い過ぎた、と素直に謝罪しよう。何度もそう思った。しかし、意固地になってやろうとも思う。

「とりあえず」

 どっちにしろ、大手柄を立ててやらなくては、この肋骨が名誉の負傷にはならない。

「一人でいい」

 一人でないと困る。三人も一気に捕らえて尋問するのはさすがに無謀だ。しかしその願いも虚しく、影は三つ現れてゆれる。一番危険な香りのする信楽の手にあるのはどこで拾ったのか、スパナだった。

「やばいな」

 咄嗟に建設途中の建物の敷地に身を隠したが、ばれているようだ。

「なめてンのかぁあああ!」

「舐めるか、男なんて気持ち悪い」

 得意の下ネタを口内で呟く。それぐらいの余裕はある。良好、と自画自賛は哀しいが気休め程度には役立った。青いブルーシートで遮られる視界。骨組みの間に体を滑り込ませ死角であろう場所でもう一度膝をく。

「相模太一だろ。お前」

 椎木の声だ。見ずして分かったのは彼の声に特徴があったから、などではなく一人だけ落ち着いていたからだ。

「……椎木海斗。全国模試のトップ五〇に名前を入れる天才。南高校進学理由は県内トップの高校に自分より秀才の兄が在学中であるから。東を選らばなかった理由は不明……」

 知る人ぞ知る、残虐非道。しかし外見がすこぶるよいので女性に人気。

 知りえる情報を脳内で広げた。痛みから集中を逸らさないと泣きそうなのである。「情けないことに、膝はがっくがくの大泣きだけれどな、畜生め」喧嘩なんてろくにしないから、と理由と言い訳をトッピング。震える唇を噛み締めると、大声を張り上げた。

「よくわかったな。俺の名前」

 風が出てきた。夏の生温い風は妙にべたべたする。ブルーシートがばたばた音を立てるたびに鈍る聴覚。全力で此処から逃げても、多分追いつかれるだろう。周囲を見渡す。建設工事中のこの土地は想像以上に狭く、建物同士が密接していた。そのどれもが事務所であり助けを求められる民家などない。そのくせブロック塀で区切られた壁が災いし窓ガラスを突き破り建物に侵入することもできない。しくじった、と舌打ち。

「東で、柴犬と呼ばれている赤いヘアピンの男なんてお前ぐらいなんだよ。青瓢箪野郎」

 黙っていれば、優等生に見えるのにもったいない。薄笑いを浮かべて嘆いた。そういった友人が自分にもいるので指摘はしない。

「柴犬が、狂犬で驚いたかぁ?」

「躾のなっていない馬鹿犬の間違いだろーがぁ!」

 おそらく信楽の声。アイツにだけは馬鹿と罵られたくなかったなぁと引きつる頬。その間にも着々と三人は歩み寄ってくる。仕方なく塀によじ登ろうとするが、足場がなく超えることができない。冷や汗が吹き出る。

「嘘だろ」

 腕を上げれば肋骨の悲鳴が無視できないほどだった。仕方なく、桟橋に脚を掛けた。意を決し、駆け上る。不安定な足場。強風に煽られるブルーシートが視界を遮る。それでも一気に駆け上がる!

「おい! 何がしたいんだてめぇ!」

 角田は殆ど血の唾液を吐き捨てると、太一を見上げた。自らも先陣を切って桟橋を登る。

「もう聞いただろ! 志摩里子を、東高の三つ編みを落としたのはお前らなんだなって!」

 太一は揺れるパイプに怯えながらも声を荒げる。じっとりと手汗が吹き出ていた。

「ついでに聞いてやる! 高梨杏奈達を殺したの、お前らだろ!」

 五つほどの桟橋を駆け上がり、三階ほどの高さになったその場所で一度止まる。足元を見れば、ちょうど椎木と目が合った。彼は笑う、にやりと。

「……おいおい。……否定、しねぇのかよ」

 膝が、体が、思わず戦慄いた。

「証拠がないだろう」

 スパナを振り回す信楽が充血した眼でこちらを捉える。

「もう、これ以上の質問に意味はないだろ?」

 同じ高さの桟橋。ついに追いつかれた。距離にして十メートル程しかない。がたがたと音を立てる灰色のパイプが鈍く輝いて見える。太一は自我崩壊を引き起こしそうなほど恐怖していた。

「冥土土産に教えてやるような、そんな事実もないんだ」

「はは……。そうかよ。ホームレスに火をつける事件の犯人もお前らだろ」

「……」

 この三人を追い詰めることに、多く協力してくれたホームレスたちを思い出す。コレではまるで走馬灯だと思いながら、じりじりと後ずさった。「『バネ脚ジャッキー』を恐れて、最近活躍していないけれどな。臆病者」肩口から伺うのは、隣の雑居ビルの屋上だ。距離にして三メートル程だろう。落下すればうちっぱなしのコンクリートだ。

「ホームレス、ねぇ。それも証拠のないことだ」

「証拠なら、あるだろ」

 今、この場所に。椎木の眉がピクリと動く。太一は笑った。ポケットから取り出したのは、小さな――掌に収まるほどのボイスレコーダーだった。三人が手に納まっているそれに表情を変えたとき、太一はさらに声を上げて笑う。高らかに高らかに。狂った雄叫びのような笑いに唖然とするしかない。

「俺こそが、証拠になるんだよ!」

 太一は叫んだ! それが自分の意を決したことへの合図なのである。飛び移るなら今しかない! 鉄を蹴る! 精一杯蹴る! 助走たかが三メートル。一気に踏み切り、宙に躍り出た!

 三人のあんぐりと開いた口。

 まさかまさか、と見つめる。相模太一の小さくなる影。

「なっ!」

「馬鹿か!」

 バランスのとりにくい桟橋にいることも忘れて、一斉に詰め寄る。既に太一の姿はない。しかし、隣の雑居ビルの屋上にも姿はない。 足元を見ても生い茂る新緑色の木々があるだけで何も見えない。

「……」

 ――消えた。完全に消滅した。

 まるで手品でも見ているかのようだった。三人は口にこそしないが、分かっていた。

 相模太一が落下したことを。

 Aspect 相模太一

 じわじわと血を吸い込んで行くコンクリート。あぁ、最近雨降らなかったもんなぁ。せめて濡れたコンクリートの上ならば良かった。濡れたコンクリートって、普通のよりなんか柔らかく感じないか?

 ――否定してくれよ。俺だってそんなの、嘘っぱちで言っているんだ。だって、何か余計なことでも考えないと、泣いてしまいそうになる。

 太一はぼんやりと考える。視界は真っ暗だった。そもそも目蓋は開いているのだろうか? 生い茂る木々の真上から落下したわりには……衝撃は強かった。隣のビルに飛び移るつもりではいたが、落ちてもクッションのように受け止めてくれると自分の浅はかな考え故に誤算が生じた。

 自分の血で濡れてゆくコンクリート。柔らかくなってゆく気がする。誠意いっぱい嘯く。気の利いた嘘が言えない。早く、誰でもいいから指摘してくれ。なにか、喋ってくれ。「馬鹿だろお前」って呆れてくれよ、京助・修二。

 酷く泣きたかった。なんで、痛いのに、泣きたいのに、苦しいのに。こんなときに浮かぶ顔が喧嘩別れした友人なのか。

「やめてくれよ。素直に、もっと早く謝ればよかったなんて後悔しちまうじゃねーか」

 声にならない叫びで、咽喉が張り叫ぶまで発狂したい。まだ生きたいまだ生きたいとすがりつきたい。

 どうしよう。もう痛みもない。感じないのではなく、分からないのだ。これまで感じてきた全ての感情が理解できなくなる。麻痺が脳にまで及んでいるようだ。

 自分は死ぬのか。コレも自殺になるのだろうか。死にたくない。死にたくなんかない。かろうじて、唇が動くのを感じる。

「……けいすけ……ぇ。しゅー……じ」

 助けてくれよ。何でもするから。見つけてくれよ、この暗闇の中から。

 太一はただ懇願した。神とも、運命とも違う。二人の友人に(只の子供)。

「……死に……たくない……」

 Aspect 朝比奈蓮太郎

 蓮太郎は仮眠室で目を覚ました。

「最悪な気分だよ」

 着替える時間すらもどかしく、スーツ姿で寝たせいか、肩や背中の疲れは一向に落ちる気配を見せない。スラックスの皺を見つめ、頭をガシガシと引掻いた。

 外の薄暗さに気がつく。まだ六時にはなっていない。示した時間が、午前中なのか午後なのか。すっかり感覚の失われたため、しばしぼんやりとする。小鳥の囀りと肌寒さで朝だと理解したとき、自分がいささか寝すぎたことに気がついた。

「やっちまった」

 ぼそっと呟けば、誰かの寝返りの音。安い二段ベットの作りは脆そうで、パイプがぎしぎしと鳴る。

「要?」

 しばしの沈黙。どうやら彼の目覚めも最悪な気分のよう。

「……あぃ……」

「悪い。起こしたか?」

「……いえ、このままだと永眠しそうで。……起きまス」

 自分よりもいくらか年上に見えてしまうのは、無作法に伸びる無精髭のせいだろう。二段ベットの下で眠る要に近寄ると、だらんと生気の無い腕を引っ張りたたき起こす。

「……かあちゃんを思い出します。俺、テストの朝だけ一時間早く起こしてもらっていました」

 口元をむにゃむにゃさせる幼子のような二十五歳。わけのわからない開口は癖なのだろう。意外な一面に微苦笑してしまった。

「寝ぼけてねぇで、起きるなら起きろ。そして髭、いい加減剃れ」

 寝ぼけ眼。顔の前でパンと手を叩いても反応は無い。カバーの付いていない剃刀を投げてやり、洗面台まで引っ張る。

「立ち寝するなよ」

 生ぬるくひどく塩素臭い水道水にはもう慣れている。口内に入ったそのカルキ臭い感じが、高校時代、学校に泊り込みで合宿をしたことを何故か思い出す。

「おし」

 両頬を引っ叩き、覚醒した。四日目になるネクタイを締めて、仮眠室を出る。

 警察の内部もぴりぴりと張り詰めた空域が一向に取れない。家に帰っていない者も多く、真夏に片足突っ込んでいる季節であるにも関わらず箱詰めもいいところなので、心なしか饐(す)えた匂いがあちこちで漂う。

 デスクに戻ると、自分より年配刑事の光川(みつかわ)が煙草をふかしていた。

「レン」

 まるで自分を飼い犬のように呼ぶことに、不満というわけではない。だが、もし自分が犬なら、呼ばれて「ワン!」と元気に返事して飼い主の元へ駆けていくことができるほどできた犬ではないので「なんです?」とどこかふてぶてしくしてしまう。

「お前。何時間寝ていたんだ」

 不機嫌そうな表情。光川の目の下のくっきりとした隈を見て、「まずい」と背筋を緊張させる。もっとも、色黒で堀の深い彼はいつも隈があるように見えて、仏頂面なのだが。

「えーと、あー……三時間ぐらいですね」

「夕べの餓鬼はどうだった?」

「命に別状はないです。なんでも建設現場にいた猫を保護しようとしたら強風に煽られて転落したとかで。意識が鮮明になるや否や自らぺらぺらと話してくれましたよ」

 信じるつもりはないが疑うつもりもない。ただ暗闇の建設現場に猫がいたことも疑わしいが、中途半端な高さからの自殺が考えられなかった。

 東高校二年五組。相模太一。

 三階の高さからコンクリートに落下したとはいえ、木々やブロック塀が思わぬ形でクッションになったらしい。そもそも近所の人からの通報により蓮太郎が駆け付けた頃には、自分の名前を細々名乗った。そして恐ろしいことに自ら救急車も頼んでいた。

 実際蓮太郎は付き添いと、自宅への連絡を済ませただけだった。此処まで手の掛からない怪我人は前代未聞。つくづくタフな少年であった。

「本当に事件と関連なさそうなのか?」

「さぁ……深夜一時頃にうろついているのは十分妙ではありますが」

 今までつかの間の仮眠を貪っていた自分に問わないでくれ、それは言い訳にならないと分かっていてもげんなりしてしまう。

 ぶつぶつ弾力のありそうな唇でつぶやく姿も、無駄に迫力がある。おっかねぇおっさん。とは要の意見だ。

「マスコミには知られちゃいねぇんだがな」

 ずい、と煙草臭い顔を近づけてくる。五十を過ぎたというのに衰えることを知らない屈強な肉体。そんな細腰で犯人を投げられるか! と、蓮太郎は刑事課に配属されてからというもの鍛えるという名目で柔道やら剣道のサンドバック代わりになってきた。ちなみに彼は新人に武術を叩き込むことで有名な年長者のわけなのだが、背が高く、細くても鍛えられている要よりも、小柄な蓮太郎を未だに付け回している。蓮太郎だけは新人どうのこうの問題ではないらしい。そもそも何故光川が犯人を「投げる」ことに執着するのかは誰もよく理解できていない。

「今、柿崎(かきざき)が一連の事件の犯人候補の少年に事情聴取をしている。高校生だ」

「南高ですか?」

「いや、東高と本人は言っている。確認は取れていないが、制服をわざわざ変えているとは思えん。多分真実だろう。年齢は十六歳」

 ちなみに、と太い指を立てた。野球のグローブのように大きな掌だ。この手に平手打ちされたら死ぬだろうな、とぼんやり連想する。殴られないようにしよう。切実なスローガンが立ち上げられた。

「本人は否定している」

「そもそも、どういう状況で疑われたんですか、その少年Aは」

 光川は煙草を一本拝借すると、安ライターで火を燈す。髭を剃り終えた要が入ってきたので「ちょうど良かった」と手招きした。

 剃刀負けしたのか、顎に手を置いている。一連のことを手短に説明すると大げさなほどのリアクションをとるので、鬱陶しいと肘でわき腹を突ついた。

「で、その少年A、なんでも歩道橋から国道に向かって中年サラリーマンを突き落とそうとしていたらしい。近くの学生が取り押さえたんだ」

「サラリーマン、ですか」

「歩道橋、ねぇ」

 要は愛煙家の二人を前に副流煙を気にしているようで四苦八苦している。どうしても煙に近付きたくないようだ。

「なんだ、お前らその微妙な表情」

 迫力のある顔に更なる皺が追加される前に、と蓮太郎が二の句を遮った。

「ちなみにそのリーマンは」

「逃げたらしい」

 ふぅっとあがる更なる紫煙。要は起用に風向きを考えて避ける。それはまるで蒟蒻(こんにゃく)を思わせた。茶色の天然パーマは海草を思わせるほど宙を泳いでいる。本人の前で口にしたら靴に画鋲を忍ばせかねないので噤んでおくことにした。

「見物人が沢山いたらしいが、なんでも少年Aとの取っ組み合いですんなり身を引いて逃げたそうだ」

「それ、逆に言えば少年があっさり身を引いたってことになりますよね? 本当にサラリーマンを落とすつもりならば、失敗したときに真っ先に自分が逃げるべきでしょう? そんなに簡単に見物人が集まるような目に付くところで、普通犯行なんか行いますかね?」

「そうなんだよなぁ」。

「何時間前の話です?」

「通報があったのは十五日の十一時頃だ。最初は悪戯かと思ったんだけれどなぁ」

 頻繁にいただく、辟易(へきえき)極まりない偽物と思われる目撃情報・クレーム。適当に見逃すことで対応しているが、そんな時間の悪戯には何かしら理由をつけて手錠を掛けてやりたくもなる。

「そんな時間に見物人なんてよくいましたね」

「場所が場所なんだ。新しく作られたばかりの二十四時間漫画喫茶が備えられているビル。それを挟んで二十四時間経営のラーメン屋と、セルフサービスじゃないガソリンスタンド。ついでに、その近くには」

「交番がある」

 光川の二の句を遮った要は、ははは……と心ない笑いを浮かべた。

「で、なんで取り調べにこんなに時間がかかっているんですか?」

「あー……。まずその、中年サラリーマンがいなくなっただろ? 交番の連中、眠気眼もいいところで、少年Aの事情詳細をろくにこっちに説明しないまま、サラリーマン探しをおっぱじめたんだ」

 それは眠気で判断基準が鈍ったというには及ばない理由ではないだろうか。

「んで、取り押さえた学生ってのも、なんだか柄の悪い連中だったみたいで、その少年Aを一連の犯人と決め付けたらしく、仲間を呼んで写真を撮りだしたんだ。学生に羽交い絞めにされ、タコ殴り。一発思いっきりやり返したら、相手の携帯電話を真っ二つ! 野次馬が止めるまで乱闘騒ぎだったらしい」

 言葉にすれば過去の説明に過ぎなくても体験するとなると……末恐ろしい六時間である。寧ろめちゃくちゃの様態から短時間で事後処理を進めた先輩刑事達がどれほど優れているのかが分かる。

「光川さぁーん。終わりましたぁー」

 三人よりは血色の良い、中肉中背で黒縁眼鏡の柿崎は取調室から顔を覗かせる。

「お疲れ様、です」

 要は鼻を摘んだままふがふがとさせた。眉を顰めた柿崎は開口一番に「煙い」と一言を罵倒のように浴びせる。

「換気扇くらい回したらどうですかぁー? 煙充満しすぎですわぁー」

 どうにも食えないこの男がどことなく苦手な蓮太郎は愛想笑いを浮かべた。おべっかを一切好かない柿崎は小生意気な二人を気に入っているため、冗談なのか本気なのかきわどい発言を投げてくることがしばしばある。少々難ありの性格なのだが、検挙率は強行犯係の中で一番の好成績を得ており、二児の父親としての務めも果たしているのである意味では尊敬の対象だ。

「あー、どうだった?」

 光川は「小姑め」などと悪態を付いても、素直に灰皿に煙草をねじ込む。大きな体を反転させた。

「家にー連絡がーぁ付き次第ーい、帰っていただいて結構。とー言っているのにーぃ、一向に両親とは連絡が付かないー。保護者も同様だぁー、と口を開かないんですー。早く帰っていただきたいですよねーぇ。あー、彼は完全シロのようですよーぉ。先ほど交番から連絡があったのですがーぁ、自殺しよーうとしていた中年サラリーマンを止めよーうとしていたらしーぃですー。自分を勘違いしてーぇ殴ってきたからーぁ、学生にも抵抗したらしいですー。現場にいたガソリンスタンドの青年やーぁ駆けつけたーぁ目撃者の意見もーぉほぼ全員一致しているみたいですーぅ」

 そこまで分かっていて、何故勘違いされたままだったのだろうか。その疑問は柿崎の補足によると、取り押さえた学生の風貌が恐ろしくて何も口出しできなかっただけらしい、とのこと。なんにせよ、少年Aには災難だったようだ。

「よほど運のないガキなのか」

「運がない。なんてことだけで、捕まるなんてこと、本当にあるんスねぇ」

 他人ごとのようにしれっとした蓮太郎と要の顔にはでかでかと「しっかりしろよな、警察」と書かれている。柿崎は「そうだよねー」などとのんきに肯定した。訴えでも出されたら反論などできるわけがない。どうかその幸の薄い少年Aがおおらかな人物であることを心から願うしかない。

「あー、レン、要」

「分かっています。引き受けますよ」

「仮眠室、今なら開いているッスよ」

 わるいな、と言いながらも一目散に部屋を後にする。実際断ってもこうして仮眠室に引っ込んだだろう。柿崎もいい加減帰りたいと愚痴を零しつつ後を追った。二人は遠ざかる背中を見つめ、妙な喪失感と疲労感を覚える。

「俺。もう少し寝ていたかったッス」

「口にするな。誰でもそうだ。なんなら光川さんの添い寝をしてこい。寝技掛けられて永遠の眠りにありつけるだろうよ」

「じゃあ先輩は柿崎さんの添い寝ッスか。美人な奥さんと寝ぼけて勘違いされて別の寝技掛けられるんじゃないッスか?」

 互いの発言がそれぞれ体験談や噂であることを既知し合っている。笑えない冗談に眼をそらして耳を塞ぐ。

「あのー帰ってもいーですか?」

 割って入ってきたのは不機嫌そうな聴き慣れない声だった。どこか眠そうに間延びしている。解放されたまま無防備な取調室。其処から顔を覗かせた少年A。

 さぁどう言い訳をして言いくるめようか。少年には悪いが「運が悪かったな」と肩を叩くだけで済ませさて頂きたい。そうそう上手くいくわけのない願望は、不謹慎極まりなので噤んだ。

「あ……っと」

 頭をがりがりかきながら、顔を上げた。

「え?」

 一瞬眼を疑い、鈍器で殴られたような衝撃を受ける。それは互いのことのようで

「嘘だろ」

 思わず零した声は、どちらのものかも分からない。互いに眼を限界まで見開き、硬直する。微動もできないまま、見詰め合った。

「朝比奈先輩?」

 要の怪訝そうな質疑も応答できず、ただその場に靴底が縫いつけられたように佇む。柿崎の言葉が、一瞬にしてフラッシュバックした。

『家に連絡が付き次第ーぃ、帰っていただいて結構と言っているのにーぃ、一向に両親とは連絡が付かないー。保護者も同様だぁー、と口を開かないんですー』 

 ――あたりまえだ。彼に両親など存在しない。保護者など、どこに生息しているのかも分からないような者なのだから。

 彼は嘘を付いていない。彼は「親も保護者もいない」と口にした。それが何よりの真実なのだ。

「朝比奈、蓮太郎ー……」

 真っ直ぐに見つめた男の名前を、唸るように呟く。少年は、酷く疲れた顔をして、いくつかの殴られた痕跡が見えた。……そう、あの日。初めて出会った日のように。

 こんなことが、ありえるのか。こんな対面がただの偶然でありえるのか。

 思わず「畜生」と唾を吐きそうになったが、それは誰に対しての悪態かが分からない。

 Aspect 小田切修二

 鬱陶しい湿気と分厚い灰色の雲。泣き出しそうな空の下はまだ午前中であることを忘れてしまうほどに暗い。

 盛大な溜息をついた修二が、病室の前にたたずみ、睨む気力さえもを失っていた。愛想笑いもそこそこに、里子と太一は「ははっ」と引きつり笑い。お互い手にした写真の束をおずおずテーブルに戻す。まるで学校に漫画を持ち寄って、休み時間にこっそり読んでいる小学生のようだった。修二は注意する教師側の気分を仁王立ちで味わう。

 右脚膝のギプス、左腕の包帯、そして額を覆う純白の包帯。ごたごたのせいで結局見舞いには行かなかった……というより、彼女の強制退院のせいで会いにいけなかったため、松葉杖を使う里子は実に何日ぶりの再会だろう。

 一方、太一は服から覗く包帯やガーゼ以外に目立った外傷は無いようだが、同じく額を覆う包帯に視界を遮られているようである。

「怪我」

「え?」

「怪我、大丈夫なのか?」

 ぶっきらぼうに言いながらも、泳ぐ視線。先ほどから落ち着かない理由はコレか。自分では見えない額の傷を摩り、肩をすくめる。

「ちなみに、どっちに言ってんの?」

 喧嘩の最中であることを忘却したフリをする。「両方だ」と単調な返答をなげた。堂々とベットの傍まで来ると、太一を挟んで里子と対面するようにパイプ椅子を設置した。病室には四つのベットが存在するが、現在この空間に入院患者は太一だけで見舞い二人に挟まれた真新しい状況である。

「私は……見てのとおり。歩き回れるくらいには元気だよ。第三の脚ができたけれど」

「それは元気とは言わない」

 頑固親父の如く一喝する。有無を言わさない剣幕に「はい」と里子は押し黙った。久しぶり、元気だったー? なんて間違っても言えない。

「右膝の皹以外はかすり傷みたいなものだから、命に別状はないです。はい。心配かけてすみませんでした」

「最初からそう言え。……それは何より。そっちの馬鹿は?」

「はは、怪我人にも容赦ないねぇ」

「いいから手短に答えやがれ」

「はいはい。左肋骨二本骨折に付け加えて右腕を切りつけたことによる出血。あとは座礁(ざしょう)と打ち身と殴られた青タンくらい。頭も軽い脳震盪(のうしんとう)みたいだし。……ってか、何所からの情報でここに来たわけ?」

「警察と学校から連絡が来た。文句あるか」

「さいですか」

 太一は微妙な表情をしたが案外ケロっとしている。学校に知られたことは問題ではないのだろうか。里子は「そんなにあっさり受けとめていいの?」としばし疑問に思うが、今焦ってもどうしようもないことなのだろうと諦める。

「お前、俺の名前を出したのか」

「あー。うん。お前の家から帰宅するときに猫見つけて助けようとしたって言った」

「適当に話を合わせた俺の順応力を褒め称えろ。突然かかってきた警察の電話に、嘘付いてまで対応したこの精神力を」

「まじせんきゅう。学校からは?」

「様子を見て来いと」

「なるほどね」

「あのさ、小田切君、今普通に学校の時間じゃない? まだ午前中だよ」

 おずおずと言いにくそうに里子が口を挟めば激昂が飛ぶ。

「お前が言うなお前が! 担任と保険医に頼んで任欠貰ったんだよ。少なくともそこのベットにいる馬鹿と違って素行がいいからな」

 白いベットに座る太一はいつもと違って落ち着きがある。それが妙に可笑しくてまじまじと眺めていれば、居心地の悪そうな顔をした。

「聞かないの?」

「あ?」

「状況の経緯って、いうか」

「志摩を転落させたと思わしき連中に喧嘩売って返り討ちにされた」

「喧嘩両成敗。ひきわけだっつの!」

「其処は拘(こだわ)る所なのか。……大方、合っているようだな」

 修二はテーブルの上に散らばる写真をいくつか手にする。

「で、相模太一君がそこまで大怪我して得た情報がこのチンピラ写真集ってわけだ」

「その腹立つ言い方止めてくれないか。俺一応病人だからね」

 此処で殴り合いを再戦するかコノ野郎とジェスチャー。両手をひらひらさせて遠慮すると白旗を挙げた。すると、一つの写真を手に取り眉を顰めた。

「どうした?」

「……こいつ、椎木海斗だろ?」

 煙草を咥えて、談笑している写真だった。やはり制止した状態で撮影した最初のものが一番写りが良い。

「友達?」

「間違っても違う。中学時代、剣道の関東大会の試合相手だ」

 胸糞悪ぃ。投げるように戻したことから、あまり良い記憶がないようだった。深く追求すれば本気で機嫌を悪くさせかねないので太一は黙って閑話休題する。

「名前と住所と生年月日は全員もう調べ上げた。ただ、決定的物的証拠がねぇんだよなぁ。ボイスレコーダー壊れたし」

 さすがに高性能のカメラで撮影されただけあって、暗い状態でも鮮明である。斜体を的確に捉えているそれらは太一の腕前だ。数十枚のそれらを並べてみると顔の特徴までもはっきり捉えることができる。

「実際、どうなんだ? 的中しているのか?」

「分からない。突き飛ばされたことは分かっているんだけれど……」

 里子は明るく染め上げられた男を指差す。無数のピアスが耳に付けられている、目の大きな男。コレだけのアクセサリーがぶら下がっていると重そうだな。関係のないことを思いながら思わず己の耳に触れた。

「この人の話は杏奈から聞いたことある。嫌いだって」

「な?」

 無駄じゃなかっただろう。勝ち誇ったように笑う彼を「な? じゃねぇよ」と後頭部をひっぱたいた。

「あだ! てめ! だから怪我人」

「知ったことか馬鹿野郎! お前の脳味噌はスポンジ級に軽いから幸いその程度で済んだのかもしれないがな、打ち所悪かったら死んでいたかも知れないんだぞ! 住所なりなんなり短時間で調べ上げられる行動力と頭脳があるくらいならばもう少しやり方ってモノを考えやがれ! てめぇの危機察知能力は微生物か? ミトコンドリア級か? それともミジンコかコノ野郎!」

 容赦なく胸倉を掴みあげる。里子が止める隙もないそのすばやさは豹の如く俊敏で獰猛だった。二人とも、呆然と真剣な眼差しに圧倒され言葉を詰まらせる。

 小田切修二は感情的な少年だが、決して短期ではない。人を怒鳴りつけることなんて滅多にしない。殴られたり胸倉を捕まれたりと、連日見せられる意外な一面に言葉を失うばかりだった。

「……ミトコンドリアは微生物じゃないし、ミジンコは動物だぜ」

 舌打ちの後に手が離れた。太一は服を調えながら、思わず腹をくの字にに折って小さく笑う。

「悪かった」

 一言短く、切実で率直に飾らず告げる。

「……一応許す。俺もお前をぶん殴ったわけだし」

 ぶっきらぼうに、顔を背けた。

 ――素直にごめんなさいといえばいいのに。里子は自分だけが蚊帳の外で、仲間には入れそうに無いことが少し悔しかった。肩をすくめて、微苦笑する。なんにせよ蟠(わだかま)りが溶けてくれたせいで居心地の悪さは薄れた。

「ところで、浅月君は?」

「それが連絡が付かない。ケータイ持っていないんだよ。あいつ」

「なんで持っていないの? 電子危惧だから壊れた?」

「いや……確かにあいつは買った瞬間便所に落とすタイプだが……。今の保護者にあまり迷惑を掛けたくないんだろうよ」

「そう……なんだ」

「あのさ、京助のことなんだけれど」

 太一は心底説明しづらそうに事の成り行きをありのまま言葉に変換する。自殺志願をするサラリーマンを止めたがために三人に暴行を加えられたこと。警察官に取り押さえられたということを。

「実際何かをしたわけじゃないから、保護者が引き取りに来ればそれで事が収まるだろ?」

「なんていうか、やっぱり幸薄なのかな、浅月君って……」

 誰も否定できない。失言と野暮を恥じて居心地悪そうにもじもじと指を絡める。

「どれだけ世渡り下手なんだ、アイツは」

 呆れのあまり額を大きな掌で覆う。これでは太一と大差ない。

(あの馬鹿野郎。やはり首を突っ込む気でいるのかよ)

 静かに溜息をつく。

 修二は知っている。京助は義理硬く、情に熱い。だから、里子が怪我を負わされたことにおいて「はいそうですか」と簡単に引き下がるような男ではない。おそらくは、自分ひとりで事を収めるつもりだ。自分や太一に、厄災の火の粉がかかることのないように。

「あいつ、興味ない素振りしやがって、絶対なにかしている」

 太一が悔しそうに呟いたことに同意した。好奇心に大きな欠陥はあるが、薄情な奴ではない。何を考えているのかはとことん掴めないが、何がしたいのかは手に取るように分かるほど単純な奴だ。

「志摩。お前、高梨杏奈が誰かに殺害されているとして、その犯人を殺したいと思うか?」

「え?」

「なんだよ、急にそんな質問」

 急な話題に戸惑う二人をよそに、修二は深く溜息をついて頭を振る。つまりはそういうことだ。口に出したくない事実を無理やりに引き出した。

「……知っているだろうけれど、アイツは両親と死別している」

 ――ふいに思い出す。濡れた鉄錆の匂い。

「百聞は一見にしかず。普通の人間が体感するわけもない恐怖を、あいつは体験した」

 ――包丁が滑る。ずるずるとした、白と黄色のもの。べたべたとする。それが、脂だなんて、知らなかった。冷えてゆく肉片。……それが生きていたものだなんて、証明できそうに無い。

 死体。

 あたり一面の、紅の花を体にいっぱい咲かせた死体。空っぽの、魂の器。

 誰を攻めることが賢明なのだろう。彼に、この運命を背負わせた何者かをどう憎むべきなのかと。

 彼が、引き裂いた肉片。彼が突き刺した肉片。決して失うことができない記憶。なくならない時間。巻き戻すことのできない過去。

 ずっと京助と一緒にいた修二だからこそ、なにもできずに傍観し続けた修二だからこそ、その闇を、知っている。

「あいつは、自分の両親を殺した男を……殺したんだ」

 Aspect 朝比奈蓮太郎

 開口一番に呼び捨てにされるとは、なんて感想は吐露しなかった。

 彼が自分を「朝比奈蓮太郎」と認識・確認することをしなければ、こちらはこちらで「浅月京助」と口にしていただろう。

「知り合い、なんですね?」

 取調室の机で、要はむっつりと黙る二人に割って入る。自分の分のパイプ椅子はないのでドア付近に立つ。

「あ、まさか先輩がこの子の保護者……」

「ねぇよ」

「違げーます」

 同時の否定が即座に返ってきた。

「さいですか」

 すごすごと引き下がる。文法の御幣を指摘することすら躊躇われる威圧が黴臭い取調室に充満した。同席したのはいいが身動き一つ監視されるような静寂。自分がいてもおそらくどうしようもないだろうと、要は取調室をそそくさ後にする。

「……久しぶり」

 朝比奈はぽりぽりと頭を掻いた。あぁ風呂に入りたいなぁ。なんてぼんやり思いながら開口する。突然、なにか思っていもいないことを口走ってしてしまいそうになるので、どことなく上の空を気取った。

「……そーですね」

 想像通りの返答。

(……そりゃ話題の返しようがないわな)

 納得しつつも気まずそうに、おずおずと京助に視線を向けた。神妙にかしこまった端整な顔立ち。少年らしかぬなんともいえない雰囲気は、今も昔も変わってはいない。少し薄い唇はただ一直線を横に描き、きゅっと結ばれていた。

「変わったのは、顔つきだけだな」

 指摘すればあどけなさが残っているが、全体的に男に成長している。

「……そー、ですか」

 京助は晴れ上がった左端の唇を舐めた。鉄錆の味がする。先ほどから右目蓋がどうにも重い。物貰いになったとは思えないのでこちらも殴られたときに腫れたのだろう。

「痛そうだな」

「殴られましたからねぇー」

 きつく締めすぎたネクタイを少し緩める。煙草が無性に吸いたくなったが、相手は高校生なので我慢をすることにする。

「……何年」

「……五年?」

「そうじゃない。何年生だ」

「あ、……あぁー。高二ッス」

 一瞬戸惑うような表情を見せ、指折り数えることを止める。

(どろどろの修羅場で喧嘩別れした彼女と再会するよりも気まずいな)

 蓮太郎がため息をついたとき、ちいさなノックが飛び込んだ。間が持たないであろうことを、気を利かせた要が三人分の缶コーヒーを手に敷居を跨ぐ。ちいさな会釈の後、京助はいつかのように青痣のできた頬に冷たいコーヒーを押し当てた。

「その口調、まだ直ってないのか」

「直るものなんですかねぇー?」

「和むというより」

「緊張感のなさが苛立つ、でしょー? よく言われるんですよねー」

 淡々としている。簡単に言うのならば味気ない。ぎこちない敬語を使う京助はひどく落ち着いていた。蓮太郎はプルタブを開けると一気に煽った。ブラックのそれが空っぽの胃に流し込まれる。

「……まるで離婚した奥さんに引き取られた思春期の息子との会話みたいッスねぇ」

「要。黙っていろ。コーヒーで洗顔されたくなかったらな」

「眼ぇ覚めそうだなー」

 眠気眼を擦りながら口を挟んだ。相変わらず何を考えているか分からない。

「相変わらずだな、お前」

「あんたもねーぇ」

 京助は傍にあった灰皿を、ずいと差し出す。怪訝な表情でその銀色を見つめれば「吸いたいんだろ」と意地悪く笑った。

「あんたってー、吸いたいときや吸っているときはネクタイを必ず緩めますよねー」

 どうやら自覚があるようで「五年前に一度会ったきりで、よく覚えているな」遠慮なくシガレットケースを出した。「吸うなら出て行きます」と要は睨んだが「じゃあ消えろ」と短い返答を相変わらず一瞥もせずに告げた。

「実家に帰らせていただきます」

 軽口を一つ叩き「ニコチン中毒者め。肺から腐っていけばいい」舌打ちして退散する。憤慨するタイミングすら与えないそのすばやさと行動力は尊敬に値する。そもそも何の為に入ってきたんだよ、と彼の気回しを気付くことなく悪態付いた。

「あんた、アノ人に嫌われているんスかー?」

「まさか、愛情表現だろ」

「ポジティブシンキングは見方によれば哀れですよー」

「黙っとけ」

 ああいえばこういう。天邪鬼は唐沢黒奈に及ばないが、アイロニーに対する才能があるようだ。五年の月日は確実に流れていることを感じる。

「まぁいい。とりあえず、カツ丼でも食うか?」

「……取調べは終わったんじゃーねぇーんですかー?」

「気分だけでも味わうといい」

「嫌ですねー」

「奢ってやるよ。知っているか? 取調べに出されるカツ丼は、自分で払わなければならないんだぜ」

「がめついなぁー!」

 噴出して少し笑うと、八重歯が見えた。

「……まだ、あそこに住んでいるのか?」

「まさか」

 おどけたように体を少しのけ反らせた。そして自嘲気味に、ゆっくりと、ゆっくりと紡ぐ。自らの罪を懺悔しているように。

「……人が三人も死んだ場所に、とどまれるわけがねぇーだろ」

 蓮太郎を即座に叱咤した。何も考えずに聞いたとはいえ、馬鹿な質問をしたことに大きく後悔する。

「すまない。……だが、俺はてっきりお前は別の町に移り住んでいると思っていた」

「生憎、親も身寄りがないに等しくてさー。ろくに相手してくれる親戚は叔父しかいねぇー。その叔父の家もこの町なんだ。家に滅多にいないけれど」

「そうか、まさかまた会うなんて思ってなかった」

 それは、紛れもない本心。

 また会いたいと思わなかったが、もう会いたくないとも思わなかった相手。しかし、二度と巡り合うことはない。そう勝手に確信し合っていた。頷き、京助も静かに同意を重ねる。

 煙草の紫煙。消えて行くそれを眺めながら空虚を無心に傍観する。

「確かな情報かどうかは知らねぇーけれど、高梨杏奈が死んだ後から、俺の友達が不登校になったんだ」

 蓮太郎は一度目を見開くが、「あぁそういうことか」と眼を伏せ灰皿に煙草をねじ込む。瞬時に、彼が何を言いたいのか、これまでのいきさつなどを悟った。止めておけ。そういうことには関わるな。忠告を続ける前に「そうじゃねぇーです」と遮る。

「……邪魔、するつもりだった」

「何故だ」

「そいつはー、犯人殺しちまうかもしれねぇーと思った」

 椅子の背もたれに体重をかける。ぎしっと鈍い音がした。

「ばかげていると、思うかも知れねぇー。俺もそう思う。たかが女子高生に何ができるって。そもそも俺の友達と高梨杏奈の関連もろくに分かっちゃいねぇーし、転落したアイツが事件とは関係ねぇー可能性だってねぇーわけじゃなかった。それ以前に犯人まで辿り着くことができねぇーって。……でも」

 京助はただ真剣に傾聴する蓮太郎を見た。真っ直ぐ捉える、真剣そのものの切れ長の瞳。美しく、洗礼された剣のような魂である彼そのものを移すような瞳を。

「怖かった。あいつが、俺と同じ思いを知るってことも。誰かが俺と同じ思いをすることも。……だから壊せばいーと思った。何もかも、修復できねぇーくらい」

 ――壊してしまえば、いいんだと思い込んだ。誰も知らないところで、誰にも気が付かれない形で終止符を打とうと。未だに間違いだとは思っていない。

「アンタは、さぁー」

 うっすらと滲む汗。変色した傷にはさぞ染みるだろう。しかし京助は、自らの苦痛から解放されることなど望んではいない。過去に束縛されているからこそ、立つことしかできない。眼は突き落とされた暗黒の穴倉から、這い上がることさえしない狢(むじな)のようで……。

「復讐を奪った俺を、憎いと思ったことは、ある?」

 遠慮なく煙草をふかせば、くゆり上がる紫煙を見つめる。白乳色のそれは溶けるように消えるのだ。

「先輩」

 白乳色の奥からすっと現れた要は一瞬顔を顰めた後、蓮太郎に冷たいコーヒーが入った紙コップを差し出した。またコーヒーか、と胃のもたれを感じても好意には素直に甘えておく。

「あの子、何を言ったんスか」

「あ?」

 ぐいと、酒を煽るように一気に嚥下する。ちびりちびりと口に含むように呑む要は、もう少し味わえよ、と微苦笑した。

「聞かれたんですよ、あなたはよく嘘を付くのかと」

 なんて洞察力に長けた子供なのだろう。咽喉を鳴らすように笑った。

「……面白く育ったじゃねぇか、浅月京助」

「え?」

「なんでもない。で、なんて答えたんだ?」

「口から出任せが湯水の如く溢れ出ているから、七割は甘言虚言(かんげんきょげん)と言っても過言ではないかもしれないね。って」

「はは」

 正解。しかし、そこはもっと飾った答えをしてもらいたかった。

「子供を騙せるのは、大人の特権だから、しかたがないんだよ。京助」

 空になった紙コップを潰す。要はずるいとは口にしなかった。騙すことが悪だと思わないからである。

「浅月京助はね、知りたいんだとよ。相次ぐ学生転落の事件、全ての真相を」

「そいつは」

「俺たちにとっては、見逃すわけには行かない事実だろう? 善良な市民が危険な事件に首を突っ込んでいるんだから。だから俺は、お前を応援することはできない。これ以上踏み入るならば、俺はお前に手錠をかけることもありえるんだ。と言ったんだ」

 灰皿に煙草をねじ込む。二本目に手をかけようとしたが、その手の甲をぱちんと叩かれる。吸いすぎだ、という彼なりの注意だ。悪戯がばれたときにすねる子供のように、舌打ちをするとしぶしぶポケットに手を突っ込む。

 きっと、協力なんてなくても京助は到達することができる。彼は他の誰かのためではなく、自分のために、全てに大きな見切りをつけようと足掻いている。

 そのせいだろうか、自分もどこかで彼を応援している。――嘗て憎んだ少年の存在を。

 要は紙コップの縁をわずかに噛んだ。

「俺は」

 アイロン掛けもろくにされちゃいない、しわくちゃのシャツの袖を引く。要の顔を見るにはあからさまに見上げなくてはならないので、いつも少し癪に感じていた。

「あんたのことも、あの子のことも、何も知らないんですよ朝比奈さん。あんたたちだけが互いに悟りあった世界で傍観者にもなれない俺はどうすることが懸命なんですか」

「嫉妬かよ」

「俺はね、自分にとって未知なことは全て嫌いなんです。我侭ですから」

 恐ろしく魅力的に嗤った。二つほど年下の男。長い付き合いというわけではないが、多くを理解しあった相棒にこんな色気があったとは知らなかった。

 流れる重い沈黙の中、ひとつ、大きな溜息の音だけがあった。聞いても後悔するなよ、念押しはあえてせず口火を切る。

「……五年前に、この町で終わった連続殺人事件がを覚えているか?」

 終わった? 怪訝に眉を顰め、さぁと首を傾げた。

「記憶の片隅にはあるんじゃないか? 多くの死体がバラバラになって……。あぁ、一つの胴体に、異なる人間の頭と手足が縫い付けられた件があったな。それのうちの一つだ」

 唐突な切り出しだったが、そこで「あれか」と肯定する。身震いするほどの悪寒が、一瞬背筋を駆け巡った。思い出したくもないような事件だ。直接関わっていない自分でさえ思うのだから、事件現場周辺の住民はたまったものではなかっただろう。

 三年に渡り全国各地で犯され続けた大罪。死者数は総勢二十二人。日本の犯罪史上に大きな歴史を刻んだ三年間の悪夢的大量猟奇殺人。世界的にもニュースになり、「切り裂きジャックの再来」とすら言われた最悪の事件だ。マスコミも連日大騒ぎした事件であり、無差別のそれは老若男女震撼させ、不登校・不出勤を続出させる社会現象をも巻き起こした。全く手がかりのない犯人は「カニバリズムの疑いがある」ということ意外なにも残さない。一人なのか複数名なのか、テロ集団かカルト教団か、それすら分からないままだった。

 だが

「最後の夫妻の家で犯人が自殺していたという結末に終わった……」

「そうだ」

 誰もが想像を追いつかせることが出来ない結果で勝手に幕を下ろした。恐ろしいことに、風化されることが異常なスピードだった。おそらく、あまりに残虐すぎて長きに渡る放送が出来なかったのだ。

「俺の母親は、二人目の犠牲者だ」

「は?」

「それで、浅月夫妻……京助の両親は最後の犠牲者なんだよ」

 息を、呑むことすら忘れる。

 ただ時計の針が、静寂に包まれた部屋に響く。身動きすらも拘束されたようにできない要は、呼吸すらできていなかったかもしれない。全ての時間の感覚が失われ、どれだけぼうっと立っていたのかも分からない。

「……なぁ、要。人は、本当に大切なものを失ったときって、頭が真っ白になるんだ。その喪失と絶望の世界で、ただ渦巻くのは、殺してやろうという気持ちだけだ」

 なんでもないことであるかのように続ける蓮太郎は要を睨みつけるように見据えた。

「その気持ちだけが俺を奮い立たせて、気丈に、強く、逞しく、生きるということを諦めさせないでいてくれた」

「……犯人を捕まえる為に警察になろうと思ったんですか?」

「そうだよ。単純だろ?」

「えぇ。でも……」

 続く二の句がなかった。言葉に詰まる。怪訝そうな顔の蓮太郎に、「何でもありません」と謝罪した。無言で続きを促す。

「俺は父親と言うものを知らずに育った。だから、母親は大切というより、守ることが当たり前の存在だったんだ。だから、警察になって、犯人を逮捕するんじゃなくて殺すつもりだった。逮捕して、手錠を掛けて、はい終わり。あとは検事様に任せよう? そんなことできるわけない。人間がもっとも苦しむ方法で殺してやることだけ、それを連想することだけが俺の生きがいで、全てだったんだよ」

 ――狂っているか? 笑ってくれよ。

 乾いた唇ですらすらと原稿を読むように口にする。口火が途切れることはなかった。まるで栓が壊れて溢れでた水のようにとどまることはない。

「……結局、俺はその全てを否定され、その目標にを他の人物に踏みにじられた」

「……水川銀二、でしたよね? 捕まったほうの犯人は。目撃情報だともう一人いて五年経過した今でも素性が知れないまま。手掛かりが一切無く指名手配すらできないらしいと耳に挟んだッス」

 自殺。もしくは仲間割れを疑われている。

 蓮太郎にとってどうすることもできない残酷な真実だったのだろう。そう悟ったつもりだった。しかし、彼はそうじゃないと要を噤ませる。

「奴は、自殺でもなければ仲間割れでもない」

「まさか」

 ――あなたが殺したんですか?

 言葉にできるわけもない質問を、彼は笑って否定した。

「横取りされたんだよ」

 邪念から解放された代わりに、野心を対価にしてしまった。

 過ちや後悔を口にするというよりも、ただ過ぎ去った歴史をなんでもないことかのように振り返る。もう過ぎたことだから、などと無理やり割り切っている素振りはあまりにも残酷だった。

「殺された。浅月京助に、な」

 ――……。

 狂った男が、強靭の刃を女性に振りかざす。男はすかさず止めに入ったが、それは虚しくも意味を成すことはない。男は心臓の辺りを何度も刺されると、大量の血を吐いて倒れた。男はそれでも止めようと、男に噛み付く勢いで拳を振るったが、心臓に大きな包丁を刺し込まれてしまった。

 男は床に伏せると、陸に上がった魚のようにびくびくと跳ねる。やがて活動を制止した。口をパクパクとひたすらに動かす。

 その様を遠くから眺める一人の男は、その『サツジン』を只傍観していた。玄関口で、夫妻が逃げることが出来ないように。しかし男は手伝うこともしなければ、刃物すら所有していない。少年のような童顔と笑みをぶら下げて、まるで近所のコンビニにでも出向くような軽装でそこにただ君臨する。

 女は悲鳴を上げた。血に塗れた男は、ひゅうひゅうと咽喉を鳴らして、ただ「逃げろ逃げろ」と声にならない叫びで告げる。玄関口での笑い声はまるでBGM。刃を握る男は、女性が泣きじゃくる姿を見て、美しいと欲情した。

 燃え滾った血が、股間に流れる。女の魅力的な肢体を包むように触れると、血溜まりの中で女を押し倒し、服を切り裂き、決め細やかな肌を少しずつ切りつけて楽しんだ。

 美しい顔を歪ませて、ぎゃぁぎゃぁとわめく女の首を閉める。指に力を入れるのではなく、全体重を首に押し付けるように。何度も力を緩めては、何度も切りつけてゆっくりと甚振る。女は美しい顔を歪めて、何かを叫びながら泣いた。それはどんどんか細いものに変わってゆく。

 それをどのくらいの時間を掛けて楽しんだのかは分からないが、この女は最高だった。

 やがて、女が眼を剥いたまま舌をだらりと出して呼吸を制止したとき、男はたまらず女の唇を貪った。夢中で、官能的に、生きた女にもしたことがないありったけの情熱。それを嘗て美しかった女に与える。男の涎をぽかりと空いたまま閉じることない口内は受け入れ、溜まってゆく。

 やれやれと首を振った玄関口の男は「見付かるなよ」と一言。その場を後にしようと背をむけた。殺人者である男が死体の女を陵辱しようとしている。相変わらずの性癖だ、とカラカラ嗤う。

 ――残された男は、夢中になりすぎて、気が付くことができなかった。

 部屋を出ようとする男すら、あまりに静寂すぎる怒りに気がつくことができなかった。

 振り向いた瞬間に、その男は確かに見た。

 ……全てを目撃している少年が、父親に刺さった包丁を引き抜き、母親に群がる男の真後ろに立っているということを。

「……おいっ! やめ……!」

 男の制止もはばからず、少年の刃は唸りをあげた。

 そして

 七月十七日 Saturday

 Aspect 浅月京助

 廃墟が非常に多いのは、この寂れた×××市の特徴である。

 あながち間違ってはいないけれど確認を取っていないことを京助は嘯いてみる。変色した肌が未だにじくじくと痛んだが湿布薬の臭いが嫌いですぐに剥がしてしまった。

 この田舎で唯一の祭りである盆踊りは連日の事件のせいで中止となった。夏休みを間近に土日連続で行うこの祭典を楽しみにしているのは子供だけではなく、今日に備えて街灯にぶら下がっている提灯やら団扇やらの装飾がなんとも切ない。例年なら賑わう駅前も今年は奇妙にがらんと静かだった。

「廃墟、ねぇー」

 高梨杏奈が絶命した廃墟ビルは、嘗て宝石店だった。その向かいは不動産。ビルというには高さ大きさが足りない右隣の建造物は、インテリアショップ。三つは昭和六十年代に起こった大火災により一度朽ちた。しかしバブル景気が起こり、三つの建物全てを買い取った企業が一度立て直したのだが、バブル崩壊も間近になった頃完成した翌日に再び火災。結局殆どの骨組みがむき出しになった状態で工事は中止され、企業も倒産する。

 他にも、殺人事件があって人気のなくなったアパートや、役目を終えた保育園。町役所跡など、探せば探すほどに廃屋は見付かる。第二の夕張と呼ばれたこの県はなんとも発展が鈍い。

 廃墟マニアとまでは行かなくても、廃墟にただならぬ魅力を感じる京助にとって廃墟で起きる事件は全くもって迷惑である。取り壊しが次々と進む街は改造されて、大きな何かを失ってゆくように思えるのだ。

「そもそも、なんであそこなんだぁー?」

 飲み屋が立ち並ぶちゃっちな繁華街が傍にあるビル。そこは路地裏に入り組んだ場所を使わない限り人通りが目立つ。高梨杏奈の自宅から十キロ近く離れた場所だ。彼女は生前に自らの足でビルに踏み入れたのだろうか?

「怪我、大丈夫?」

 振り返れば久々に顔を合わすことになる里子がいた。そちらこそ大丈夫かと、体調を心配してしまうほどの肢体のか細さと青白さは相変わらずである。

 滅多に代わることのない編みこまれた三つ編み。噂をすれば、とは言わない。そもそも呼び出したのは自分である。

 駅のバスターミナルに隣接する寂れた公園。壊れたバスケットゴールとブランコ・ベンチのみという、なんともいいがたいその場所で京助は里子を待っていた。

「怪我がなんたらって、ギプスを脚に巻きつけたお前の台詞じゃねーだろー」

 唇の端に青タンを作り、少し腫れた右頬。よれた制服の白いシャツから覗く黒いタンクトップ。しなやかな筋肉で引き締まった腕にも絆創膏や湿布が覗いている。お互い様だよ、と微苦笑するしかない。

 桜色のワンピースにレースのカーディガンを羽織った彼女。額の包帯は取れたの、里子はおでこに張られた絆創膏を見せた。

「扇風機が壊れたんだー」

「……また?」

 リアクションこそ薄いが素直に驚嘆する。彼が電化製品を壊しやすい……不良品にあたりやすいことを知っているので、何かが壊れたと報告されるたびに笑っていたが今回はかなり驚いている。何故なら里子が不登校になる数日前に、新しいそれを購入したばかりだったからだ。

「なおそーと、努力した。懲りずにー」

「自分で言うのね」

「やっぱり、俺は扇風機の妖精とは仲良くなれねぇーことを知る確認で終わったー」

 馬鹿じゃないのか。少し笑った。これが彼なりの「元気出せよ」なのである。数ヶ月の付き合いでわかったことは、口数が少ないし、言葉は足りないが、誠心誠意相手を思っているということ。

 ふと、廃墟の話を持ちかけると「行ってもなにも分からないままだった」と里子は行動力を見せ付ける。

「あそこ、ね。警察の立ち入り禁止テープ張ってあるけれど、結構人が入っている形跡が合ったよ。もとが、ホームレスのたまり場だったみたい。正しくは向かいの雑居ビルが、だけれど」

「なんだそりゃー」

 杜撰(ずさん)な管理に呆れた。機会があったら朝比奈に抗議してやろう。

「ホームレスの人に聞いたんだけれど、六月の二十八日に寝ているホームレスを焼かれる事件があったんだって」

 線路を走る電車の音。二人の傍でごうごうと音を立てて通過する。しばし黙って、静寂が訪れるまで灰色のコンクリートをしばし眺めた。

「……知っているー。報道は小さかったけれど暴行事件も続いていたよなーぁ。今月に入ってぱったりだがー」

「その場所、ね。杏奈の住んでいるアパートの傍の河川敷で起こったんだ」

 思わず彼女を見直せば、小さくても高い鼻の、幼さが残る横顔があった。

「まさかとは思うが、そのホームレス殺害を目の当たりにして、口封じとかー?」

「でも、口封じにしては二日もあいているんだよ? お互い可笑しいよ。杏奈も早く通報するべきだし、犯人ももっと早く始末できる」

「それでもタイミングよすぎると思わねぇーか? 七月になって暴行事件は一件も報告されてねぇーんだぞ」

 そんなことを彼女に問いたところで何にもならない。愚問である。しばしの沈黙の間、BGMのように流れるのは、電車が線路を滑る音声と、踏み切りの注意音。耳を澄ませば国道を走るトラックの音も拾える。機械的で耳障りな雑音ばかりに囲まれていた。

 陽炎が立ち上る暑さの中で、小さな小学校に到着する。汗をそっと拭うと、込み上げる眩暈にふらつきそうになりながら軸を保った。血が足りないのだろうか。怠慢な脳味噌で分析しつつ、コンクリートをこつこつ打つ里子の覚束ない松葉杖を心配する。彼女が言うには、なくても歩けないわけではないらしいが一応不安なので装備しているらしい。

 大きな影を作る大木が聳え立つ小学校には誰もいなかった。樹齢いくつだろうか。はたから見ても立派な大木。……それがクヌギであることは卒業後に知った。木陰になっているベンチに腰掛けている、見覚えのある背中に声をかける。

「鏡」

 小さな鉄棒。塗装のはげたジャングルジムは使用禁止とかかれたプレートをぶら下げる。木で出来たレトロな雰囲気のベンチはニスが塗られていてテラテラと光沢を放った。真新しいそれは、何年か前の、卒業制作のひとつのようだ。ちょこんと腰掛ける鏡友花は握った白い携帯電話をぱたんと閉じる。

「浅月くん」

 相変わらず踵を潰して履いたスニーカー。紺色のパーカーをはおり、デニム素材のショートパンツを着用している。程よく日焼けした露出した肌は里子の死人のような白さと潔いほどの大差だ。

「えーと、会うたびに怪我が増えているのは気のせいじゃないね?」

 青痣を作った少年と右足にギプスを巻いた少女。じろじろと遠慮のない視線を送り込む。大きな瞳の迫力に負けた里子は、おずおずと身を隠すように京助の影で縮こまった。

「えーと、あーと? 彼女の紹介?」

「なんでわざわざお前に紹介するんだー」

 やり取りに動揺する里子は友花と同じように「彼女?」と質疑する。小首を傾げて揺れる三つ編み。可愛らしいしぐさではあるが精一杯の嫌悪を込めた表情を形成した。

「こいつが彼女ならば俺は自らの右手を愛していると囁きながら毎晩眠れる自信があるぜー」

 鏡友花も青筋を浮ばせて反論する。

「この男を彼氏と誰かに紹介するくらいなら、私はてんとう虫と結婚するわ」

 なだらかな胸を反らして高らかと。京助はばつの悪そうに顔を顰め勝手に紹介した。

「こいつー、俺と同じ中学だった鏡友花。んでー、今南高校ね」

 紹介を受けた友花はちょうど顔を半分くらい隠す里子に「どうも」とはにかむ笑みを向けて会釈する。今更可愛い女の子を演じたところで手遅れだ。余計な一言のせいで鉄拳を食らったことがあるので、二度目の失敗をしないよう噤む。

「でー、この昭和の女学生的なー三つ編みっこは志摩里子。高梨杏奈のー……えーと、なによ?」

「……異母兄妹」

「へーそう……。て、え! まじでー?」

 聞き返したのは友花ではなく京助だ。慣れないノリ突っ込み。こくりと頷き肯定する。友花も身を乗り出した。

「えーと、あーと。じゃあ、あなたも大塚誠二の娘なの?」

「えっ……!」

 里子はワンピースの裾をぎゅっと握り締めた。もとより悪い顔色がみるみる蒼ざめる。

「どうした? 志摩?」

 京助が顔を覗き込むと頭をふるった。

「ごめん、えーと、もしかして悪いこと言ったかな」

 申し訳なさそうに友花が歩みよると、すっかり弱りきった表情で「そんなことない」と否定した。だが明らかに動揺している。二人は思わず顔を見合わせた。

「……なんでもないよ。……そうだよ。アレが……。なんで名前を知っているの?」

「えーと。今の、担任。杏奈と大塚先生が話しているのをたまたま立ち聞きしちゃって……。えーと。多分、学校でこのことを知っているの、私くらいだと思うけれど」

「そう……」

 すっかりうつむいて、それきり喋らなかった。予想していなかった展開のあまり京助はおろおろあたりを見回す。小学校のグランドで何を探して、この空気を一転させるつもりなのだろうか。友花は、急に情けないところを見てしまい変な同情を抱く。居心地がこれ以上悪くなるまえに、と切り出した。

「えーと、あーと? で、なんで彼女と私を合わせたわけ? 『バネ脚ジャッキー』についていいたいことがあるって聞いたから来たんだけれど」

 京助は助け舟に安堵しつつ、右手首をぐるり掌で覆い、脈を潰すように握り締める。

「それなんだが、お前『バネ脚ジャッキー』について何所まで情報掴んだー?」

 隣に腰を下ろし、里子も座るように促す。

 友花は「何故急に気になりだしたの?」と怪訝に思ったが、最後に会ったときに散々自分が悪態を吐露したことを思い出し、肩をすくめた。一方で、京助は身を乗り出す里子を彼女から死角で制止する。しっと人差し指を口にした。何を考えているのかがつかめない彼に視線を向けても、大丈夫だ、と膝頭をぽんと叩く。怪訝に首をかしげ、大人しく着席する。

「『落下姫』、は知っているか?」

「えーと、あーと、うん」

「あれは、どーして疑わない?」

「あーと、信憑性がないよ。なんていうか、本物だとは思えない。杏奈のファンか『バネ脚ジャッキー』を敵対している誰かが作って、噂が大きくなったんじゃない? 実際そんなに信用している人、いるのかな?」

「『バネ脚ジャッキー』と『落下姫』。都市伝説対決といわれるほどには人気みたいだけれどな」

「ばかげている」

 きっぱりと否定した。そもそも『落下姫』というもとのネタが、殺された少女が犯人に復讐していくという題材。『バネ脚ジャッキー』のような曖昧さと複雑さが無い。怪談的ではあるが、単純なそれは、噂話にしかならないと豪語(ごうご)する。

「なるほどねー」

 ――こいつもまた他人とは共有しない世界観を持っているなぁ。

 個性的な意見に、少し楽しそうに口元を緩める。

「お前は高梨杏奈を殺害した人物を『バネ脚ジャッキー』だといったなー?」

「えーと、あーと、うん」

「お前は井川勇一と月館麻緒は『バネ脚ジャッキー』に殺されたと思っているのか?」

「えーと、あーと、ううん。それは知らない。寧ろ二人が『バネ脚ジャッキー』だと思う。二人とも杏奈ののこと嫌っていたし、理由なんてなしに人のこと殴ったりできるから」

 何か言いたげにそわそわしている里子をよそに京助は質疑を続けた。

「事件は終わったと思うのか?」

「えーと。どうだろう。うん。そうなんじゃないかな」

「嘘だね。お前は今でも『ジャッキー』を探しているんじゃねぇーのか?」

 意表を付かれたように眼を丸くする。あっと口を空けたまま黙った。里子は全ての合点が行き着いたのか、膝の上で手を叩く。

「……仮に二人が『バネ脚ジャッキー』だとするならば死亡理由が分からない……」

「そーいうことだよ、志摩。それに、月館麻緒が何に怯えていたのかもわらねぇーんだ」

 友花は急降下した機嫌を一切隠さなかった。睨むようにして、唸る。

「……えーと、あーと。何が言いたいのさ」

「『落下姫』が、二人を導いたってことだ」

 だったらなんだというのだ。憤慨する友花は京助にあからさまな嫌悪を見せてべンチを立つ。背中に向かって京助は継げた。

「理由はねぇー。根拠もねぇー。だが俺は、お前が『落下姫』だと想像する」

 Aspect 相模太一

 中学時代からの友人から着信が入ると思えば、見舞いではなく非難だった。

「お前、××や○○に何かしたのか!」

 憤慨する受話器の向こう側の友人は、なにかと自分をトラブルメーカーにしたがる。的外れな事件もたまに押し付けられるので野暮用かと疑った。一瞬なんのことやらと本気で分からなかったのだが、彼の言う名前は全て自分が尋問した人間の名前だった。あまりに大々的に多く徴収したせいで苗字を聞くだけでは判別できない状態にあった。うんざりしつつも聴聞し、自分は関係ないとその場を収める。

 だが、その場を丸く済ませたとはいえ解決したわけではない。すぐさま修二に頼んで抗議があった名前の家に出向いてもらった。電話で自分が謝罪しようかとも考えたが、聞けば電子音に怯えるようになったらしい。

 修二は呆れつつも享受し、汗だくになりながらも二件ほど廻った。

「そもそもお前のところにかかってきた電話はどんな感じだったんだよ」

 ことを終えて病院に向かっている修二は、「どうせまた、なにかやらかしたのだろう」という苛立ちをありありと表情に浮かべる。受話器を通していることをいいことに「そうでもないよー」おどけて見せた。

「たしか『それじゃなくても気が弱い超ド級のガラスのハートの持ち主で、普通に行動していてもびくびくおどおどと挙動不審なのに、七月十五日以降いっそう酷くなって引きこもりになったらしくてな……。呼吸一つで死にそうな状態になったそうだ。そこで、××の親が「様子をみてくれ」って連絡が入ったんだ』って言っていた。もう一件も同じ感じ。実際、そいつそんなにその二人と仲良くないらしいから、俺に直接謝りに行かせようと思ったらしいぜ」

「死ぬ程追い詰めているだろうが!」

 人の迷惑も考えろ! 通行人の目はばからず受話器に怒鳴る。太一は耳から遠く離して汚物に触れるように携帯電話を摘んだ。

 ……人の迷惑も考えろ、など耳にタコができるほど言われていることだ。考えようなんて思わないけれど。

「はぁ……白羽の矢に当てたのが、お前ではないというあたり、両親は友人を見る眼があるといえるな。……友人代表だと適当に名乗った俺をあっさり家に入れたのはどうかと思うが」

 修二は得意の口八丁で騙せたことに優越を感じつつも罪悪を抱いている。

 突然現れたとはいえ、「借りていたノートを返しに来ました。××さん、大丈夫ですか」心底心配そうな表情で、神妙とした顔つきの息子の友人(仮)を拒むことはできないだろう。

「まぁ、そう言うなよ。で、様子はどうだった?」

「二人とも完全な引きこもり。俺を相模太一の回し者って知った瞬間の顔は本当に怯えていたぞ。殺されるかと思った」

「はあ? 俺ってそんな悪役?」

 荒らげた言葉の刹那、病室に足音なく顔を出した看護師。

「携帯電話使っている? 話し声聞こえたんだけれど」

 不機嫌そうに眉を顰める中年ナースがそこにいた。口煩いと名高い彼女に没収されると面倒だ。咄嗟に隠す。

「テレビ見ていましたから」

 愛想笑いを浮かべ、頭からタオルケットを被る。液晶画面は真っ黒だが、それを指摘しようと口を開ける彼女に向かって「寝ます」宣言をする。つまりは、出て行けという牽制だ。

 荒々しく鼻を鳴らす彼女が去ったのを確認してカーテンを引いた。太一は売店で購入した新聞をタオルケットのなかで広げた。連続墜死事件は他見で相変わらず多発しているようだが今となっては三面記事から外れている。

「悪い修二。 続けてくれ」

「……二人とも、お前との電話の後『落下姫』に接触されたそうだ。お前と同じような尋問をされて、気味が悪くなって無視し続けたらウイルスに感染させられたらしい」

「ウイルス? どういうものか、説明できるか?」

 受話器の向こう側で、自動車の音や電車の通過する雑音が耳に入る。そろそろ病院に着くと説明していることから、国道の傍にいるようだ。さまざまな馴染みのある雑音が次から次へと拾われる。

「カーソルもキーボードも動く。だが、背景とスクリーンセイバーに文字が流れていて……。ちょっと待て、念のため書き写しておいたんだ」

「でかした! 珍しく気が利くな。脳味噌まで筋肉で出来ていないことにびっくりだ。さすが眼鏡委員長!」

「お前後で吊るす」

 そう言いながらも受話器の向こう側でごそごそと何かをまさぐる音が拾えた。にやりと頬を吊り上げる。しばしの沈黙の間。蝉の声だけが病室に充満した。受話器の向こう側からも蝉の声がやかましく聞こえる。

「……いいか太一。読むぞ。『It is an iron hammer to the person who did not keep the promise. From the spring leg jack』」

「すまん。和訳してくれ」

 最後のほうは被っていた。あまりに瞬時のことだったので、呆気に取られた。「少しは考えろ!」本日何度目かになる激昂をとばした。怒鳴りすぎて少し酸欠気味なるくらいだ。

「お前。よく東高校入学なんて難関クリアできたな。……『約束を護らなかった者への鉄槌だ。バネ脚ジャッキーより』だ」

「バネ脚ジャッキー?」

「そ。接触してきたのは『落下姫』なのに、ウイルスは『バネ脚ジャッキー』のものだ。ま、そういうわけでお前の分の謝罪くらいはしておいてやったよ。二人ともお前のことを『バネ脚ジャッキー』だと思い込んでいて、それを弁解するのに苦労したけれどな」

「うん。それについては素直にすまん。お疲れ修二」

「……なんだって、俺の回りには人に悪影響ばっかり感染させる野郎ばかりなんだよ……。悪いが電池がそろそろやばいから切るぞ」

「あ、おい!」

 制止も虚しく不通音が流れる。あぁもう! 髪をぐしゃぐしゃかき混ぜた。ピンをしていないので長い前髪は垂らしたままで鬱陶しい。

 既に日は沈みかけている。松葉杖か車椅子がなければ満足に便所へもいけない。大きな悔しさと劣等感に歯を食いしばる。畜生と呻き、忌々しいくらい美しい、汚しようのない空を睨みあげる。届かない空に吼える犬。ただ牙を向き、自分以外の世界がみんな幸せだと思い込むほどに、怠慢で贅沢な自分。

 感じている。

 そろそろ終焉だ。決着がつく。だが、自分はその瞬間を目の当たりにあすることもできなければ、エンドロールを下ろすことも、傍観することも出来ない。

「畜生。相模太一のままでは、やっぱり只の情報屋のままかよ……」

 その呻きと共に、通話回線のぶちきれた携帯電話を握り締めた。タオルケットの中で縮こまった。薄暗い。瞼を閉じる気分ではない。蛇のようにとぐろをまいて前髪に視界を遮られながら、息ぐるしさの中で無理やりに呼吸を続けた。途端に、何かに頭を押さえつけられる!

「ぐぅ!」

 蛙が潰れたような音、というよりも、奇怪な声をマットレスに吸い込まれ、犬の呻きのような音を発する。窒息されそうな勢い。脳天をタオルケットの上から押さえつけてくる手首をねじり上げるように掴む。

「だ、れだよ!」

 何とか声を絞り出し、自由がきく右足でタオルケットの中から蹴り飛ばす。押さえつけえいたそれはひらりと可憐に回避する。跳ね起きると明るい視界の中にいたのは修二だった。

「よう」

 怪我人にも容赦のない悪ふざけ。彼は眼鏡を正すと、白いシーツに転がった黒い携帯電話を手に取る。

「病院での携帯電話の誤使用はお控えください」

 馬鹿丁寧な日本語の後、電源を切った。有無を言わさず、タオルケットの中にそれを潜り込ませる。怪訝に首を傾げれば、親指が示すのはドアのむこう側。

「この病室、あのおばさんに狙われているぞ。俺が入る前も出入り口でうろうろしていた。右手になに持っていたと思う?」

 小声で、悪戯を思いついた子供のように耳打ちしてくる。

「青酸カリ? 硫化水素(りゅうかすいそ)?」

「アホ。ビニールだよ。透明の」

「ってことは薬か」

 どんな試行回路をしているんだ。肩を落とすほどに呆れる。修二は持ってきた紙袋をぶっきらぼうに掲げて見せた。見舞い品を用意したわけなのだが、想像以上に元気なので安心するというよりもどこか落胆してしまった。

「……たんまり没収した携帯電話だよ。あの人、入院患者の電話を回収してはメールボックスとかを開いて一通りプライバシーを踏みにじった後に返却するって噂だぜ」

 修二の妹の小田切優子は体が弱く、この病院の常連だという。長年通い続けたせいで、勤務している看護師や医師に少しばかり詳しくなったそうだ。

 白桃を取り出すと紙皿やちいさなナイフを準備した。無造作にぶら下げていたくせにそれは傷んでいない。

「おかまいなく」

「俺が食いたいだけだ」

「さいですか」

「一応詫びに持っていったんだよ。それの残り」

「相変わらずマメな男だね」

 膝に乗せられた白い紙皿。白桃は、いとも簡単に皮を脱いでゆく。くるくると円心を描き、熟れた証拠の透明の汁を零しながら、つるりぬるりと。手馴れた様子で、鮮やかだった。細かく削がれ、ナイフに突き刺さった桃をぐいと差し出される。鈍く銀色に輝く刃が覗く。太一は呆気に取られた。

「……普通、人に刃物を向ける馬鹿がいるか。怪我人だぞ」

「横から食えよ。爪楊枝がもったいねぇし、手で触るとべたべたして気持ち悪いだろ」

 そう言いながら自身は手掴みで頬張る。咀嚼し、嚥下して、唇の汁を一嘗めした。そんなしぐささえ絵になることが悔しく、見とれれば、汁が白いシーツに滴った。あわてて刃先を避けて歯を立てる。それは甘く、よく熟していた。素直に美味いと感想を述べれば「だろ?」得意げに笑う。二つ目は指で剥ぐことが出来そうなほど熟れている。

 男同士のあーんなんて気持ち悪い。本来なら指摘の一つも入れてくれるだろう京助は一度も病室を訪れていない。ただ警察から釈放されたという事実だけはその日のうちに耳に挟んだ。

「……怒ってる? 修二の表情は崩れないから分かりにくいんだ」

「それは、京助が警察にお縄になったのを庇わなかったことか?」

「ほかになにかあるのかよ。意地わりぃ」

 ぐい、とまた差し出される。先端にナイフの刃が伺えないことが余計に恐ろしい。

「仕方が無いんじゃねぇの? 京助だって自業自得なわけだし」

 親友とは思えないほど薄情にも聞こえるが、信頼しているから余計な心配などいらない、言葉にしなくても強く繋がっている、と見せ付けられた気がして、眼をそらす。どうしようもない羨ましさが、僻みと妬みのようで自分の無いものねだりを恥じた。

「修二……こんなときに言うようなことじゃないんだけれどさ。『バネ脚ジャッキー』って……俺なんだよね」

「……は?」

 ――嘘だろ? とは聞き返されない。唖然と固まっている。膝に置かれた紙皿が零れ落ちそうになり太一が慌てて止めた。

「……マジ?」

 あからさまに引きつった顔がずいと近付けられられ、怯んだが「マジ」と頷いた。

「じゃあお前」

「今回のことには関与してない!」

 修二が何を言いたいのか、分かっていた。

「その前のホームレス暴行事件を糾弾したのも、……俺じゃないんだ」

 もともとは人に頼まれ、学校裏サイトや荒し……不法書き込みなどを削除したりウイルス感染させたりしていた。

「その頃、ネット都市伝説って呼ばれ始めてさ……。正直悪い気はしなかった」

 しかし、ことはどんどん大きくなり、多くの人が『バネ脚ジャッキー』と接触を求めるようになった。ジャッキーは凄腕ハッカー。ジャッキーはどんな願いも叶えてくれる。ジャッキーは弱者の神。――根も葉もない噂がそれこそウイルスのように蔓延し、やがて

「本当になったんだ」

 太一よりも優れたハッカーが『バネ脚ジャッキー』を噂通りの英雄にした。つまり、ジャッキーを名乗った第三者が現れたのだ。

「俺なんかじゃ敵うわけないんだよ。だって事件一つ解決するなんてありえないじゃん。俺が本物なのに、最初のジャッキーなのに……負けたんだ」

 偽者に負けた屈辱。それ以上に、絶望するほどの力量の差を見せ付けられた。顔も知らないその人間は、太一から『バネ脚ジャッキー』を奪ったのだ。情報屋と呼ばれ、どんなに正確なそれらを収集したとは言え高校生にできることなどたかが知れている。だから自分にできることを最大限に試してみようと思った。自分にしかできないことをしているつもりだった。

「……太一は『バネ脚ジャッキー』を取り戻したかったのか?」

「うん……志摩のこと心配したのは本当だけれど」

 彼が恐れたように、修二は軽蔑の色を見せなかった。ただ、そうか。と頷く。

「それに俺、ずっとお前のことが羨ましかったんだ」

「俺が?」

 怪訝に、そして胡散臭そうに顔を顰めたので少し憤慨する。からかっているつもりもなければ、誠心誠意の本音を疑われたのだから。

「修二と京助って理解できないような繋がりっつーか、絆っつーか……。出会った年数が違うだけなのに、俺だけ蚊帳の外じゃん」

「俺にはそんな風には見えないぞ。だいたいお前は京助と違って顔が広いんだから友達なんていくらでも……」

 生温い風に煽られると皮だけになった桃の香りが充満した。爽やかな香りと対照的に、難しい顔して首を捻るばかりの修二は、心底理解できなそうにまじまじ太一を眺めている。無遠慮な視線に苦笑いで返した。

「京助は俺には本当のことを言ってくれない」

「太一?」

「あのとき、俺が殴ったのって、嘘付くなって意味もあったんだ。俺だって馬鹿じゃない。あいつは、嘘つきだ」

 ――誰よりも、自分と向き合おうとしない嘘つき。

 利益を生まない嘘。自分を大きく見せるためではない。誰かを護る為の、自己犠牲の嘘。

 その全てが、太一にとって気に入らない。

「一緒にいた月日なら修二に敵わない。でも、俺だってそれなりに仲良くなったつもりでいたんだ。……なのにあいつ。俺には本音、話してくれないんだって……ショックだった」

 修二が口をぽかんと空けたまま、沈黙が降りる。ヒグラシの鳴き声と、風が木々をすり抜ける音ばかりがしばし流れて……。赤面した太一がいきなり「あーもう!」と叫びタオルケットに包まった。耳まで真っ赤にしていたことを目敏い修二が見逃すわけも無く。

「それ、ヤキモチだよな?」

「わ、悪いかよ!」

 タオルケットの中でもごもごとする姿はハムスターのようにも見えて可笑しかった。天真爛漫で素直。トラブルメーカーの癖に人に好かれる太一は京助とは真逆に等しい。だからこそ、憧れを抱いたのだろうか。表情は豊かでも、滅多に子供っぽく拗ねたりしない彼の新しい一面に微笑む。本人としては相当恥ずかしいのか「ガキくせえ」と自己嫌悪していた。「俺だって、何でも正直に話してもらっているわけじゃないよ」フォローではなく、素直に答えた。

「あいつ。昔からそういうところがある。自分で何でも背負い込もうとして、誰にも理解されようとしない。だからどの道、アイツには必要なことなんだな。今となったら。――あのときは、ついかっとなって売り言葉に買い言葉で手が出たけれど」

 べたべたしている指先を舐め、ウェットティッシュで拭えば、想像以上に暑かったのか、それともまだ恥ずかしいのか赤面したままの太一がタオルケットを吹っ飛ばして向き直る。

「ところで修二は京助のこと止めないのかよ?」

「なんで? もう今更だろ。俺も此処まで来たら志摩に全面協力するつもりだし」

 なんでもないことのような二つ返事。あまりにあっさり腹を決めているため寧ろ不安になった。

「なんでって……。また親友が殺人事件に巻き込まれるかもしれないんだぞ? 俺は……京助が過去に人を殺したかどうかなんてどうでもいい。でも自暴自棄になるだけの理由は揃っていた」

「だから同情するのか? 巻き込もうとしたくせに? 今更何もなかったようにあいつをそっとしておくのか?」

 もっとも触れて欲しくなかった痛恨(つうこん)の一撃。彼に言われなくても、己の無知を散々呪っている。

「志摩里子が高梨杏奈の死亡原因を突き止める理由なんてどうでもいい。だが、深い繋がりがなければ原因究明なんてリスクの高い面倒事を買って出るわけがない。……それに、高梨杏奈が殺害されたのだとして、犯人にもし対面したら、間違いなく最悪の方向へ運命は転がる」

「でも、志摩っちは復讐なんて……」

「人間の理性なんて簡単にぶっちぎれるんだ。目の前に親友を殺した犯人が笑っていたらぶん殴るのが普通だろう。……京助ははじめから誰にも協力を求めてなんかいない。自分が体感した罪悪を志摩に経験させたくない己のエゴと正義のために、勝手に全てを一人で完結に導くつもりでいる」

「そんなの! 自己犠牲と自己満足じゃねぇかよ!」

 身を乗り出せば、落ち着けと宥められた。それは呆れている様子ではない。寧ろ太一に同調しているようで静かに怒っているようにも見えた。

「そうだよ。だからお前があいつに対して苛立った気持ちは分かる。殴りたくなる理由もな。……昔からそういう傾向がある奴でそういうところが大嫌いだんたんだ」

 吐き捨て、拳を握った。銀縁のフレーム眼鏡の奥にあるのは、あからさまなむき出しの嫌悪。その表情は太一ですら見たことがない怒りだった。静かで、青く煌々と燃える強かな灯火。酷く冷たいのに、愛情ゆえの切なさがある。修二にしか分からない、哀しくも寂しい愛情と憎悪があった。

 ――京助は無意識にいろんなものを諦めている。他人からの愛情や、他人に与えるべき愛情。自分の築く未来であり、自分が他人に共有し、分け与えるべき未来。

「死にたがっているわけじゃなくても、死んだように生きることを望んでいる」

 人を殺した過去。

 殺人犯を殺した過去。

 それが何故そんなにも彼を苦しめたのか。太一には理解できない。

 見方を変えて無理やりに考察するならば、被害者遺族たちが犯人への反省を、謝罪を、裁判での叱るべき裁きを邪魔した後ろめたさなのだろうか。

 それでも理解できない。人を、犯人を殺したことに何の引け目がいるというのだろうか。

「わけわかんね……。京助だって、被害者なのに……」

 世間が彼をどんな眼でみるのか。どんな眼で見たのか。そんなものは知りたくない。

「母親を殺された男はな、犯人を殺すという復讐心から刑事になった。父親を殺された女は、裁きを与えるために検事になった。……それぞれが、事件を踏みにじり、そこから理由をつけて立ち上がり、頑張ろうとしていた」

 歪んだ理由。

 正しくない選択。

 それでも、そうでもしないと、血でぬかるんだ大地の上に立ち続けることはできない。そう悟ったときから、決意は固められたのだ。

「人間は、お前や俺が思うほど強くなんかないんだよ、きっと。目の前にした真実だけでは、生きられない。自分のためだけに強くなれないから、何か理由が必要なんだ。……その理由を、京助が殺したことで失わせた」

 人に疎まれる。嫌悪される。その視線がどんなに残忍なもので、耐えがたいものであるか修二も太一も知らない。自分だけが横取りし、果たした復讐の後に待っているものは、罪悪と罰だった。

「報道機関では、犯人は京助の両親殺害後に自殺したことになっているだろ? もしくは、現場にいたらしいといわれる不審者がもう一人の犯人で、仲間割れしたかもしれないと。実際のところ京助が犯人である水川銀次を殺害した目撃者がいないことと、京助自身の精神状態が崩壊寸前だったことから、警察がそう発表した。小学生の京助が自分で殺したんだ、と言っても何の説得力もなかったし、証拠もなかった。……凶器の包丁から出た指紋は四人分もあったんだ」

「じゃあ、実際京助が殺したかどうかなんて」

「あぁ、わかっちゃいない。てめぇの両親の惨殺死体を目の当たりにして、発狂した小学生の発言なんて誰が信じると思う?」

 確かに根拠のない言葉である。誰もが錯乱したせいだと思うだろう。それでも、誰が好き好んで「自分が殺した」などと虚勢を張るものか。

「京助はな、被害者になった全ての人間に会いに行き、ことの真相を話すと言い出した」

「なんでっ! そんなことしたら何言われるか分からないじゃないか!」

 思わず声を荒らげれば、落ち着けと制される。

「俺も叔父も止めたんだ」

 京助がしようとしたことは、将来どころか現在の立ち居地さえ危うくさせることかもしれなかった。だが、それを発言したときから、彼は将来なんて諦めていた。自ら過去に縛られることを望んでいたのである。

「……結局、全員は廻れなかったし、会えなかった。ちゃんとマトモな会話を成立させたのは五人だけ、……らしい」

 精神異常になった被害者に「この人殺し!」と発狂した者。うんうん頷いて理解してくれた素振りをみせた後「もう二度と現れないでくれ」と拒否した者。「ありがとう、殺してくれて」と手を取って喜ぶ者。

 京助は泣くことも嘆くこともせず、それが当たり前なんだと受け止めていた。

「……狂いそうだったのは、同伴し続けた叔父や、話を聞いているだけの俺のほうだった」

 コントロールできない感情が溢れ出る。支配することができない感情が決壊する。

 醜いばかりの人の思考に幼い少年はどうして向き合い続けることを望んだのだろうか。自分に対する裁きだと決め付け、何故許しを請わなかったのか。

 両親を殺した人間を殺すことに、何の引け目がいる。何故殺してはいけない。――殺人が犯罪だからか。

 きっとそうではない。多くを殺した者も、人間であるから、人間を殺したということ事態が、京助に大きな罪の意識となっているのだ。

「わけわかんね……」

 だがそんな理論、納得など行くわけがない。

「人が生きるということなんて、間違いばかりを繰り返し続けることみたいなものだろ。なにかを学ぶ為には、間違えないと分からないことばっかりじゃないか」

 過去から這い上がることができないのは、這い上がる気力がないからではない。這い上がってしまったら本当の意味で穢れてしまい、殺人を犯した自分を享受することになってしまうからだ。だが、理不尽すぎる環境の中で、京助自身が誇り高く生き続けることを諦めさせなきゃならないことなんてない。

「……修二は、どうしたいんだよ」

「今は。……今は、あいつの考えそのものが、根本的に変わってくれることを願うしかない」

 無力を目の前にして、悔しさにタオルケットを握り締めた。

「自分を蔑むな、あいつの問題なんだから」

 修二は冷静に告げる。それは、俺たちにはどうしようもないことだと宣告したのと同じことだ。

「……人間が、そんなに簡単に変わるかよ……!」

「変わるさ」

「!」

「変わる。人間は、生きていれば必ず変わる」

 信じることしかできないけれど、信じなければ何も始まらない。それが覚悟なのだと知ったとき、二人はどちらからとなく微苦笑した。

「俺たちも腹ぁ、括るか」

 Aspect 浅月京助

「友達のこと疑うって、どういう気分なの?」

 薄暗くなった空。友花のいなくなった小学校の校庭に、いつまでも残っていた二人はぼんやりと上の空のまま時間の流れを感じていた。ベンチからやっと重い腰を上げると、「帰るか」の合図で里子の自宅に向かう。その道中、ほぼ会話はなかった。

「いい気分じゃねぇーよ」

「……ごめん。責めているわけじゃないの」

 ただ……。二の句を詰まらせた里子が松葉杖をに頼りながら背中を追いかける。頭半分ほどしか差のない身長だが、とても背中が大きく見えた。

「浅月君は、私のことも疑っていたよね?」

「お前が『落下姫』だと思ったよ」

 ばれていたのか。京助は溜息をつくと包み隠すことなく吐露する。

「いつから違うと思ったの?」

「お前、昨日俺と電話で話したときに『バネ脚ジャッキー』に手助けされたって言っていたじゃねぇーか。『ジャッキー』は都市伝説の頂点に君臨することしか考えていねぇー。だからほかの都市伝説なんて蹴散らすと思った。つまり、『落下姫』には協力しねぇー」

 ヒグラシの盛大な合唱で聴覚が遮られる。自然と声の音量もあげた。これだから田舎は、と此処以外に住んだことがないくせに舌打ちをする。

「私が嘘を付いているとは思わなかったの?」

「単純に、信じたかった。だから今日同伴させたんだー。鏡の事だって信用している。だから鏡に同伴してもらった」

 それだけのことだ。短く告げると疑ったことへの謝罪もなく、京助はぼんやり空を仰ぐ。蝙蝠が羽ばたく夕闇に、豆腐屋の笛が耳に付いた。

 空に星はなかった。泣き出しそうな分厚い雲に覆われている。蒸し暑く、たいそう過ごしにくいべたべたとした嫌な空気に包まれる。生温い風に踊るワンピースの裾は、ひらりひらりと踊りながら脚に纏わり付くようだった。ふいにぴたと、立ち止まる京助を怪訝に見つめる。

「悪かった」

「え?」

「鏡ー。悪気はねぇーと思うから、許してやってくれねぇーか」

 一瞬何のことだろうと戸惑うが、すぐに下腹に疼く嫌な感情が込み上げて察した。今にも思い出しそうな、アルコールの臭い。

 ……あの、男のことである。

「大丈夫。気にしていないわけじゃないけれど」

 ぽつぽつと点灯する街灯。ちらちら頼りないそれらの光の下。灰色のコンクリートの上。里子は誰も視界に写らないこのひっそりとした場所に、世界で二人だけ取り残されたような気分になった。馬鹿らしいと頭を振るう。いつの間にか、ヒグラシの声が聞こえなくなっている。時間は刻々と流れているようだが、足早に帰宅したところで何もない。

「……人を殺そうと思ったことがあるの」

 ――この人なら話してもいいだろうか。いや、話したい。

 里子は自分でも無意識のうちに口を開いていた。

 発言して良いワードではないと知っておきながら、話さずにはいられなかった。逃げてしまうのではないかというわけの分からない不安のあまり、京助の服の裾をぎゅっと掴む。彼は払わすに享受した。自分から支えることをせず、ただ握られる。

「私は、杏奈は、二人で、殺そうとしたの」

 ――……。

「……お前はいいね、純粋な気持ちを一切持たずに、彼女の死を労わるヒロインを演じることが出来るから」

 それは七月十四日。椿屋を訪れたときに唐沢黒奈が口にした言葉だった。

 彼女は里子の反応なんて気にせずに続ける。

「お前にとって只の共犯者に過ぎなくて、利用する価値の高梨杏奈。その死をお前がほじくり返す理由は……これだろう?」

 やめろと、叫びそうになった。胸が張り裂ける思いだった。

 さぁっ引いた血の気。冷たい指を絡ませる。氷のように体温を失ったそれらはじっとりと嫌な汗で湿っていた。黒奈は黒衣からそっと掌で包めるくらいの『何か』を取り出して、メジャーを伸ばすように引っ張る。

 ――ネガフィルムだった。

「なんで、今さら蘇るのよ。……過去なんてただの記憶に過ぎないのに」

 里子は一通り思いふけると、あぁと小さく嘆いた。

 京助の手を、おずおずと裾から伝うように握る。想いきり爪を立てた。一度も彼の顔を見なかった。彼がどんなふうに自分を見ているかなど、知りたくもない。京助には悪いが、話を聞いてくれる人間ならば正直誰でも良かったのかもしれない。ちょうど良く、隣にいた京助を掃き溜めに選んでしまったのは運でしかない。

「ねぇ、お願い」

「……なんだよ」

「懺悔(ざんげ)させて」

 京助の掌は案外小さく、そっと握ると体温が伝わった。それに身をゆだねるようにして、一つゆっくり瞬きをする。子供に絵本を読み聞かせるような優しい声で『懺悔』をはじめた。

「……――。私と杏奈は望まれず生まれた子供だったから、望まれて育つべきだと、あの男に言われたの。それが具体的にどんなことかも知らずに、二つ返事で享受した」

「……脅されたんじゃねぇーのか」

「寧ろ、自ら望んだの。望まれる子供になれば、愛してもらえると思ったから」

 内臓ごと吐き出したいほど、むずむずする。それほどに嫌な記憶でしかない。改めて言葉にすればする程、自分はどうしようもなく愚かだった。

「私たちは淫乱な母の股から落とされ、ロクデナシの父親を共有した姉妹。かんばせがいくら似つかなくても、母親が認めなくても、父親に引き連れられて出会ったときから、互いが姉妹だと気がついたよ。だって、おなじ境遇の……体に染み付いた腐った臭いがするんだもの」

 世界で一番嫌いな臭い。アルコールとニコチンが混ざり合って、おまけに皮脂まで漂ってくるような……。抱きしめられるたびにそれを感じる。はたまた、外で会うアレは、オーデコロンに包まれていた。そこからは臭いを嗅ぎ取ることはできなかったが、吐き気を催すほどに嫌悪を感じた。

 ……腐敗した臭いを互いから感じても、愛情に飢えた少女たちは互いを愛さずにはいられなかった。

 助け合わずにはいられなかった。

 一人は普通であるために。

 一人は異常であるために。

「……幼女趣味の父親に、体をいじくりまわされる『杏奈(いけにえ)』と、その場で生贄となる姉妹を傍観し続ける『里子(ぼうかんしゃ)』。あるいは、逆」

 杏奈(あんな)になる者が生贄と決められ、交互に里子(さとこ)と杏奈を共有し、互いがどちらか分からなくなるほど入れ替わりを続けた。誰に決められたわけでもない、暗黙のルール。

「……なんだよそれ」

 そんなふざけた話があるか。

 驚愕と衝撃のあまり怒りさえ込み上げてこない。正常に脳が機能していないのか、上手く言葉を咀嚼することを拒んでいる。

 そして里子もまた、京助の言葉を拒んだ。黙って聞いて、と人差し指を唇にそっと当てる。妖艶で、美しく、曇り夜空の下で、これほどにない色香を漂わせた笑みを向けた。

「ある日、どちらか傍観をする側の少女が犯される少女を撮影したの。そして脅したのよ。晒されたくなかったら自分たちの目の前から消えろと」

 里子は黒奈の手の内にあったネガフィルムを思い出す。どうして彼女がアレを所持していたのかは分からない。あの日、二人は写真とフィルムをそれぞれ分けた。

「どちらがどっちだったのか、もう忘れちゃった。でも、ずっと計画していたの。いつか二人で逃げ出そうって。だから二人で、どうやったらあいつを殺せるかばかり話あったの。でもね。大きくなるにつれて、自分たちの非力をありありと見せ付けられるようになって、行為もエスカレートして……。殺すことは無理でも、今から逃げようってことにしたの」

 急に両手を広げると、くるりとその場で回った。松葉杖がコンクリートに落ちる。桜色のワンピースがふわりと舞った。

「その後が笑えるんだよ。ねぇ。自分の娘を強姦する父親が教師だって、私たちは後で知ったから。聖職者に属していながらなんてザマ」

 手を繋ぎあって、写真を奪おうと殴りつけてくる『ソレ』に向かって、姉妹はただ叫んだ。「死ね」と。たった二文字の単語を、それしか知らない赤子のように。

 殴られても決して手放さなかった。

 蹴られても決して従わなかった。

 どちらかが持ち出したカッターナイフが『ソレ』の右手に突き刺さり、ひるんだ隙に叫んだ。「警察に突き出されたくなかったら、今すぐ消えろ!」「これまでもこの先も、絶対許さない!」男の影に怯えながら、姉妹は成長した。別々の道を選び、狭い町で、二度と顔合わせることがないように思慮深くなりながら。だから自分は彼女を失った全くの被害者ではない。彼女を見捨てたのは里子も同じことだ。

「……駆け引きのない、無償の愛情を求めたの。愛されることを望みながら、愛することを知らないくせに」

 二人は嘗て、寂しさを愛に変えた。愛すれば愛するほどに、愛情ではなく同情を与えてもらえた。

「杏奈は大人に対する嫌悪を抱いていても、誰よりも速く自立することを望んでいた。大嫌いな大人になるということが汚れるということだと認識し理解したとき、理想からかけ離れた場所に自分が立っていると思ったのよ。甘えたくても、甘えられる大人がいない。甘え方を知らない彼女は常に背伸びをし続けることが自分を騙す方法だと思った。それは、死んだ今でも変わっていない!」

 高梨杏奈は正しいことに嫌悪を感じても、悪いと思うことを享受しない。彼女はいつだって、同じ場所に立っていても同じ方向を見てはない。彼女は嘘を付くけれど誰よりも切実だった。

 その矛盾は、自分を外的から守るいわば鎧であり剣だ。戦う術を知らずして戦場に投げ込まれた子供が、亡骸から視様見真似で作り上げた脆(もろ)い武装だ。

「私は杏奈から解放されたくて逃げたくせに、今になって解放したくて、真実を知ろうと思った。懺悔も贖罪(しょくざい)も、望まれないことかもしれないけれど、全てを知っている私が、これ以上高梨杏奈(犠牲)を見捨てるわけにはいかない。もう、片割れ(腹違い)の姉を孤独のままにしておきたくなかった」

 紛れもなく、己のため。嘗て彼女を守ることができなかった自分のために、里子は死んだ高梨杏奈を護ると、棺の中で体温のない彼女に誓ったのだ。

 一切の涙は、彼女の真実を掴むまでは見せない。

 一切の弱音は、彼女を救うまで吐露しない。

 自分のためだけに誓いを立てた。

「自殺ならばそれでいい。事件ならば犯人を警察に突き出す。……それだけだったのに」

 過去の非力を咎め、背負い続ける為に。生きる為ではなく、死んだ姉妹に懺悔し続けるために立ち上がったはずなのに!

「どうしてアイツが、今頃私たちの前にいるのよ! どうして今になって現れるのよ!」

 湿った夜に、張り裂けそうな声が長鳴りする。咆哮(ほうこう)は哀切帯びているくせに発狂しているようで……歪んだ里子の表情はもとの穏やかな性格を一切感じさせなかった。

 コンクリートの上にただ君臨して、膝を折って崩れた里子は呻く。京助がおいと声をかけて肩に手を乗せれば、彼女は震えていた。

「どうしよう」

「……」

「どうしよう、浅月君。このままじゃ私、杏奈の事件なんて関係なく、大塚誠二を殺しそうだよ」

 七月十八日 Sunday

 Aspect 浅月京助

「朝からすみません」

「いや……別にいいけれどさ。何で朝比奈先輩じゃなくて俺をご指名なんスか?」

 要の運転するミニバンの後部座席は人が乗れるような状態ではなく乱雑としている。シルバーのそれを見たとき、所謂覆面パトカーか、とまじまじ眺めたが違うようだ。かろうじて座れる助手席に居心地悪そうに収まる京助はもごもごと口籠った。

「そのー……なんて言うかー」

「ま、あの人横暴だもんねぇ」

 とばっちりでお咎めを食らったり、どうでもいいことに巻き込まれたり、そのくせ自分が原因であることは都合よく忘れる。これまでに、子供のような先輩に愛想を付かしそうになること数多し。正直あまり良い印象を持っていない京助の電話があったときも「また何かやらかすつもりかあの男!」と身構えた。

「つーか、『バネ脚ジャッキー』絡みだしー……」

「え?」

「俺脅されいているんです。過去をバラさられたくなかった従えって。あの人、そーいうことに対して合理的判断に欠けそーじゃねぇーですか」

 なんでもないことのように答える京助に違和感を感じ溜息が漏れた。「あぁ……。言えているッスね」

 

 京助の元に届いた、『バネ脚ジャッキー』からの二枚目の手紙は「高梨杏奈ノ廃墟ビル屋上ヘ七月十八日十時マデニ来イ」と端的にプリントされていた。

 今更、と疑り深いと感じたのが正直な感想だが、無視できるほど根性は据わっていない。罠覚悟で腹を決めた。

 事情があるとはいえ、事件現場に踏み入るわけなのだから、警察に連絡を入れることにした。皮肉にも、一昨日の件で面識のある人物が二人も出来た。心強い見方となるかは別として、気休めぐらいにはなるだろうと立ち入り許可の電話を入れたのである。要が対応しなければあっさりことが進むことはなかったと思い(二つ返事で了解を得た為拍子抜けした)感謝する。危険を回避する為に立ち会うとまで申し出てくれた。

「あのー……なんでこんなに荷物……」

「あぁ。強行犯係の使っている部屋って狭くてね。俺は配属されてまだ三ヶ月目だからちゃんとしたデスク貰ってないんだ。資料倉庫を私物化させてもらっているから特に不便はないんだけれど。でもやっぱりスペース狭くいんスよねぇ。忙しいのも重なって、麻薬取締時代に使っていた捜査資料と私物を結局整理できずにここに詰め込んだままなんス」

「じゃー、要さんは厚生労働省だったんだ?」

「そ。触らない方がいいッスよ。何出てくるか俺もわからん」

 配属移動して三ヶ月も経過しているのにデスクがないというのは忙しい以前に設備の管理や怠慢さが問題なんじゃないか。そもそも自分の場所が設けられたとしても、この後部座席の私物達は全て納まるわけがない。生意気な口調になってしまいそうだったため、指摘したいのを我慢した。

 京助は助手席で振動を体感しながら手首を握り締めた。連日同じことを繰り返したせいで両手首とも若干変色しつつあるが落ち着かせる術は無駄口を叩くか握るかしかない。――大丈夫。己に呪詛をかけるように言い聞かす。平然と構えながら、握り締められた脈拍はびくびくと正常に活動していた。

「雨、降りそうッスね……」

 砕けた敬語のようなものはどうやら彼の癖のようだった。年上の、それも頭一つと半分くらい背丈が異なり二枚目の男性が使うには違和感があった。曖昧に返答する自分はさぞかし愛想の悪いガキに見えただろう。

 目的地がフロントガラスに映し出されていく。薄汚れた灰色の外壁。国道の賑わう自動車の背景となるそれの周囲はまるでそれを避けるかのように、だだっ広い田んぼが続くだけ。のっそりと君臨する、周囲の空気でさえ重くさせるような暗い場所だ。

 車の通りの激しい国道にて、混雑のあまり要は舌打ちした。脇に反れようとしても上手くいかないので、信号待ちの参列に参加する。自動車を運転する機会は多くても、交通量の多いところで四斜線道路の右折などには余り慣れていない。

 京助は車内の蒸し暑さのあまり口元の絆創膏を剥ぎ取った。痒かったのである。まだ肉色と血色の伺える傷。青タンを摩る。

「要さん。『バネ脚ジャッキー』って何者だと思いますかー?」

「……さぁ。正直想像もつかない」

「何が目的で、俺なんかに近付くんだか……」

 要はぽつりと、自暴自棄になったように呟く隣の少年を一瞥した。そこにある端整な顔立ちは、どこか苛立っているように見える。

 ――日本全土を震撼させた大量猟奇殺人の犯人を殺害したことで、全てを強制終了させた少年。

 実際、迷宮入りしたその事件は、死亡した水川銀二や逃亡した男のみが犯人とは考えにくい。日本各地で発生する事件は、明らかに移動が不可能な距離で数時間内に行われたものもあった。おそらく、犯人はまだ何人かいるのだろう。溢れかえる人間の渦。その中で、同じように時の流れに従いながら、鉄の臭いを侍らせて。

 考えるだけで嫌気がする。要は頭を振るった。

(浅月京助は、いつ他の犯人から命を狙われても可笑しくはない)

 例え相手が仲間意識の強いメンバーではなかったとしても、狂った殺人集団にとっていともたやすく殺せるであろう浅月京助は、もっとも恐れるべき敵なのだから。

「……君はさ、頼ればいいんじゃないの?」

 雨が降りそうだ。曇天の空はいささか、昨日から引き続きぐずっている。

「先輩も、友達もいるんだろ」

 なにについての投げかけか、要自身わからずに困惑する。ただ、短い時間、ろくに会話も成立していないこの相手のことを、自分が確かに気に入らないと感じたのは本当だ。

 突然の閑話休題に戸惑いながらも、うつむいたまま京助は応答する。

「どーして頼る必要がありますか。自分の自己満足に他人をつき合わすなんて迷惑も甚だしいでしょーに」

 自嘲するように微苦笑するしぐさまで、要には偽りに見えた。子供の癖に、なにもできない子供の癖に背伸びして大人を演じているような……。演じる必要もない役目を自虐のために選択しているように。

「だったら今すぐ此処から降りろ!」

 怒鳴った要が一番驚くような、外にも聞こえるくらいの怒声がついに腹の奥底からこみ上げた。拳をハンドルに打ちつけたせいでクラクションが響き、乱れる走行。周囲からの抗議は耳に入ることなく薙(な)ぎ払われる。無論スタートしたままの自動車で回転しているタイヤ。止めるつもりは一切ないようだ。「無理だろ」なんて常識的な反論ができないくらいの怒気が伝わる。意表を付かれて眼を見開いている京助の視線を感じつつ、フロントガラスの先を噛み付くように睨んだまま続けた。

「自分一人なんでも出来るから誰も頼らない? 自分が死んでも誰も悲しまない? いなくなってもなにも変わらない? そんな自暴自棄と自己完結と自己犠牲を押し付けられている他の人間の身にもなってみろ、そのほうが迷惑だ!」

 息をつく間もなく、マシンガンのような途切れない羅列が飛び出た。滅多に人を怒鳴ることなんてしないくせに、交友の深くない壮年相手にムキになっている自分が可笑しく思えても止まらなかった。

 廃墟ビルの脇。対向車が来たらバックしなくてはいけないくらい細道を荒々しい運転で突き進み、乱暴に停車すると唖然としている京助の胸倉を掴みあげる。

「いいかガキんちょ! 生きてりゃ必ず誰かと関わる。それが自分の好んだ相手ではなくても、不快で望まないことでもだ。お前の胸倉を掴む俺がお前の視界に写るように、思い通りにいくことなんかねぇんだよ! たかが一度のつまずきで、何所までも引っ張りやがって……! 間違うことがそんなに悪か? そんなに駄目なことか? 躓いた状態で立ち上がることすら諦めたお前が人生悟ったような顔するんじゃねぇ!」

 乱した呼吸。興奮で乱れた茶色い髪は、好き勝手に跳ねている。

 京助にとって……いや、誰でも胸倉を掴まれるなんて行為、滅多にされるものではない。しばし呆然としていた京助だったが、はいそうですか、ごめんなさい。心機一転します。と検挙で素直な性格であるわけもなく、みるみる顔色を上気させてゆく。そして、

「だったら俺に関わるな! こんなくそ餓鬼ほっとけよ!」

 負けじと胸倉を掴み返した!

「てめーは俺が気に入らねぇーんだろ? だったら最初から協力なんてするんじゃねぇーよ! どうせ殺人犯の餓鬼なんて相手にしたくないんだろ? 俺が嫌いなんだろ!」

「あぁ大嫌いだね!」

「だったら中途半端に構うんじゃねーよ! 最初からほっとけ! こっちから願い下げだ!」

 要の胸倉を掴んだ瞬間。苦しそうに顔を歪めた彼にざまあみやがれと思う反面、何をしているんだ自分は、とどこか冷めていた。

 普段から平然と、端整な顔立ちを崩さない京助がむき出した怒気。掴みあげられた胸倉への力に対向するように、首を締め上げるような気持ちで力を込めた。だが、やがてみるみる哀しそうな、泣きそうな表情へ変わってゆく。

「結局、大人なんてみんなそうじゃねーかよ……! 自分に火の粉が掛からないように人のこと化け物みたいに指差すくせに、俺が享受したら卑屈になるなとか、逃げているとか否定しやがって……!」

 襟を、力なく解放する。わなわなと唇を震わせ、怒りに見開いたままの瞳に要を写した。怒鳴ってきたのは彼なのに、ぽかんと眼を丸くした青年がそこにはいる。あまりに綺麗な瞳の中に、泣きそうな俺が写ることが悔しかった。

「……!」

 途端に、助手席から飛び降りるように外に駆け出た。

 要が呼び止めたかもしれない。しかし、京助はそんなことを気にする余裕もなかった。どうでも良かった。ただ一色に広がる灰色のビルに向かって、灰色のコンクリートを蹴り上げるように踏みつける。硬さのあまり跳ね返る力。それほどの加速。荒くなる呼吸に従い暴れだす心拍数。それの苦しさと、胸の痛みと。

 ――……何所へ向かうことが開放に繋がるのだろう。

「……大人なんて、結局みんな勝手じゃねぇーか」

 水川銀二と、玄関口で傍観していた男は京助の人生をめちゃくちゃにして消えた。

 父方の親戚の一人は、蔵の仲に京助を押し込めて生活させようとしながら、京助が嫌がるそぶりを見せることなく、生活に慣れるようになるとぽいと捨てた。

 二人目は名前を変えるように強制し、人目ばかりを気にしてノイローゼになった。

 中学生の頃の担任教師は、高校受験とともに家庭事情を知ると散々自らの正義と善意を重圧し、「ご両親の為にももっといい進学先にかえよう」と提案し、否定するたびに嫌な顔をされた。

 何より、両親は京助を護って勝手に死んだ! 生きることのほうが、死ぬことよりも遥かに辛い永遠の苦痛であることを既知しておきながら、息子にのみ苦行を授けた。

 大人はみんな自分勝手だ。

 自らの持つ歪んだ常識を子供に押し付けておきながら、それが道理道徳から反れたものだとしても平然と済ましている。

 自らを分かってくれと訴えては、分かるまで諦めない。そのくせ、子供の表面ばかりを見て、かわいそうと同情し、歪んだ正義と非合理を振りかざすばかりだ。ちっとも理解してくれない。しようともしてくれない!

 京助は愛など求めていない。

 どうしようもない空虚を、罪悪を、認めることでしか自分でいることはできない。自分を許してしまっても、咎め続けても、もう向上を願うことから外れてしまった。

「ははっ……」

 力なく、笑う。

 ただ、京助は立ち入り禁止の黄色いテープを潜り抜けて、曇天に一番誓い場所まで走った。

 足場の悪い階段。むき出しの構造。剥がれた塗装とコンクリート。

 妙な音を立てて踏みにじり、光のない空へ手を伸ばす。履き馴らしたスニーカー越しに感じる石やアスファルトに似た感触がある。カッターシャツで額の汗を拭い、最上階までただ脚を勧めた。

 膝が笑い出すほどに痛みを訴えても。脹脛(すね)の筋肉が吊りそうになっても、どうでもいい。

 絡み付く湿気も、滴る汗も。

 生きているからではない。罪悪に生かされているから感じるのだ。

 もう。誰にも助けてくれとは願わない。

 ――ならば、何故自分は、過去を『バネ脚ジャッキー』に公開されることを、こんなにも恐れているのだろう。

 他の被害者に迷惑が掛かる?

 自分が好奇の眼で見られることが怖い?

 これまでどおりの生活が望めなくなる?

 どれも違う、どれも違う!

 かぶりを振って否定する様は、まるでいやいやと聞き分けのない子供のように滑稽だ。

 屋上の扉を前にして、冷たい銀色のドアノブを握って、乱れた呼吸を整えた。咽喉のあたりで絡みつく、暴れる吐息が咽喉から抜けてゆく。ぽたぽた音もなく、汗が滴り落ちてゆく。それは、汗だけではない。

 畜生。

 誰にも聞こえないように呻いた。聞こえてはならないように助けてと願った。

「畜生ぉッ……!」

 ぎゅうと胸が苦しくなる。それは急な運動で暴れだした心臓のせいじゃない。

 京助は理解している。自分は子供だ。理解されないことに憤慨し、他人に愛されることを拒絶した。思い通りに行かないことを他人に八つ当たりして、結局は全て大人のせいだと甘えている。

 情けないとは思わない。ただ、自分自身が嫌いになるだけだ。

 灰色の建物の中に溢れる、荒い呼吸と自動車の音・そして、こつこつと階段を上り、接近してくる歩行の音。

「……小田切修二や志摩里子。相模太一と過ごした日々が、そんなにも愛おしいものだったか?」

 最上階手前の踊り場。そこに、樹要は起立する。振り返れば、そこにあの優しい眼をした青年がいることがたまらなく恥ずかしかった。

 ただ、足音を背後にして、ドアノブを回せないまま、俯く。殴られる、と覚悟して、歯を食いしばった。眼をぎゅっと瞑る。

「過去を暴かれたら、今の日常を失うことになる。だから、お前は『バネ脚ジャッキー』と対面することすら恐れない」

 背後に、影が伸びる。真後ろにいる気配がした。

「お前は、愛されているんだよ」

 大きな掌。それは強靭な痛みを走らせるだろう。避けることなく享受する体制をとる。だがそれは、拳に形成されずに頭部にそっと置かれた。思わず顔をぱっと上げる。要のかんばせは歪んで見えた。

「愛されていい。愛していい。お前は化け物じゃない」

 京助は声もあげず、顔を顰めることもなく、ただ涙を零した。自らが汗だと懐けた虚勢の涙。要に拭われて分かる。それは涙だ。

 こんなにも静かに泣く子供がいるかと驚愕するほどに、声を押し殺している様子は一切ない。ただ瞳から涙が溢れている。美しいかんばせから、真珠のようにぽろりぽろりと。ゆれる瞳に要が写る。そこにあるのは、京助の人間らしい弱い表情だ。取り繕われた他人を遮断するための外壁を捨て去った表情は、普段の済ました顔つきよりもずっとずっと幼く、愛しく見える。

 要は銀色のドアノブに両手をかけたまま離せないでいる彼の頭から、そっとうなじにかけて掌を滑らせた。頭ひとつと半分ほど小さい彼。本当にただの子供だったのだと、改めて実感した。そのまま肩をそっと抱く。

「俺は、浅月京助という男をよく知らない。だが、おそらく不器用なんだろう。愛情を拒むほどに傷つき、愛することを恐れたから、他人と距離を置かずにいられなかった。それでも、あの三人だけは拒めなかった。……本当に、護りたいものだった」

 京助の瞳に、もう涙は消えている。要は小さく微笑んだ。

「護りたいなら、彼らのために愛してやれ。不器用でいいから本当の意味で愛しなさい。君が貰えなかった、君が欲しかった形のままで」

 しかと掴んだまま、彼が離さないドアノブを包み込むように要も手をかけた。ゆっくりと、二人は同時に力を込める。そしてそっと頷いた。

 ――この先に何があっても、戦える。

 根拠のない確信を抱いて、京助は強く踏み出した。

 Aspect 浅月京助

 生ぬるい風がひゅうっと渦巻くように通り過ぎて視界を遮る。前髪を持ち上げられ、思わず眼を細めた。灰色の町並みが広がる。

「……」

 うちっぱなしのコンクリートの世界が広がる。単純に一色塗りされた場所。黒く焼けたフェンスが今にも崩れそうに設置、いや、放置されている。風に揺れてはぎいぎいと嫌な軋みをあげて唸った。それはひどく不安定である。

「……ひでぇー場所」

 京助が正直な感想を一つぼやいたとき、要の携帯電話が鳴り響いた。

「要ー! てめぇ今どこほっつき歩いて嫌がる!」

 通話ボタンを押した瞬間に飛び込んできたのは怒声だった。耳を押し当てていたら間違いなく鼓膜が切れていただろう。様子を伺っていた京助でさえ頭に鳴り響いていたのだから。

 唖然としている京助をよそに、要は受話器に拾われないように舌打ちし、「バレたか」と悪態を付く。そのまま電源ボタンを押した。慌てたのは傍観していた京助である。

「いや、あんた後で怒られるんじゃねぇーですか? 急用でしょ、これ絶対」

「拳骨食らうのは今に始まった話じゃないんス」

 飄々と何事もなかったかのようにポケットにしまう。けろっとした顔に一切の悪びれはなかった。京助は思わず溜息をつく。先ほどまでは横暴な蓮太郎につき合わされているだけの男だと思っていたが、要もそれなりに曲者である。

「もー、行ってくさいよ」

「は?」

「もともとー、一人で来るつもりだったんだ。それぐらいの腹は決めた。……背負うどうこうじゃねぇーです。もとより、俺達の対決はタイマンじゃなきゃならねぇーんだ」

 何か言おうと口籠ったままの要の胸板を押した。

「……大丈夫……大丈夫。ここまで、あんたが来てくれたんだー」

 真っ直ぐに見据えれば、観念した様子で微苦笑を浮かべる。再び艶のある黒髪を撫でてやり、背を向けた。

「負けんなよ」

「当たり前じゃねーですか」

 ――あんたが、こんなにも背中を押してくれたのだから。

 踵を返して、背を向けた。想いっきり酸素を取り込み、青痣のことなど忘れて両頬を引っ叩く。ぐるりと改めて注意深く見渡せば、一つの携帯電話が中央に置かれていた。

「……」

 それは、確かに振動している。生唾を嚥下した。携帯電話までの距離が何千メートルにも数センチにも感じる。歪んでいる場所に立っているように、こみ上げる吐き気。

 京助は今にも崩れそうなほど老朽している屋上に一歩一歩慎重に踏み込む。たかが六階分の高さにこれほどまで怯えるのは初めてだ。

 白い携帯電話は随分と使い込まれている跡がある。しゃがみこんで、そっと指先で触れた。

 ――早く出ろ。

 せかすように振動している。可愛らしいヒヨコのマスコットが付いた白いそれを拾い上げ、震える指先で通話ボタンを押した。

「……もしもしー」

「やぁ。はじめまして。僕は『バネ脚ジャッキー』だ」

「!」

 飛び込んできたのは、無機質なボイスチェンジャーではない。少し深みのある男の声。年齢を推測するならば三十代くらいだろうか。妙に上ずった、はしゃいだ感じが判断を鈍らせる。低いそれが脳内でリフレインするのを感じながら「どうも」と続けて気のない返答を。

「噂どおりの間延びの口調。持ち前のやる気に掛けた気だるさは誤報じゃないみたいだね。君も随分成長した」

 是非とも面と向かって会話がしたいなぁ。明るく持ちかける。それが嫌味の含んだ社交辞令だと受け取り舌打ちする。

「最初に俺に接触して来たのは、あんたじゃーねぇーな?」

「ご名答」

「『バネ脚ジャッキー』は複数名ってことかよー」

 受話器の向こう側は、咽喉を鳴らして笑っていた。何が可笑しい。むきになる自分を押し殺す。どうにも腹立たしい食えない者ばかりのようで『バネ脚ジャッキー』達との交友は難しそうだ。

「さあね。『バネ脚ジャッキー』の正体を知ることはタブーなんだけれど、万が一知ってしまったものには別の罰が与えられるんだ。『正体を暴いた人間も『バネ脚ジャッキー』の一人になきゃならない。――ありがた迷惑なのか、好都合なのか微妙だよね」

 それで、僕は晴れて『バネ脚ジャッキー』になりましたとさ。勝手に盛り上がる男に向かって、「黙れ」と一蹴する。まったく癪に障る話し方をする。気に入らなくて、苛々してたまらなかった。これならばいつものボイスチェンジャーの『バネ脚ジャッキー』のほうが可愛げがある。

「……五年前。お前はあの場にいた奴なのか?」

 電話が軋むほど、強く握った。明白な殺意をむき出しにして、ぐるりと周囲を見渡す。

 おそらく、相手は自分のことを観察している。

 ――面と向かいたい?

(馬鹿言うな。こっちの台詞だコノ野郎!)

 このビルはかなり背が高い。同じくらいの高さから見られているのならば、おおよそ建物に見当が着いても可笑しくはないはずなのだ。それなのに、それらしき人物は一向に見付からない。縦横移動(じゅうおういどう)する様子をあざ笑うように「はは」と笑声。

「どうだろう、ね?」

 相変わらず、生ぬるい風が吹き抜ける。それは強いものだった。空を見上げればごうごうと蠢く曇天の厚い雲が流れている。なかなかお目にかかれないほどのスピードだ。自らの足元の傍で巻き起こる旋毛風(つむじかぜ)。少しずつ大きくなり、京助の長い前髪を掻き揚げる。ふわっとそれに全身を包み込まれた。その瞬間、研ぎ澄まされた五感がびくりと反応する。

「まさか」

 嫌な予感がした。恐る恐る、フェンスの縁に歩み寄れば高梨杏奈の死体が発見された場所に人影がある。

「てめぇええええ!」

 飛びかかるような勢いで、今にも崩れ落ちそうなフェンスに飛び掛る! 曇天の空に鳴り響く怒声はその影に届いたのか、受話器からは笑い声が流れた。

 まるで京助に落ち着けと諭しているように、大空から音もなく涙が捧げられた。しっとりと全てを包み込むそれが、酷く冷たい。

 影は、依然として移動する様子を見せなかったが、濡れるの嫌いなんだよね、といいながら黒い傘を差した。

「お前、修二や志摩に手を出してみろ! 本気でブッ殺すからな!」

 受話器に向かって遠慮なく怒鳴りつけた。そのまま叩き割りたい衝動を理性がぎりぎり引き止める。

「五年前の水川銀二と同じように?」

「それがお望みならば腹ぁ掻っ捌いて切り刻んでやらぁ!」

 咽喉が枯れそうだった。普段口数の少ないせいで会話が長々持続することに慣れていない。畜生、と分けのわからない悔しさを吐露する。上がった息を整えたころに「冗談」と切り出した男。

「あの二人には何もしない。あの事件の時だって、僕は誰も殺しちゃいない。無意味な殺人を眺めていただけサ。でも、今回高みの見物をするつもりはないよ」

「……」

「言っただろ。『バネ脚ジャッキー』は複数名いるんだ。『バネ脚ジャッキー』同士の対立は認められていないからね、君を事件に巻き込んだ『ジャッキー』を敵にするわけにはいかないんだ。あの『ジャッキー』は君の味方だからね」

 以前として降り注ぐのは霧雨のような細かい雨粒。髪をしっとりと濡らし、水分で重くさせられた。視界はみるみる白いベールで覆われてゆく。まるで何かを見るな、と目隠しされるように。

「……信用できるわけねぇーだろーが」

「それは君の勝手。信じるかどうかは自分で見極めるといい。閑話休題するけれど、その携帯電話は高梨杏奈の仕事用のものでね、ある資産家の画家さんが彼女専用に持たせていたものなんだ。それを妹の志摩里子さんに渡してもらいたい」

「……! なんで志摩のことを」

「知っているさ。僕らは君の事、ずっと見ていたんだから」

 雨はいつの間にか止んでいた。だが遠くの空で、わずかに雷が轟いた。まだ遠い。雷光は見えていない。

「だからこそ、この風景を君に見せたかったんだよ。天国に一番近い、高梨杏奈が死んだ場所を」

 絶景とは言いがたい場所。灰色の空と灰色のコンクリートに挟まれて、息が詰まりそうな気分だ。まるでコンクリートの中で溺れているような感覚に陥る。もがいても足掻いても、灰色の水。鼻腔と口から体内に流れ込み、灰に着々止まる。満たされたときに気が付く。……もう手遅れと。

「君だけが過去から解放されることがないように、逃げることなんて出来ないって教えてあげようと思ったんだよ」

「ありがた迷惑だー」

「そう言うなよ。つれないなぁ」

 くくっと痙攣したように男は笑うと、ゆっくりとした動作で動き出した。おいと制止しようとしたがのどで声が留まる。止めたところで、今の自分に何ができるというのだ。

「僕が……そう、少なくとも僕は、君の前に現れることはおそらくこの先ない。でも、僕らは互いを忘れない。君がもし、僕を殺したいと思うのならば、そのときは僕を探すといい。僕は全力で歓迎するよ」

「……死にてぇーのか」

 黒い傘に、黒い服。どうやらそれは喪服のようだった。隅には白い百合の花束がそっと置かれている。

「違うよ。君を引きずり込みたいんだ。こちら側の闇に。君がいつか、五年前の出来事を誤りだと呼ばない日が来ることを、願っているんだ」

 ごうっと聞きなれた音がした。貨物列車が通過する音である。静まり返ったその場所からは、町中のいろんな音を拾うことが出来た。

 途切れ途切れの雲。切れ間に差し掛かれば雨はきっと止むだろう。その証拠に遠くの空だけが輝いて美しい青を覗かせている。

「まぁ、とりあえず急いだほうがいいと思うよ。がんばれ」

 有無を全く言わせず回線は無情にも途切れた。すぐさまリダイアルをしても、「おかけになった電話番号は……」と女性のアナウンスが虚しく、無機質音声が流れるだけ。黒い傘は、もう見えなかった。

 ふいに、壊れたフェンスの合間をすり抜けて、ぎりぎりの縁に立ってみる。

「本当に、此処から落ちて死んだのかー?」

 高さのあまりに膝が笑った。だが、不釣合いなその場所が、何故だかとっても心地よい。哀しくなるほどに、切なくなるほどに。ただ、絶望だけを目の前にして。

 新緑色の田んぼ・喧騒を撒き散らす国道・寂れた町並み・踏み切りと電路・何所にでもあるコンビニとスーパー・白塗りの病院・色あせたクリーム色のような学校・せわしなく働く大人・何ごとにもきゃたきゃた笑う子供。

 ポケットをまさぐると、いつのものか存在を忘却(ぼうきゃく)した飴玉が入っていた。一つ、手に取ると地面に向けて軽く放る。蝉と蛙の鳴き声でコンクリートに叩きつけられた音はしなかった。

 今度こそ、背を向けた。コンクリートを履きなれたスニーカーで踏みながら、今度こそ踵を返す。

 ――遺品である白い携帯電話を握り締めた。

 Aspect 朝比奈蓮太郎

 便所、と言ったきり三時間近く行方を晦ました樹要はケロっとした顔で……むしろすがすがしいほど爽やかな表情をぶら下げて署に戻ってきた。

 行き先を咎める気にもなれず、そのままシルバーのミニバンに乗り込んだ。

「せーんぱーい。いい加減無視するのやめてもらえます?」

「……」

「ガキかあんた」

「てめぇーが言うなてめぇが! 井川勇一を殺害したかもしれない奴らのところだ」

「奴ら?」

 複数名なのか、と首を捻る以前に怪訝に思ったのはアスファルト舗装されていない獣道を突き進んでいることだ。いくらか広いスペースの脇に路上駐車する。仔細を説明する気はないようで、蓮太郎は雨でぬかるんだ泥道をずかずかと先陣切った。

 辿り着いたそこは立て看板によると一応公園のようで、だだっぴろいわりにろくな整備もされていなければ遊具もない。河川敷傍に設立されているため住宅もない。雑木林と川に挟まれ田んぼと橋が傍にあるだけ。雑木林のせいで日当たりも悪く、よくもまぁ人が集まりそうにない場所に公園など建設したものだ、と嫌味の一つもこぼれそうだった。そのような場所に土曜日の昼間から革靴にスーツ姿の男など滅多に現れるわけもなく。住民らしいホームレスたちがそれぞれ青くなったり赤くなったりした。

 中肉中背で切れ長の瞳の青年と、赤茶けた天然パーマで姿勢の良い長身の青年。おおよその職業すら推測させない、胡散臭そうな男が並んで歩行しているその光景はさぞかし奇妙なものである。

 五人のホームレスが円陣を組むように座り、傍にはテントが二つ建てられている。今にも崩壊目前の臭いを漂わせながらもよく見ると、鉄のパイプなどで補強され見方を変えれば芸術作品にも伺えなくはない。ダンボールで作られたその城はあるアニメ巨匠の映画を思い出す。

 にょきっと音をたてて脚を生やし、歩き出しそうなダンボール城のまえで鍋をつつく彼らに、蓮太郎と要はつかつかと無愛想に詰め寄った。

 この真夏に鍋ですか。声をかけようか迷ったが、水に浸された満杯の素麺のようで納得してしまう。

「少し話しを聞かせて欲しい」

 蓮太郎が警察手帳を掲げるとホームレスたちはさほど驚きもしない様子でうつむく。まるで警察が来ることを最初から知っていたように見えた。

「井川勇一の、件ですね」

 立ち上がったのは齢六十くらいの男だ。白髪の混じった髪を一つにまとめ、広い額が夕焼けの光に映える。白いガーゼで覆われた頬をさすり、すっと両手首を差し出す。

「咎め立ても重々承知(じゅうじゅうしょうち)。これでカンベン願えませんか?」

 丈夫そうな歯が揃っているせいか、聞き取りやすい声音だった。蓮太郎よりも身長のある男は、少し背を屈めるようにして情けなく笑う。

 あっと口を開ける他のホームレス達だったが、背中で男は制止する。誰もが死刑宣告されたかのような絶望的な色になった。

「手錠、ねぇ。悪いが、この場合、任意同行だから枷を付けるわけには行かない。そして、あんただけが全てを償うということは不可能だ」

「そんな……」

 悲しそうに、悔しそうに歪められる。

「願わく、自首をおすすめしたい」

 蓮太郎はがしがしと頭を爪で引掻く。髪に絡みついた汗が指に付着する。取り付けたような敬語を排除し、いつもの調子で口火を切った。

「この中にいる全員かどうかは知らねぇが、井川勇一と月館麻緒の殺人に関することで、俺たちは事情を説明してもらう為に来た。逮捕状は降りちゃいない。勿論今日現在じゃなくても現行犯でしょっぴくには、未来の青い猫型ロボットを必要とすることになる」

 つまりは、証拠がないから疑っていても今日現在捕まえることは不可能なのだ、ということを要が補足する。

「刑事さん」

「朝比奈だ」

「朝比奈、さんは、何故我々に辿りついたのでしょうか?」

 投げられた疑問に、にいっと悪戯を思いついた子供のように笑った。

「ある命知らずなとんでもない大馬鹿高校生からの垂れ込みだ。井川勇一がホームレス暴行事件と関連があるとわざわざ連絡してくれてね」

 蓮太郎はゆっくりとした動作で煙草に焔を燈した。要の無言の制止には気がつかなかったことにしておく。

「……よく、信じましたな」

 頭に手ぬぐいを巻きつけた大柄な男が、訝(いぶか)しく頷けばこくこく首肯(しゅこう)・肯定(こうてい)する一同。横目で伺えば要も参加している。

 ――この裏切り者。

 抗議を声として形成しないのは年長者としての意地だ。もとより蓮太郎の意見には何でも反論したがる天邪鬼な奴だ。愛嬌として受け止めておく。

「そいつは相模太一と言って、お宅らを暴行した高校生とは違う学校で面識もない。つまり嘘を付く必要なんてないんだ。それに、俺自身気になっていることもあったからな」

「気になること、ですか」

「あれをただの自殺死体に見せるのには無理がある」

 いつのまにか、二人も鍋を囲むように腰掛ける。スラックスが汚れると、ブルーシートをすすめる白髪頭の男に構わず、そのまま着席した。ぬかるんだ形跡のある砂だったが、完全に水分を飛ばしているようだ。警察手帳を開くと悠々と音読した。

「七月十五日早朝。井川勇一が死体で発見される。死因は自転車のサドルが脳裏から眼球へと貫通したことによる……何死なんだ? これ」

「刺死……? とにかく変死体ッス」

「そう、とにかく変死体で見付かった」

 まるでコントのように息が合っており、刑事あるまじき優男の二人に更に胡散臭いと疑われる。二人とも好奇な視線には慣れているので気にも留めなかった。

「事件のあったアパートのすぐ傍で月館麻緒がトラックに轢かれた。その事後処理に終われ、井川が発見されたのは翌日。第一発見者はアパートに郵便配達をしていた学生。発見されたときには傷口が腐っていて、蛆が湧いていたようだ。まぁ、真夏の炎天下のなか抉り出された生肉放置してれば当たり前の結果だな」

 アパートは昭和四十年代に建設されたもので、耐震偽造されたものと最近になって判明した。間取りの悪さと正面に建設された新しいマンションのせいもあり、一つの階に七つまである部屋も、殆どがら空きの状態だった。現在は取り壊しが確定し、九月には完全に立ち退かなくてはならない。

「住民がいるのは、一階に二名。二階に一名。三階無しで、四階に一名。屋上のフロアは四階の五〇六号室から上がれる仕組みになっているため、五〇六号室は部屋として使われておらず鍵のかかっていない扉だ。参考までにだが、三〇八号室と二〇八号室の鍵は、五〇八号室の鍵と同じものらしい。そして三〇八号室の鍵は盗難に合っている。とんでもない杜撰管理だ」

「待ってください。一つの階に七つまでしか部屋がないって」

 白髪頭のホームレスが「はい先生」と挙手するように行儀よく口を挟む。いい質問だ、と蓮太郎が頷いた。

「あぁ。言ったな。ここら周辺もそうなんだが、あのアパートは『四』という数字を使っていないんだよ。だから四階は存在しても、四〇一号室は必然的に五〇一号室になる。本来一階といわれるべき場所は〇〇一号室と呼ばれるそうだからな。で、中の階段から上ると各階の八号室。外の螺旋階段から上ると一号室。駐車場から近い中階段を住民は利用するらしい。螺旋階段のほうは、屋根もなければ軋みが激しい。錆と歪みが眼に見えるようになってからは、使用禁止になったそうだ」

 一本目の煙草が短くなり、携帯灰皿にねじ込もうとしたら、先ほどの歯のかけた舌足らずの老人が手を差し出す。くれ、ということらしい。構わず火を消した。新しいものを点火してくれてやれば「ありがたい」と神様を拝めるように禿げ散らかした頭を下げる。

「ともあれ、完全に使えないわけじゃない。新聞配達の青年は、四階から交互に階段を利用して配達するのが決まりだそうだ。……つまり簡単に挟み撃ちが可能な構造なんだ」

 もったいぶらずにそう言えよ、とぼやいたのは要。無視を決め込む。

「おそらく、井川勇一を五〇七号室へ来い、と誰かが誘導し、彼はそこへのこのこやってきた。あらかじめ、五〇六号室に数名。三〇八号室の鍵で開けておいた五〇八号室に数名待機し、一気に彼を落とした」

 その落下先は、不法投棄廃棄物の山となっている場所。たまたまあった自転車に頭部串刺しとなった。……不法投棄の山に落ちれば、たいした高さはなくても確実に助からない。

 半分に折れた竿が空に向かって伸び、むき出しのチェーンソーの刃は錆か血かも分からない色で銀色を汚す。例に挙げたら数え切れない凶器の山は、誰かの悪意を明確に示していた。

「頭のいい方法だよ。まったく」

 髪をかき混ぜるようにガシガシ引掻き、暑さのあまりネクタイを緩めた。要がだらしないと口を挟んだが、彼は最初からネクタイなどしていない。

「見事な推理力ですね」

「そうでもないさ。あくまで現場と情報を練りこんで生まれた想像に過ぎない。井川勇一の体には抵抗した痕も暴行した痕もなかったからな」

 お手上げ、とジェスチャーする要は二本目に手をかける蓮太郎の手の甲をぴしゃり叩く。吸うな、という警告は彼だけに。歯の無いホームレスには何も言わない。二の句を彼が繋げた。

「普通、落とされそうになったら必然的に相手か何かモノに掴みかかるッスよね? そのときに爪の中に相手の皮膚や血・手すりならば錆などが付着することがあるんス。高校男児を柵から落とすのは難しいだろうに、それが無かったんス」

 そこで、と彼らの尻に敷かれたビニールシートを指差す。

「何か、シートや毛布のように覆って混乱させ、落としたんだろう、と推測したわけです」

「証拠は?」

「だから、ありません」

 胸を張って答えることか。叩かれた甲を摩りながら横目で睨んでも、肩をすくめる彼は悪戯をとぼける少年のようだった。

「例え井川勇一の衣服に犯行に行われた毛布などの繊維が付着したとしても、それで割り出すことなんて不可能なんスよ。大体の繊維品は何所にでもある輸入品大量生産ですから。それに、あなたはどうにも頭の回転が速そうだ。犯行に使用したものなんてさっさと撤去したんじゃないですか?」

 褒め言葉、と受け取ったらしく照れくさそうに白髪頭を掻いた。

 一重に妙な刑事達だった。やる気がないわけではないのだろう。だが、ゆるい、というか気だるさ、というか、なんともいえない二人の刑事に警戒心の薄れたホームレス達は狐に包まれたような顔つきだった。

「本当に刑事なのか、あんたたち」

 手ぬぐいをねじり鉢巻にした男は額を掻く。氷水の張った鍋を菜箸でかき回すジャージ姿の男はなにか言いたげだったが開口しない。

 同時に警察手帳を掲げた。

「こんなこと言っちゃなんだが、あんたたちは俺たちをここで一気に逮捕でも検挙でもしないと、逃亡するぞ」

「それはありえない。本気で逃亡する気ならば、今現在此処にいないだろ。それに、今から逃亡を図ったところで只の時間稼ぎにしかならない。無駄な抵抗だ」

 全く優秀だ。菜箸を握った男が茶化すように拍手する。その眼はぎらぎら充血しており、嫌悪が滲み出ていた。思わすその様に眉間に力を込める。男は低く唸るように開口した。

「……ユキジさんが死んだとき」

 ねじり鉢巻の男が止めようと声をかけたが、顔を熟れたトマトのように真っ赤にしたジャージ男は薙ぎ払った。

「ユキジさんが、クソ餓鬼共に火をつけられたとき! お前らサツは、少しも相手にしてくれなかったじゃないか! なのに、相手が餓鬼ならば何をやっていても味方になるのか!」

「やめろ!」

 制止するほかのホームレスを振り払い、蓮太郎に掴みかかるその男は、獣のような俊敏さと眼光をぎらぎらさせていた。

 食いしばった歯列から抜けてゆく二酸化炭素。蓮太郎は乱されたネクタイとシャツを正すこともせずに、軽蔑を露にした眼差しで男の肩に掌をぽんと置いた。

「餓鬼の味方じゃない。被害者の味方だ」

 逆上させるような単語を向ける。要が咎めて声を荒らげるが、悠長に構えたままだった。

「正義の味方気取りやがって!」

 握った拳が飛んでくる。彼はそれを紙一重で交わすと、手首をねじり上げた。ぐうっと獣のような唸り声が上がった。

「この世なんざ、生き残った勝者だけが正義だ。誰が決めたかもわからねぇその下らんものに、俺は従わないね」

 男を解放するとブルーシートに座らせた。手首の痛みに呻き睨むがそれ以上、抵抗しようとはしない。

「何をしに来たんだ、と聞いたな? ――お前らは、六月二十八日に放火された遠山ユキジの復讐で、井川勇一殺害を目論んだようだが、その計画を提供した人物を聞きたい」

 水を打ったように、沈黙が降りる。

「……お前らは『バネ脚ジャッキー』か、もしくは『落下姫』から井川勇一が遠山ユキジの放火をしたと教えられ、与えられた計画に従順に行動したものの……放火魔は別の人間だったことを後に知った。だから、井川勇一に対する罪悪感から逃亡をためらったんじゃないか?」

「ちょっと待ってくださいッス先輩。どーいうことですか?」

 答えたのは白髪頭の老人だった。

「公衆電話からボイスチェンジャーの『落下姫』を名乗る都市伝説に言われたんだ。君たちの復讐したい相手をみつけたよって。そいつを懲らしめないか? って。それで、一人頭一万円でそのバイトに乗ったんだ。もともと、ユキジさんは放火が原因で死んだわけじゃない。火傷も命に別状があるほどではなかった。ただ、もとより肺を悪くしていて、七月七日に肺炎を患っていたことが判明して、搬送された病院で死亡した。直接原因じゃなくても、放火で体にガタが来てしまったんだ。そして、死ぬ間際に言ったんだ。俺に放火したあの学生を許さないって」

 そのため、誰もが「犯人は南高校の井川勇一だ」と口にした『落下姫』を疑わなかった。実際、井川勇一に様々な被害を受けた経験もあるため彼を突き落とすことに誰も疑念や躊躇いがなかった。

「で、どして井川勇一が犯人じゃないってわかったんですか?」

 歯の抜けたホームレスが挙手をする。それが何の意味を示すかわからず首を捻ると、ねじり鉢巻の男が代弁した。

「この男が、ユキジさんの事件が起ったときに目撃し公衆電話で通報したんだが、歯が無い上に舌が回らんからまともに取り扱ってもらえず、交番まで自らの足で出向くことになってな。こいつ、気が短いからあまりに物分りの悪い警察官に殴りかかっちまって公務執行妨害で拘留されていたんだ。だからこいつだけ俺達の起こした事件に関与していない」

「それで、殺したはずの放火魔をたまたま発見し、人違いだと判明したー……。自業自得もいいとことろじゃないですか」

 その辺への同情はない。それ以上に警察の怠慢さが恥ずかしくなった。

 後日、三人分の報酬を持ってきたのは、南高校の制服を纏った少女だったという。彼女にことの全貌を明かしたとき、「私は使われているだけだからわからない」と短く返答した。それ以降、『落下姫』からの連絡は途絶えたままであり、犯人に疑われることもなかった。

 そこまで離すと、言葉をなくした一同の中で白髪の男が頷くと、それぞれゆっくりとした動作で頭を縦にしてゆく。要一人が唖然と口を空けていた。

「……我々の落とした井川勇一は確かにホームレス暴行に関わった少年だった。この、人もね、彼に集団で暴行されたんですよ」

 悔しそうにうつむくジャージ姿の男。眼だった外傷は、現在は伺えないが、相当な恐怖を植えつけられたのだろう。説明の最中に何度もびくっと背筋を緊張させている。

「……あんたらからすれば、汚い老人の、ただの弱者の集まりに見えるかも知れないが、俺達にとってユキジさんは大事な仲間だったんだ」

 蓮太郎はどう言葉を返せば賢明か悩んだが、どんな言葉も安く、意味はないと悟った。肩を抱かれるいる男に頭を下げる。白髪の男はよしてくださいと微苦笑した。

「ユキジさんを放火した犯人ではなく、同じ時期に起こった全く別の事件だということを殺してから気がついた。それでも、井川勇一に対する謝罪は、微塵も、我々にはない。だが……逃げることにも、疲れた。どうせ我々に失うものなどもうない」

 一同が肩を落として、項垂れた。オレンジ色の夕焼けは哀しそうな彼らを咎めるように照らす。疲れきったかんばせの蔭(かげ)がくっきりできた。

 気の毒にも感じるが、あくまで相手は犯罪者である。毅然とした態度を崩さないように、と心がけても溜息が漏れる。要が「自首と捉えるべきですか?」口を挟めば、一同は頷いた。あまりの潔さに二人は面食らう。だが、彼らもまた同じように内心驚いていた。

 いつかは暴かれる真実と感じながら、一秒でも長く動かないまま、息を潜めないまま逃げようと思った。その誓いを踏みにじったのは仲間の裏切りではなく、全員の自首になるなんて。

 この奇妙な刑事にならば、手枷をされてもいいと、それぞれは信用した。短時間の出来事だったがこれまで自分たちを社会のゴミだと虐げ、暴行されてもろくに取り扱ってくれない警察たちとは何かが違うと心から信用することが出来たのだ。

 蓮太郎は静かに、そうか、と眼を伏せる。背広の胸ポケットに手を入れたので、いよいよ手錠を出すのか。一同が息を呑み覚悟を固める。

 ……だが、取り出したのは相変わらずの煙草の箱。

「すまんが、逮捕はあとにしてくれ」

 発言したのは他でもない。刑事課強行犯係警部補の、朝比奈蓮太郎だった。

 そして一番驚愕したのは、そのパートナーである樹要だった。

 Aspect 浅月京助

 オレンジ色の夕日が沈みかけている。さすがに一時間以上歩き続けたせいで足の裏が暑く、すこし痛む。

 距離にして十キロ以上離れている自宅と廃墟ビルだが、実際歩いてみるとかなり遠くに感じることが分かった。

 数日間ずっとある歩き詰めの生活のため足の裏のマメは増えるばかりだ。もとより運動神経は優れているほうなのだが、持続して何かを成し遂げることに経験はない。運動不足の証拠に太腿が若干筋肉痛である。

 急いで帰宅したところで、待っているのは暗い部屋。おまけに冷房器具は未だに壊れたままなので温度は外と変わらず湿度は寧ろ高い。思い出すだけでげんなりしてしまった。

 中途半端に賑わう……繁華街ともお世辞にも言えない飲み屋の通りの傍、裏路地の墓場に差し掛かったとき、背中に何かがぶつかった。何気なく振り向こうとしたとき

「浅月京助さんですね?」

 京助と同じくらいの年齢の、京助より少し高い身長の少年が笑いかけている。どこかで見た顔だと訝しんだ瞬間、腹部に強烈な衝撃が走る!

「ぐぁ!」

 それは少年の膝だった。京助はその場に膝を折ると激しく嘔吐する。

「汚ねぇなぁ」

 頭上から罵声が浴びせられる。本日は朝食しか口にしていないため殆どは黄身がかかった胃液だった。顔を上げようとすると頬を拳で殴られる。そこで合点がいった。

(こいつ、あのときの!)

 歩道橋で京助を取り押さえた三人組。暗さのせいではっきり顔を認識できないが……付け加え京助はものすごく人の顔を覚えるのが苦手なため言い切ることはできないが確かに味わったことのある痛みだった。

「椎木……?」

 後に修二に教えてもらった三人の名前。その一つを噎せながら呟けば「へぇ。俺のコト知っているの」と嘲笑うような返答を浴びせられた。それ以上有無を言わすつもりは無いようで、京助の襟首を掴むとそのまま墓場の中へ引きずられた。

「俺らのことかぎまわるの、ホントやめてくれない? このままでしゃばり続けると俺達なにするか分からないからな?」

 勿論椎木一人ではないようで他の二人も視界に入る。京助にはどちらが信楽で、角田なのかは分からなかったが今度こそ顔を認識した。

「声、出すんじゃねぇぞ」

 にきび面の、信楽良がナイフをちらつかせる。そのときになってやっと事の重大さに気が付いた。

(殺されるかも……。って墓場でかよ)

 京助は信楽の注意がそれ、ナイフが離れる瞬間を見計らうと即座に立ち上がり手音を蹴り上げる! 望みどおりナイフは手元から離れた。しかし背後にいたもう一人の存在……角田巧が横腹に肘打ちを食らわせた。よろけてふらつくと、

「大人しくしろって言っているのがわからねぇか!」

 激昂した椎木に再び蹴られた。石畳に転がった状態で、文字通り袋叩きの暴行が浴びせられる。叫び声など出るわけもなかった。ふいに蹴りや拳が止むと、今度は髪を捕まれ顔を上げさせられる。小さく呼吸する京助の口内に角田がいくつか錠剤を入れた。

「……!」

 苦味に我に返り、吐き出そうとしたがペットボトルが詰め込まれる! そのまま腹に拳が叩き込まれた。その衝撃で無理やりそれらが体内に取り込まれる。液体はスポーツドリンクだった。散々盛大に噎せた後、三人を睨みあげた。

「てめぇーら……何飲ませたんだよ……!」

「ドラッグじゃねーのは確かだ。よかったなぁ!」

 信楽のはしゃいだ声の刹那、背中に電流が走った! それがスタンガンによるものだと察する前に京助は遠退く意識をあっさり手放した。

 七月十九日 海の日 Monday

   前編

 Aspect 志摩里子

 京助の二回目の失踪は里子にとって、勿論修二と太一にとっても予想外のものですぐさま対策本部が作られた。(京助の自宅の庭)

「だーかーらー! なんだっていつもあいつはああなんだ!」

 憤慨した修二は受話器に向かって怒鳴りつける。敷地内とはいえ屋外である為ほぼ公共の場と変わらない。近所の住人が好奇の目を向ける。里子がその場を宥めるがそんなことを気にも留めない太一が受話器越しに

「俺がそんなもん知るかぁあああ!」

 負けじと怒鳴った。

 ぜぇぜぇ息を切らして肩で息をする修二を宥めつつ溜息を付く。そのまま受話器を奪った。

「つまり、太一君のところに京助君を誘拐したって……椎木海斗から連絡があったんだね?」

 眩暈を引き起こしそうなほど、膝がかすかに震えているほど怖気付いている自分を叱咤する。興奮したままの修二にお願いだから落ち着いて! とヒステリックに叫んだ。

「……本当についさっきだ。バネ脚ジャッキーを装っていたんだが、あまりに噂と違うものだからカマかけたらあっさり手の内明かしたよ」

 病院にいるだけあって人目が気になる太一はひそひそと説明する。タオルケットを頭から被っているとはいえ、不審極まりないのでいつ没収されるか分からない状況なのだ。

 一方の里子は携帯電話を手ぶら機能に切り替え傾聴する。

「用件はこの件から俺達全員が手を引くこと。さもなくば、京助の……過去をバラすって」

 息を呑み、顔を見合わせた。

「ありえね……。どんだけ腐った奴なんだよ……!」

「でも、なんで浅月君のこと……」

「……この街に長く住んでいる人間なら気が付く奴がいても可笑しくないさ。事件があってから苗字は変わっているが、ずっとここに住んでいたわけなんだからな」

 眼鏡を外すと、項垂れるように肩を落とす。依然として通話中の太一が続けた。

「正確な居場所の特定はできないけれど。椎木は多分南高校の周辺から電話をかけてきたはずだ」

「なんでそんなこと分かるの?」

「爆竹だよ。この地域って最近鴨が以上に大量発生しただろ? 南高のそばにある製鉄所の機会に鴨が挟まって機械が故障したらしいんだ。それで今日の九時から十一時にかけて何度か花火や爆竹を鳴らすって機能地域放送が入ったはずだ。聞かなかったのか?」

 修二は指で×マークを形成していた。里子も同意である。この市では正午と六時にそれぞれ音楽が流れるようスピーカーが設置されている。選挙のときなどは勿論、放浪癖のあるお年寄りや迷子の放送などに活躍するのだが、長年聞いているせいで特別注意していないと聞き逃すことが多い。

「あと、会話中ほぼずっと踏み切りの音が聞こえた。ダンプカーも何台か通過している。つまり線路と、大きな道路が隣接しているところにいるってわけだ」

 騒音が激しいで有名な南高校には、確かに国道沿いでJR線とローカル線の踏切が一箇所ずつ隣接している。確信するにはたりない理由ではあったがほぼ疑いようがなかった。

「京助は監禁されているのか?」

「いや。そこまでは言っていなかった。でも拘束されている恐れはあるな」

 約束といっても口約束。それも電話を通してだ。見せしめに京助を殺すなんてこと、きっと普通にやってのけるだろう。現に里子は殺されかかったのだから。

「一応、椎木のGPSを探ってみる……。行くのか?」

 おそるおそる、といった感じの問いだった。それを愚問として即答した。

「当たり前だ」

「分かった。無茶するなよ」

「お前が言うな!」

 少し笑って、修二は携帯電話をポケットにねじ込んだ。松葉杖を便りに立ち上がった里子が行こう、と声をかけたとき、表情が曇る。怪訝に首を傾げれば、真剣な面持ちで肩を掴まれた。

「志摩は、残れ」

「え?」

「間違いなく奴らと対面することになる。剣道をやっていたからそれなりに鍛えているとはいえ、お前を護りきれる自身はない」

 きっぱりと、正直に告げた。そのまま敷地内から出る。里子は背中を追いかけて掴み返した。

「なにそれ……。当事者は私だよ? なのに、私だけ、無事を祈って逃げるなんてできないよ!」

「足手纏いだ」

「!」

 一番言われたくない、痛恨の一言。自分が一番自覚して、嫌悪していること。

 強くなければ意味はない。その意地だけで、己を強く保った。それでも強くなんてなれなかった。だから結局、彼らに頼って、彼らと一緒にいる。一人で望んだはずの闇に、いつの間にか自分が一番脚を引っ張っているのだ。

 渋る彼女は、佇んだまま微動もしない。修二は溜息を付くと彼女の顎をぐいと乱暴にとる。そのまま視界に自分を写らせて、軽く頬を叩いた。

 狭い空間にぱしんと音が響く。

 まるで手を合わせたときのように小さく、短く。

「――生き残らなきゃ意味はないだろ」

 呆気にとられた表情の里子の両頬を、包み込むようにしっかり固定した。

「裏切るつもりか」

「え……?」

「お前に命をかけた俺たちを、裏切るつもりか?」

 叩いた修二のほうが痛そうに、哀しそうに歪ませて、強く、抱きしめる。懇願するように続けた。

「お前は護られた分だけ、生きろ。それは義務だ」

 護られるべき存在だから、命をかけて協力した。修二にとってその理由は、友情や愛情という綺麗なものだけではない。それぞれの感情や、醜い思考が渦巻いている。それでも、里子を思う気持ちだけは、紛れもない真実だと胸を張れる。それほど、浅月京助は、相模太一は、小田切修二は単純なのだ。

 背を向けて、今度こそ立ち去ろうとしたとき、後頭部を小突くように殴られた。振り向けば携帯電話を耳に押し当てている里子がいる。

「すみません。タクシーお願いします。えぇ。今すぐ」

「志摩!」

 すらすらと住所を口にする彼女にいつものおしとやかで穏やかな雰囲気はなかった。そこにあるのは気丈で意地悪そうに笑う少女。

「知らないよ。小田切君」

「は?」

「だって、これは志摩里子と高梨杏奈の問題だもの。家族の問題なの。それに、あなた達が足を踏み入れるのは野暮じゃない?」

 呆れた? と肩を竦めて見せた。ただ唖然としている彼に向かって、裏切りにも似た二の句を続けた。

「小田切君の優しさも、常識も、義務も、今の私にはいらないよ。誰が何を言っても、私は行く。自分で過去を殺すって決めたんだから」

 Aspect 浅月京助

 鉄錆びの臭いがする。むせ返るほど、濃い臭いだ。ふと、鏡を見れば、幼い日の自分が写る。

 化け物のように顔を血で汚した自分。

 逃げたくて、頭を振るえば電話の不通音と――声が聞こえる。

「大塚誠二を殺しそうだよ」

 里子の言葉だ。

 実の両親を殺した者に復讐した自分と、実の父親に復讐したがる彼女。

 繰り返される理不尽な暴力は、自分たちに何を齎した?

 鉄錆の臭い。大量の血の海で、あの日自分は一体何を後悔した?

 すぐに逃げようとしなかったこと?

 一人だけ押入れに隠れたこと?

 両親を庇わす震えて逃げたこと?

 一緒に死なず自分だけが生き延びたこと?

 犯人を殺したこと……?

 ――本当に後悔しているか?

「うわあぁっ!」

 視界いっぱいに広がったのは、見知らぬ天井。

 眩暈を起こしたように視界が歪み、脳裏ががんがん殴られたように痛む。自らの叫び声で起きるなど初めての体験だ。憂鬱な脳味噌のせいで悪夢から目覚めた気がしない。

 暑さに項垂れる犬のような荒い呼吸の音が自分のものだと気が付くのにしばし時間を必要とした。胸元に掌を置けば今にも飛び出しそうなほど心臓が異常な活動をしている。

「随分項垂れていたでありんすなぁ」

 頭上から降りかかるその声は聞きなれないものだった。京助が無理やりに上体を起こそうとすると体中のあちこち……特に腹部から痺れのような激痛が走る。

「無理するな。体中三毛猫みたいになっているでありんす」

 京助の視界いっぱいに広がったのは椅子とテーブルとカウンター。素人目にも高価だと分かるアンティークなつくりのものが敷き詰められ、異空間のような場所。紅茶と何かの香水の香りが妙に落ち着かせる。

「はじめまして、だな。浅月京助」

 黒衣を纏う、長身で色白の美人な女は京助の被っていたタオルケットを剥ぎ取った。制服のシャツは何故か前が完全に肌蹴ており――なるほど、確かに三毛猫柄。

 青く変色したところと、赤く腫れ上がったところ。随分賑やかじゃないか、と笑いかけてくる女につられて自分も笑った。

「ありえねぇー」

「薬はこれでも塗ったし、十分冷やしたんだがな」

 ほっそりとした長い指が体中をまさぐるように触れてくる。女性に普段衣服に包まれているようなところを触れられるなど未体験だ。羞恥とくすぐったさに身を引いた。

「あー、すんません。……えーと」

「名前? 唐沢黒奈だよ。浅月京助。朝比奈蓮太郎の自称親友だ」

 美人なのに変な奴。その印象はおそらく間違っていないだろう。

「お前が墓場てくたばっているところを鏡友花っていう娘が保護してね。何故だか知らんがここまで引きずってきた」

「あのー。此処は?」

「外見りゃ分かるよ。墓場の真裏なんだ。あと、これが落ちていたでありんす。――運がよかったね、浅月京助」

 妙な喋り方……間違ってもただの郭言葉ではないそれを使う黒奈が見せたのは青いラベルのスポーツ飲料と薬の銀紙だった。

「何錠飲まされたのかは知らないし、市販の睡眠薬だが……。吸収がいいスポーツ飲料で嚥下すると眼覚めないことがあるからねぇ」

 彼女はけたけた笑っていたが、背筋が凍りつくような事実だ。頭痛はこれが原因か、と溜息を付く。当分スポーツ飲料は口にできそうにない。

 立ち上がるのにかなりの時間を必要とした。だが脚はいためてないようである。安堵しつつ扉を開けば見慣れた駅が傍にある路地だった。

「椿屋?」

 何度かこの店の前を通過したことはある。重々しい扉と独特の雰囲気のせいで横目に見る程度だった。改めて店内を見回す。ちょうど中心部分に自分が寝かされていた白い布団があった。

「ありがとう……ございます」

「いいよ別に。迎え、読んどいたから。今に来るだろうよ」

「あの、鏡友花とは知り合いなんですかー?」

「いや。昨日が初対面」

「……」

「だが私は、お前のことは知っている」

 煙草を咥えた黒奈は意地の悪い笑みを浮かべた。それがどういう意味か分からないほど京助も間抜けではない。

「そーですか」

「病院に行きたきゃ自分で行きな。私は車を持っていないし、救急車を呼ぶつもりはない。おそらく鏡友花も同じ考えだったんだろうね」

「は?」

「あの子、今自分のことで精一杯でお前にかまっていられないんだよ。もしくは、自分の敵になるかもしれないお前を助けたくなんかないんだろうね。……理性ってやつが放置するのを否定したみたいだが」

「あんた一体何を知っているんだ!」

 京助が詰め寄ろうとした瞬間のこと、外に車が止まる気配がする。そしてクラクションが鳴った。

「迎えじゃないか?」

 まるで魔法のようなタイミングだった。唖然としている京助にシャツを一枚投げる。

「汗だくで気持ち悪いだろ? 私のものだが、お前の身長ならば着られるよ。……行きな」

 それだけ伝えるとカウンターの奥に姿を消した。不明瞭なことが多すぎるあまり、苛々する。だがここで意地自棄たところでなにも始まるわけではない。制服を脱ぎ捨て糊のきいたシャツを羽織った。

「……ありがとうございました」

 重い扉を開けて、曇天の空の下へ。其処にはシルバーのミニバンがあり、樹要が待機していた。

 Aspect 小田切修二

 一階の職員便所の窓から侵入した修二と里子は多目的塔二階の国語資料室で息をひそめていた。しんと静まる休日の学校は明るくても君が悪い。時々聞こえる爆竹の音が心臓に悪かった。

 修二は自分の服装と里子のものを見比べる。たまたま二人とも制服を着ていた。南高校のものを事前に入手しておくべきだっただろうか、としばし後悔したが潜入するなど思ってもいなかったことなのでしかたがない。

 四階建て校舎の学徒塔と呼ばれる南側の棟。渡り廊下で各階繋がっている、特別塔と呼ばれる西側の棟。そして多目的塔と呼ばれる北側の棟。コの字を描くように建設されており、広い中庭とサッカー場・野球場・陸上トラックが別々に存在する。県立高校にも関わらず、ものすごい待遇で設備の充実さは報道機関に取り上げられるほどであり、部活動等の形跡も群を抜いている。

 今はどこの部活動も活動していなかった。当たり前といえば当たり前なのかも知れない。この学校だけで、三人もの死者が続出したのだから。

「太一からの連絡だと、最後にGPSが確認したのは此処らしいんだけれどな」

 そもそもハッキングなんてできたのか、と驚いている。軽犯罪など絶対繰り返しているとは感じていたが、実際こんな場面になると頼れるのは太一しかいなかった。

 国語資料室室には鍵がかかっていたので扉のガラス或を里子の松葉杖で叩き割った。だが中には人の気配もなければ何かを隠せるような場所ではなかったのである。

「太一から連絡はないし……」

 このままどうしようかと部屋を出たときだった。

「小田切君!」

 切羽詰まった里子がパニック状態で手招きする。ほとんど声になっていない状態だった。異変は修二もすぐに感じる。

「誰か」

「あぁ、いるな」

 目配せで会話すると、里子は松葉杖そっちのけで右足を庇いながら駆け出し、片端から教室の扉に手をかける。

「駄目だ……全部鍵がかかっている」

「何でこんなに整備がきっちりしているのよ、盗まれるものなんてどうせないくせに!」

 畜生! 涙をためた瞳の彼女が三つ編みを振り乱す。

 やはり警察を頼るべきだっただろうかと考えたとき、唯一鍵のない場所を閃いた。

「便所……。志摩、一端隠れるぞ」

 十一時を過ぎて、爆竹が止んだ。廊下も階段も静けさでつつまれ、学校の外から聞こえる蝉と蛙のみが合唱する。ひどく蒸し暑かった。窓を見上げれば、曇天の鬱々とした厚い雲がなおのこと不機嫌そうに空を覆っている。

「ホラー映画にでも迷い込んだ気分だよ」

 里子は恐怖に震える膝を失態する。修二が何度か声をかけてくれたが、足手纏いにならない為にも気丈に振る舞い続けた。散々パニックで吹き出た冷や汗のせいで体は相変わらず上気している。蒸し暑さに汗が滴し、湿度の高さにげんなりした。

 少し、いやかなり離れたところからだったが、確かに足音がした。湿度で湿った廊下はきゅきゅっと音が成りやすい。響いているそれに気遣いつつ、便所を目前にしたとき里子の視界は揺らいだ。

「えっ……」

 何が起こったのかわからないまま、振り向けば

「また、お前かよ」

 そこには、少年がいた。

 茶色に染め上げられた短髪。浅黒い肌。背丈は修二よりも小柄だが、京助よりは体つきがよい。見覚えのある彼。体感したことのある感覚。そうだ、自分はこのようにふいを付かれて落とされたのだ!

 咄嗟(とっさ)に松葉杖で応戦する。彼は里子の後頭部を殴りつけたようだった。だがその一発で意識が遠退くことはない。構えた松葉杖をバットのように構えてスイングする!

「う、わっ!」

 まさか反撃されることは想定外だったのか、反応が遅れ腹部を殴打。里子自身、始めて人を殴った感触に戸惑い、手に残る衝撃のあまりひるむが、

(やらなきゃ、やられる!)

 己を懸命に奮い立たせた。恐怖のあまり膝が笑っている。ギプスに覆われた右膝は痙攣(けいれん)している。それでも背中を向けなかった。もう一度、と構えた刹那、足元に修二の肢体が滑る。

「逃げろ志摩!」

 額を押さえる彼の目の前にいるのは大きな瞳をぎょろぎょろとさせる少年。明るい髪を立たせた彼が、信楽良であることは一目瞭然だった。

 立ち上がった修二は眼鏡を正すと、里子を渡り廊下へ繋がる方向に押しやった!

「行け! こうなったらもう警察呼ぶぞ! 刑事課強行犯係の朝比奈蓮太郎を要請(ようせい)しろ!」

 握った拳を正面から繰り出す! 間一髪で避けた信楽だったが、バランスを崩して尻餅をついた。豹の如く恐ろしい俊敏さで隙を狙おうとするが、背後にいた少年にタックルされる。

「角田ァ! お前はあの三つ編みを追え!」

「分かっている! 助けてやったんじゃねーか!」

「頼んでいネェよこの童貞野郎!」

 体制を立て直したのは同時のことで、信楽が修二に飛び掛るより先に角田に背後から回し蹴りを食らわす。背骨に衝撃を受けてバランスを崩した角田はコンクリートに崩れ落ちた。

「誰が行っていいなんて許可した」

 冷静なまま、彼の腕を全体重で踏み躙る! 耳を塞ぎたくなるような嫌な音。角田は思わず悲鳴を上げた。

 ハイテンションで何をしでかすか分からない信楽よりも、ろくに喧嘩をしたこともなさそうな銀縁眼鏡の美少年は、的確に急所を狙う。

「野郎!」

 修二は紙一重で信楽の拳を避ける。ふらつく足元。最初の一撃で頭をぶつけたことは意外と響いているようで、視界が揺れている。酷い吐き気がした。

 前髪を掴まれ、そのまま膝蹴りを腹部に与えられる。その隙に立ち上がった角田は既に姿の見えない里子を追い始めた。それを制止しようと腕を伸ばすが、信楽に再び蹴り上げられる。

「う、ぁぁああ!」

「ハンデがなければ、お前もっと強いんだろ?」

 心底楽しそうに笑いながら、血まみれになった修二の顔面に唾を吐き掛けた。胸倉を掴み上げ、首を絞めるように見上げさせる。

「的場よりは楽しめそうだな」

 やっぱりお前らか。

 それは言葉にならなかった。余裕を感じて饒舌(じょうぜつ)になった信楽の腹を脚の底で蹴り上げ、間合いを取る。

「げほ、げほっ……。……楽しむ? 馬鹿いうな」

 血の混じった唾液。それを嚥下した。うずくまる信楽の顔面に吐きかけてやろうかとも思ったが、下品だと己を嗜(たしな)める。ちょうど鳩尾(みぞおち)を蹴り上げた為、苦しむ彼は酷く噎せていた。ぎらぎらとさせる眼球が修二を捉える。まるで獣のようだった。

 ――血に飢えた獣。上等だ。

 恐怖はない。寧ろ、この異常を楽しめるくらい、リラックスしている。アドレナリンが止めどなく分泌されているようだ。

「かかって来いよ。気が済むまで相手してやらぁ」

 

 Aspect 浅月京助

「は?」

 耳を疑ったのは京助ではなく、太一だった。

「だから、俺は拉致られてなんかいねぇーよ! フルボッコされたけれど! 鼻血出しすぎて貧血になるくらい殴られたけれど!」

 状況が掴めないのは互いのようで、困窮のあまり声音が荒々しくなる。

「太一。お前のところにあった電話、全部嘘だ」

「マジかよ! 修二も里子もお前探しに南高に行ったぞ!」

「要さん! 方向転換! 病院じゃなくて南高校までマッハよろしくー!」

 ミニバンを運転していた要は一瞬何のことかわからなかった。ただ形相に怖気て「わかった」と安易にこくり、雰囲気に任せて頷いてしまう。少し煩いエンジン音とガソリンの臭いを充満させた。

「つーか。京助は今どこから電話してんの。これ誰の携帯番号?」

「イケメンの刑事さんとデートちゅーだ。 んじゃ、また欠けなおす。樹要で登録しとけ!」

 一方的に切ると要に戻した。太一の事故があまりに不可解なものだった為、念には念を、と彼の携帯番号をたまたま要が控えていたのである。

「……必ず終わらせねぇーとな」

「え?」

「わかった気がするんですよー」

 タイヤの跡がアスファルトに刻まれるくらい荒い運転で国道まで突っ走る。対向車が来たらお互い間違いなくお陀仏であろうスピードで裏路地を突っ切った! 覚悟をしていなかったため、京助は顔をガラスに思い切りぶつけ潰れた蛙のような奇声を思わず上げる。

「シートベルトしろッスよ」

「今このタイミングのどこに、する暇がいつあったんだー!」

 大体時速何キロだ! 抗議しようとしたが、スピードを緩めず右折を決め込んだので、今度はフロントガラスに向かって肢体をつっこみそうになる。咄嗟にダッシュボードを蹴るような体制を作って耐えた。「足跡!」指摘されるが「知るか!」迷いない即答。くっきり残ったその跡を掌で振り払い消した。シートベルトをやっと装着できた頃に、国道を走行する。普通の乗用車の一員に加わわった。

「で、なにがわかったんだ?」

 要が怪訝に首を捻る。だが、踏み切りの傍を目前に急停車した。フロントガラスに再びたたきつけられそうになるが、シートベルトに支えられる。

「今度はなんだよー!」

 要に抗議しようと運転席に向き直れば、呆然と前を捉える瞳。京助の角度からは伺えなかったが、身を捩ってみると信じられない光景が視界に写る。

「……事故だ」

 赤い車が民家の塀に激突し、蜘蛛の巣状態になったガラスが当たり一面に散らばっている。後部座席を突き刺すように突っ込んだ軽トラックと、トラックの荷台に噛み付く自動車。計三台の玉突き事故だ。

 凍結したアスファルトでもないし、自然災害に悩まされるような場所でもない。見通しが悪いわけでもない。それが異常に腹が立った。この忙しいときに、何故玉突き事故など起る! 理不尽な憤慨とわかりながらも耐えられず、京助が舌打ちを。

「畜生が!」

 要はハンドルに拳を打ちつけた。凄まじいクラクションが唸ることは言うまでもない。

 急にブレーキを踏んだ要のミニバンは、ギリギリ前方の車と衝突するのを避けた。後方も同じように急ブレーキを踏む。注意していればそんなことにはならない。要に抗議・反感・悪態・怒声が向けられたことは言うまでもない。普段は温厚で人を食ったような笑みを浮かべていたりしても、怒り焦りという衝動に駆られたときは人格が変わるようで

「うるさい! こっちは急ぎだ!」

 怒鳴り返す。紛れもなくただのチンピラのようだった。

「あんたが悪ぃーよ」

 何をどうひっくり返しても前方不注意だ。五歩先に気をとられて、足元の穴に勝手に嵌るのと同じようなこと。呆れた京助は冷や汗を拭った。あぁ、と小さく嘆き周囲を見回す。

「走れ、浅月京助。此処からなら全速力で五分だ」

 搾り出すような声音で呟いた。額を掌で覆っている。

 ――わかっている。

 全速力で走ったところで、十分以上は見積もる距離。鯖読(さばよ)んだ五分は慰めである。京助があたふたとシートベルトに手をかけたとき、ロックが解除された。

「サンキュー!」

 弾丸の如く飛び出し、疾風のように駆けた! 突然開かれたドアに通行人が迷惑そうに顔を顰めたが、かまわず乱暴に閉める。

 踏切が遮断される。だが構ってなんていられない!

 迷わずに黄と黒の縞模様ポールをハードルのように飛び越えた。事故の野次馬や通行人をはじめ、周囲がどよめく。後ろ指差されようとも関係なく、線路を駆け抜けた。

「京助ぇええ!」

 反対側のポールを飛び越えたとき、要の大乗音(だいじょうおん)が轟いた。そして、ひゅっと風を切る音する。

「!」

 目にも止まらぬ速度で何かが飛んできたのである。それが何かもわからなのに、掌で覆うようにしかと受け止めた。

「……これ」

 黒塗りの、飾り気のない携帯電話だ。眼を見開いてそれを見比べる。

「持っていけ!」

 その声は電車の轟音に被せられる。だが、確かに耳に届いた。要の姿は通過する電車に遮断される。凄まじい温風。髪が乱され、眼を細めた。ワイシャツの裾と襟が白旗のようにひらひらはためく。

 なにか、大きな決心を固めたように、携帯電話を開けば朝比奈蓮太郎の文字があった。

 制服のスラックスで眠る、白い静寂の携帯電話を確かめる。京助は祈るように右手首を握りしめた。

 今すぐに行く。だから、頼むから。生きていろ。

 Aspect 志摩里子

 息も絶え絶えに里子は走る。

 握り締めた松葉杖と桃色の携帯電話。今自分のいる場所すらわからない。だが電波は届くようだ。しかし、今度は連絡を入れる余裕がない。

 右膝はとうに限界を超えている。もう痛みなど無い。ただとろとろ血が体内であふれ出しているような、凄まじい熱を帯びている。まだ走れる、まだ走れる。己を奮い立たせるアドレナリンは基準値から決壊しているようで、笑い出しそうな、狂いそうな自分を嗜(たしな)めた。

 三つ編みが好き勝手に暴れ、スカーフのないセーラー服はひらりひらりとはためく。学校に踏み入れるのだから、と一応それに身を包んだのだが、七月十日事件当時に来ていたものではなくリサイクルショップで買い直した物だった。両親は怪我について心配もしなければ追求もしない。彼女が自殺である疑いをかけられたことに関して、誤解は無い。基本的に興味がないのである。

「でも、さすがに今回は怒られるかもなぁ」

 高梨杏奈と志摩里子は母親の浮気、または強姦の末生まれた望まれない子供。

 血の繋がらない父とのわだかまりと、母からの痛ましい眼差し。何も知らない弟だけが支えだった。

 病院通いは決定的。……もう面倒くさいと、今此処で全てを投げなければの話であるが。

「絶対、諦めてなんかやらないけれど!」

 長い廊下を何度も転げそうになりながら進み、一階の学徒塔まで着くと背後を伺う。まだ誰も追いついてきていない。しかし足音は確かにする。咄嗟に近くの教室の扉にしがみ付くが、南京錠がかけられており、開かない。

「なんで……!」

 どの教室にも重々しい、金色のそれがぶら下げてあった。檻を連想させる無機質な金属はおそらく盗難防止のためなのだろう。パニックに陥りそうな自分を深呼吸で落ち着かせると、松葉杖で南京錠を殴りつけた。

「早く!」

 大きな音を立てて変形する。扉が悲鳴を上げるがびくともしない。痺れる掌。痛む腕。打撲から開放されたばかりの左腕が痙攣しそうだが、構わなかった。何度も何度も殴りつける!

「ひらけぇええ!」

 懇願の叫びと、追ってきた角田に発見されたのは同時だった! そして衝撃に耐えられなくなった扉が外れたのも刹那のこと。

「てめぇ! 待ちやがれ!」

 振り返ることはしなかった。里子は教室に入ると震える左手で窓の鍵を外す。上手く力が入らなかった。自らを叱咤して解放する。しかし教室に踏み入ってきた角田が里子めがけて椅子を投げた!

 凄まじい音を立てて窓ガラスが崩壊する! 

「きゃぁあああ!」

 思わず頭を屈めて叫んだ。椅子は的をそれており、当ることは無かったがガラスの破片を浴びる。いくつかの破片で皮膚を切り裂かれるのを感じながら、ひたすら恐怖するしかない。それでも、なんとか這い蹲るように立ち上がる。

「お前、何なんだよ」

 拳で頭を思い切り殴られる。床に肢体が滑った。今度は破片が制服に突き刺さる。痛みに耐えることができず、叫びを上げた。

「高梨杏奈がそんなに諦められないのかよ」

 あんな女の何がいいんだ。角田は里子を仰向けにするように蹴り飛ばすと、胸を踏みつけた。

「あぐ……!」

「父親に最後まで強姦されて死ぬなんてな、可愛そうに」

「う……ぁ……?」

「どうせ、知らないだろ? あの女、死んでからも犯されたんだぜ?」

 虚ろな視界のなか、角田の輪郭を捉えることはできない。

「大方、あの女も楽しんでいたんだろうけれどな」

 その言葉のあと、すうっと何かが消えて頭が酷く冴えた。

 里子は、手足をじたばたさせて抵抗することを止める。ただ降参したというように、だらりとさせて、両手を広げる。角田はその異変に気が付くことができないまま、続けた。

「売女が」

 刹那のこと、大きなガラスの破片を握りしめた里子が、角田の踝に思い切りそれを突き刺す!

「ぎゃああっ!」

 胸の上で血飛沫が上がった!

 発狂とともに心臓を踏み潰されそうになるが、か細い脚をふんばじって体をスライドさせた。床に彼を倒した後、盛大に噎せる。

「げほっ、ごほっ!」

 血の味がする唾液を零した。胃液に似た苦味掛かったそれも吐く。松葉杖を拾い、何とか膝に力を入れたが、何度も転げる。右足が熱い。体中が痛い!

 額から溢れる血が視界を遮っても、それを拭って窓を再び目指す。ガラスの割れていない窓の鍵を開放して、其処から外へ身を投げた。

「くぅっ!」

 左膝だけで重心を支えた為、痺れが残る。四つんばいになりながらも、何とか校舎内から脱出した。

「ま、て……!」

 もうここまで来たら執念(しゅうねん)なのだろう。真っ赤な顔をした角田が鬼のような形相で里子を睨み、窓を飛び越える。窓枠から地面はたいした高さではないが、ガラスで切り裂かれた踝から血が噴出した。里子か噎せつつ、ずるずるアスファルトを這うが、それよりも早く、ひしゃげたような踝(くるぶし)を引きずった角田が追いついて襟首を締め上げた。

「いやぁあ!」

「死ね!」

 懇親の力で暴れても、首に巻かれた手は骨を粉砕するかの如く力を込めている。酸素が頭に回らない。苦しいかどうかさえわからない。視界が白く染まってゆく。

 ――もう、だめだ。

 それでも泣かなかった。角田を睨み続けた。手に、腕に、爪を食い込ませては切り裂くように引掻いた。生きる為、生き残る為!

「死ねぇえええ!」

 厚い雲と夕焼けの色をうっすらと侍らした空に、――破裂するように鮮血が踊る。

(……え……?)

 ゆるゆると開放されてゆく。アスファルトに体を打ち付けるように倒れると、赤い雨を浴びた。

(なんで)

 生温い。鉄臭い。人間の中で暴れるように巡っているもの。誰もが持つその鮮やかな深紅。美しすぎるほどの赤。

(私)

 里子はそれを血液だと最初から認識していながら、肯定しない。

 そんなことがあるはず無い!

 どさっと、自らに覆いかぶさるように倒れてきた角田の肢体。思わず甲高い悲鳴を上げて、振り払った。

「いや、いやぁあああ!」

 ずるずる後ずさり、花壇に衝突する。もう噎せることも忘れた。マラソンの後のように上がった呼吸と心拍数。吹き出た脂汗。胸の辺りの襟をぎゅうと抱きしめて、角田を後ろから刺した人物に恐怖した。

「えーと、あーと?」

 聞きなれないその口調。先日初めて聞いたばかりの口調!

「大丈夫?」

 履き鳴らしたスニーカーを、踵を潰して履いている。襟ぐりにラインの入った、南高校の制服を着用した細身の体。グレーのパーカーを羽織って、真っ赤な包丁をぶら下げた彼女は里子を見下ろす。

 サイコロのヘアゴムでサイドテールに結い上げた鏡友花は、濁った瞳を里子に向けて、ゆっくりと告げた。

「……えーと、あなたは、私の邪魔を、するのかな?」

 Aspect 朝比奈蓮太郎

 任意同行を求める、という項目で蓮太郎は椎木海斗を始め、信楽良や角田巧の自宅を転々としていた。薄々予測していたことだったが、彼らは自宅におらずろくに帰っていないという情報を何度も確認するばかりで収穫は無い。落胆のあまり溜息を付いた。京助を向かえに行かせた要に連絡を入れようと、携帯電話を取り出したとき、ちょうどそれは振動している。

「……非通知?」

 怪しみ、眉を顰めると警戒しながら耳に押し当てた。

「サァ、ゲームノ始マリダ。愚鈍ナ警察諸君。犯人ヲ止メテミタマエ。奴ラハ殺シガ愉快デタマラナイ。人ノ死ガ見タクテショウガナイ。汚ク生キ恥ヲ晒ス全テノ大人二戦線布告スル」

「……おい」

 どこかで聞いたことがあるフレーズだ。そして安っぽいボイスチェンジャーに眩暈がする。

「……模倣犯か。てめぇは」

「オヤ、私ガ誰かオワカリカ?」

「一世を風靡(ふうび)する都市伝説。俺に言わせればピカレスクロマンに酔っ払うクソ野郎。『バネ脚ジャッキー』だろ?」

 耳障りな笑い声がしばし流れた。おいと静止をしても関係ない。天真爛漫(てんしんらんまん)を思わせる相手は、まるで少女のように無邪気だった。その笑い声はボイスチェンジャーではない。

「よう、蓮太郎」

「……黒奈?」

「おう。ボイスチェンジャーだからと言って、『バネ脚ジャッキー』とは限らんでありんす」

「何やってんだこのクソ忙しいときに!」

 おおよそ受話器の向こう側で、楽しそうに笑っているのだろう。唐沢黒奈のにやにやと口元を歪める美しいかんばせを思い出し、蓮太郎はがしがし頭を引掻いた。

「なんだ。犯人候補の自宅へ出向いたはいいが、何もできずいじけたタマ無し野郎の分際で私の声を落胆と受け取りやがった分際で」

 何故それを。まさか発信機でも体に埋め込まれいるのでは、と寒気が走る。そのことを問い正したところで、おそらくのらりくらり交わされるだけだろう。あえて指摘は回避した。

「……知ったこっちゃあるか。てめぇで体張って何もできない、引きこもりのタマ無し野郎の悪態なんざ耳に入れても痛くも痒くもねぇ」

「タマなんて生まれたときからないでありんす。そんなもんぶら下がっているヒト科のメスなんて異常でありんしょう」

「魂の意だっつーの!」

 思わず携帯電話を握る力が強くなった。

 冗談なのか本気なのかは分からないが、どうしようもない低レベルな下ネタである。

「で、何をしても空回りで高校生に助けられないと事件解決なんてできなそうな役立たずの朝比奈蓮太郎」

「警官侮辱罪でしょっ引くぞ」

「おっさんの分際で繊細でありんすねぇ。センチメンタル気取りやがってキモチワリィな」

「最近の警察はみんなガラスのハートなんでね。ざまぁみやがれ。一回二回司法解剖に立ち会わせただけで靴の中に画鋲仕込むくらい意地が悪いぞコノヤロウ」

 ――それはお前が嫌われているからだろう。全く、この男は面白くてしかたがない。これでいつも真面目で本気なのだから生粋の変態だ。

 癖になる不毛のやり取りではあるが、終止符を打とうと閑話休題を切り出す。

「南高校に向かえ。そこに……今日は出勤する予定のはずだ」

「はぁ?」

 彼女らしくない不明瞭な物言いに違和感を覚える。しばしの沈黙の後、苦虫を噛み潰したような、嫌悪に満ちた声音で開口される。

「……大塚誠二を知っているか?」

「高梨杏奈の担任……か?」

「そうだ、旧姓、高梨誠二」

 それが何を意味するのか、察せない蓮太郎ではない。唖然と絶句する数分の時間も与えることなく黒奈は続ける。

「蓮太郎。高梨杏奈の児童ポルノ騒ぎの件。あれは本当に彼女自身が望んだことだと思うか?」

「……父親に強制された?」

「可能性がないわけではないはずだ。それと、もう一つ。確認したいんだが」

 蓮太郎は車をスタートさせた。良く先はもう、決まっている。信憑性はない話だが、黒奈は合理性だけを優先させる、いわば機械のような女だ。無意味なことを好むとは思えない。

「事件のあった日。七月一日にあの男のアリバイは成立しているのか?」

「あぁ。近所の飲み屋で同僚と一緒にいたはずだ」

「……それは、彼女の死亡推定時刻と発見時刻を元にして、あの廃ビルで絶命したことを想定して割り出した時間なんじゃないのか?」

 眼を、思わず見開いた。頭の中で渦巻く謎が整理されていく。そう、根本的なことを疑っていなかった。アクセルを蹴り飛ばすように踏み込み、加速する。パトランプを装着すると蓮太郎はハンドルを強く握り締めた。黒奈の声に重ねて低く唸るように呟く。

「本当に、高梨杏奈はあのビルから転落して死んだのか?」

 Aspect 小田切修二

 モップの柄を握る修二は皹の入った眼鏡を正す。視界が悪い。だが眼鏡がなくなるよりはましだ。修二にとっては命綱みたいなものなのである。

「……南京錠ばっかりじゃないか」

 盗難被害の続出と、今回の転落事件を重んじている南高校の教員が、休日は各教室に南京錠を着ける、という法令を出したことは聞いていた。しかしそれが本当に実施されているとは思わなかったのだ。

 巨大な高校の全ての教室。一体いくらかけただろうか、と総額が気になる。実際どうでもいいことなのだが、くだらないことに集中を向けないとプレッシャーに押しつぶされそうになるのだ。

 殺し合う様な殴り合いなど無論初めてのこと。全身のあちこちが痛む。特に最初に殴られ、廊下のコンクリートに打ち付けた頭部が一番酷い。瘤ですむといいのだが、わずかな頭痛があまりに長い時間継続しているので期待できそうにない。

「窓ガラス」

 割れる音がしたが、大丈夫だろうか。いたるところから外を伺っても様子が見えない。逃げ切れるかどうかは正直怪しい。しかし、今此処で里子の元に駆けつければ信楽良も引き連れることになる。

「あれは」

 ただの獣だ。正直感じた恐怖に身震いした。ただの馬鹿かと思いきや、とんでもないケダモノだったのである。

 血に溺れ暴力に愛された少年。あれほどに楽しそうに拳を握る男を、修二は知らない。

 息を整え、緑色の、物干し竿のようなモップの柄を二・三度素振りする。竹刀よりも細く、握り心地が悪い。脆いし、長さも異なるので間合いも計りにくい。だがしかし、贅沢など言っていられる状況にない。武器があればこっちのものだ、勝機はある。

 信楽は痛みに怯まない。一つ一つの動作に殺気と享楽が滲んでいる。つまりは殴り合いを根っから好んでいるようなのだ。

「まったく、その凶器に匹敵する拳を生かし、ボクサーを目指せ」

 有効活用を教えてやりたいものだ。殴られた箇所の皮膚の変色は著しい。

 正直、信楽のような常識と道徳のない人物相手では武器や防具どうこうは問題ではない。場数・経験に大きく明白な差が生じていることが明白なのだ。

「こういうときは、三十六計逃げるに如かず、ってな」

 多目的塔の構造は学徒塔などと異なり、階段は中央にしか設置されていない。外に取り付けられている非常階段もない。その上何故か四階にだけ渡り廊下がなかった。どちらにせよ、信楽のいる階段を使用しなくてはならない。最大限に集中し、息を潜めた。そっと様子を伺うと一目散に屋上へ向かって駆け出す! 

 ふらつく体を壁に伝わせた。這うように登る。下から追いかけてくる気配を感じ、肩口から振り返れば

「ご苦労だな。小田切修二」

 正面から突き飛ばされる。バランスを崩し、階段から転げ落ちた!

「ぐぁあ!」

 四階踊り場に体躯を叩きつけた! 大きくぐらりと揺れる視界。口内に広がる血を唾液と共に口の端から零す。背骨に伝わる激痛に大きく呻く。

「お前の考えることなんて手玉に取るようにわかるっつーの。学徒塔に設置されている非常階段に目をつけたんだろ?」

 人は、自分が優勢になると饒舌になる。ぺらぺらと湯水の如く喋りだす少年は、血色の夕日をシルエットに屋上の扉の前に起立していた。開放されていることから、どうやら待ち構えていたらしい。南高校は学徒塔も多目的等も特別塔も渡り廊下で繋がっているのだが、屋上同士ほぼ隙間無く並んでいる。その気になれば簡単に飛び移ることが出来るのだ。

「お前の考えと同じように、俺は学徒塔の非常階段を登ってきたってわけだ。ついでに言うのならば、屋上の鍵は内鍵だからな。閉じ込められることはありえないようになっている」

 信楽にばかり気に取れ、生じた誤算だ。

「椎木海斗!」

「ご名答。俺の名前、覚えていたんだな」

 黒地に銀色の英字の入ったTシャツ・制服のスラックス。細い体の線が強調される軽装だが、大人びたかんばせを最大限に引き出させている。相変わらずの伊達男(だておとこ)だが、意地悪そうで嫌味の尽きない彼の性格を知り尽くしている為、ただの嫌な奴でしかない。

「悪いが浅月京助はここにいないぞ」

「な!」

「今頃墓場で寝ているんじゃね?」

 読みをしくじったことに舌打ちすれば、尚もニヤニヤしている椎木は楽しそうだった。

「それにしても……関東大会で顔合わせした相手は忘れないってか」

 竹刀を掌でぱしんぱしん叩きながら、頬をにぃっと吊り上げて笑った。

「いいや、違うな。お前は一度も俺に勝ったことが無かったから、悔しくて記憶から消えないのか」

 嘗ての、中学時代のライバルではあったが、切磋琢磨(せっさたくま)できるような相手ではない。ただ互いを叩きのめすことしか考えることはできない。剣道の防具を貫く勢いで殴りつけ合った。

「……竹刀を凶器にするな」

 ふらふらと立ち上がるが、視界がぼやけている。眼鏡がどこかに消し飛んでいた。

「モップの柄を構える野郎がよく言うな。形は剣道のものだろうに」

 ぼやける視界。ふらつく体。それでもモップの柄を椎木に振りかざす。それよりも早く、彼は鳩尾のあたりを狙う。間一髪状態を反らしたが胸を掠めた。

 一度も、彼との勝負で勝利を手にしたことは無い。だが、根拠の無い確信を抱いた。この大きなハンデも今は関係ない。今ならいける! 

 しかし、左のわき腹にとんでもない衝撃が走る!

「痛ぁあっ!」

 鈍く輝く鈍らの金属バットがそこにある。いつの間にか追い付いた信楽に撃ちつけられたのだ。ずっしりとした重みと電気を流したような痺れと熱が、全身に迸る。倒れる体躯は、まるで自分のものではないように言うことを聞かない。体の器官、全てが麻痺したようだった。

「ひゃはは! もう一発!」

 続いて右脛(みぎすね)に振り下ろされる! あたり一面に響き渡った阿鼻叫喚(あびきょうかん)。同時に、大きな笑い声が登る。

「死ね!」

 ギロチンのように再び振り落とされる金属バット。それは空間をも遮断する勢い!

 ――それが修二のかぶりに振り下ろされなかったのは

「やめろ」

 熊のようにずんぐりとした体系の、ジャージ姿の男がバットを空中で掴んでいたからだった。

(……誰だ?)

 修二は体躯を廊下と平行に滑らせて三人と間合いを計る。立ち上がることは出来ない。這い蹲るように後ずさりをした。唖然と男を見つめる二人は、口をそろえて大塚先生、と呪いの言葉であるように呻く。

「……大塚、誠二?」

 その男が高梨杏奈をはじめとする、担任教師であることは咄嗟に機知した。だが、続く言葉に耳を疑う。

「殺すならば、落とせ。死体処理が面倒だろう」

 まるで汚れ物を見るかのように、大塚は修二に視線を送った。

「ったく、何が目的でこんなところに来たのは知らないが、とんだ厄病を呼ぶな。あの女は」

 それだけ言うと修二に掌を差し出した。

「携帯電話。よこせ。変な気でも起こしたら拷問で済まさないぞくそ餓鬼」

 顔を背ければ拳で殴りつけられた。もうやめろと庇うように、制服のポケットから毀れ出る。舌打ちをすると、信楽から奪った金属バットを握った。修二が咄嗟に手を伸ばす。その指先ごと、大塚は迷いなく携帯電話を粉砕した!

「あああぁ!」

 嫌な音がした。金属が破裂すように砕けた音と、骨が潰れた音。あまりの衝撃に痛覚が正常に機能していない。痛いかどうかすら分からないのだ。ただ、目の前で砕かれた指を眺めパニックに陥る。

「黙れクズが」

 唾を吐き捨て、大塚の大きな足が至る箇所へ飛んできた。抵抗も防御もできず、ただ頭部を抱え込むようにして蹲った。

「クズが、クズが! 次から次へと涌いて出てきやがって! ははっ! なにしにきやがったんだ? え? お前ここの生徒じゃないだろう? 可愛そうなクズだな。死期を自分で早めたか? え?」

「……そのへんにしないと、死にますよ」

 椎木の声音は震えている。熊のようなずんぐりとした体系の大塚の、グローブのような掌が今度は椎木を捉えた。胸倉をつかみ上げ、殺す勢いで締め上げる!

「ぐ、ぅ……!」

「俺に意見するのか? あん?」

「ち、がいます……!」

 大塚の腕を引掻くように爪を立てる。しかしびくともしない。

「ふん。まあいい」

 椎木の軽そうな頼りない肢体を突き飛ばすと信楽に向かって顎を杓った。それが屋上へ連れろ、という意味だと機知できないほど彼は愚かではない。さほど恐怖している素振り内が、大人しく従った。修二は抵抗できないままずるずる引きずられる。

 右手、薬指と中指の第二関節は完全に粉砕されていた。ぷらぷらとぶら下がる状態になったそれは、青紫に変色し、傷口から盛大に血を噴出している。黄色い、少しとうもろこしに似た脂肪が覗いて見えた。

「ちくしょ……」

 ここで、こんなところで殺されてたまるか。

 だが、右の脛に凄まじい熱が帯びていて、どうにも動きそうに無い。膝にも力が入らなかった。おまけに脳震盪(のうしんとう)が、今になって悲鳴を上げている。

 二人の少年が手を離した瞬間、コンクリートに肢体をぐったり倒すことになった。

「あぁー重い! これ以上引きずるの、面倒くせーな」

 修二はオレンジ色の日光に包まれながら、あぁいよいよかと恐怖する。大塚の手が、襟首を掴んだ刹那のこと。

――飛び込んできたのは

「止めておいたほーがいいぞー。てめーら」

 呆れるほどに聞きなれた声だった。

 間延びした口調。緊張感に欠けていて、気だるさと眠気を感じさせるそれ。

 希望のあまり目を見開く。眼鏡が無くても、頭を殴られたことで視界がぼやけ歪んでいてもわかる。

「実の娘を殺すことだけじゃ、飽き足りなかったか? 大塚誠二」

 低く、はっきりとしている少し早口のそれは聞き覚えのある男の声。

 修二は思わず笑った。神様がもしいるのならば、今日という日ほど感謝することはこの先も後も無い。運命の女神は微笑んだ。今確かに、この瞬間に。

 大塚の前に凛然と起立する二人の男。復讐という大きな過ちを犯した浅月京助と、復讐を果たすことが出来ず生きる意味を失った朝比奈蓮太郎。

 ワイシャツにスラックス。黒いタンクトップという、これほどにないまでシンプルな軽装に美しいかんばせを魅せる京助の瞳はいつもの眠気眼ではない。

「そろいもそろって、休日にまで登校なんざ、よっぽどの優等生かい?」

 蓮太郎は軽口を叩きながら携帯灰皿に煙草をねじ込む。新しいものを咥えたが、火は燈さなかった。さらさらと靡く艶やかな黒髪が生ぬるい湿気た風に舞い上げられる。威嚇する猫のように、切れ長の瞳を輝かせた。

「修二」

 大塚の脇をすり抜けて、椎木海斗にも信楽良にもかまわず、修二の下へ一直線に闊歩する。大胆すぎる彼にびくりと収縮しても、そんなことにかまわない。ただ親友の傍で、彼は言った。

「痛てぇーか?」

「……当たり前だ」

 そんな明白なこと、聞くなよ。

 青痣だらけの親友が己の野暮を笑った。ここまでよく粘ったと、彼は額を撫でる。馬鹿にするなよと口にしても、思わず涙ぐんだ。間の抜けた声と能面がこんなにも安心するのもなのか。

 京助はそっと音も無く立ち上がると、凛然と、猛々しく起立する。

「さぁー。全ての種明しを始めよーか」

 七月十九日 海の日 Monday

   後編

 Aspect ?

 高梨杏奈はたいそうシニカルで、現実主義で利己主義で……。子供らしいあどけなさを残す童顔は、たいそう美しい異型であり、誰もが認めるかんばせをいつも不機嫌そうにむっつりさせていた。

 平均身長くらいの背丈。すらりと長い手足。細い肢体は折れそうで、眩しいほどに肌は白い。美しい獣だと、人は息を呑み、愛でる視線をひたすらに送りながら、妬み、羨む。

 彼女は自らの体を誰かと重ねることに、一切の抵抗をみせないそうで、利益の為には多くを切り捨てた。美しさという毒に犯された芸術家たちが彼女に群がる。まるで甘い蜜をすする蝶のように。

 美しさは甘美で、強く依存させる毒だ。

 彼女を求めるそれらは石膏を眺めるように彼女を描いた。

 咲かない蕾。

 美しいまま死んだ咲かない薔薇。

 ある芸術家の作品が大きく衝撃と反響を生んだとき、どこからか高梨杏奈がモデルであることが明かされた。

 もともと多くのプロダクションから眼を付けられていた彼女は多くのメディアから格好の餌食だった。

 それでも、凛然とした横顔が、毅然とした姿勢が、崩されることはなかった。

 強い少女。弱さのない少女。死んだように生きる少女。美しさに愛された少女。

 ……彼女が死ぬなんて事を誰も予想しなかった。

 そしてそれ以上に、彼女の死がこんなにも大きな代償を伴うことを、高梨杏奈自信しらなかった。

 Aspect 浅月京助

 京助と蓮太郎の顔をみるや否や、身構えるように殺気立った視線を浴びる。それは威嚇している動物のようで、いつ殺しに掛かってくるかわからない。信楽の手にしているバットを見て、げんなりした。喧嘩はあまり自身がないのである。これなら自分も武器になるものくらい所持するべきだっただろうか。

 ――無縁のものなので改めて用意することになるが。

 数日前に殴られた頬を思わず摩る。青痣はうっすらと痕跡を残していたが痛みはない。

「警察か」

 大塚がじりじり後ずさりしながら、蓮太郎を青ざめた表情で見つめる。視線を鼻で笑うように振り払い、「手帳見るか?」と火の付いていない煙草を噛んだままにいと口元を歪める。

「ちっ! やってられるか!」

 即座に踵を返す背中に、ケダモノのような俊敏さと獰猛(どうもう)さを備えた彼は遠慮なく掴み掛かる。

「こっちの台詞だ変態野郎!」

 腕を骨折させかねないような力で捻りあげれば、ぐう! と熊のような呻きをあげた。それを合図に加勢しようとする信楽に向かって、大塚を背負い投げ、ぶつける!

「朝比奈さん!」

 重なった二人ぶんの呻きによって京助の制止はかき消された。蓮太郎は暴走しやすいから気をつけろと、要から事前に忠告を受けている京助は、はらはらと肝を燃やした。一歩間違えれば殴り殺しかねない気さえしてしまう。

「動くな、って言われないとわからないか、馬鹿どもめ」

 頭と腰をぶつけた大塚と、その下敷きになりそうだった信楽がゆっくりとした動作で上体を起こす。いくら喧嘩が強くても、現役の刑事には敵わない。力量の差が悔しいのか、額から垂れる血を拭いもせず、ひたすら睨んだ。

「……どうしてここまで辿り着いた」

 ずんぐりとした体系の大塚が再びぐう、と唸る。頭を抱くように支えた。

「想像した」

「それだけか」

 慄くように体を微動させる。

「信じられないだろうけれど、本当だ。このがきんちょ、ただの馬鹿ではないらしい」

 京助は、いつもの猫背を意図的に改善し、真っ直ぐ見つめ返す。高梨杏奈がそうだったように、うろたえることも逃げるような素振りもやめた。一切の迷いを切り捨てるつもりで凛然と望む。

 ――今、自分が此処にいることは、過去への決別。

 ――自分も誰かを愛せるということへの証明。

 ――だからこそ、京助は高梨杏奈に継げる。

(……お前も愛されていた)

 俺と同じ用に、それから眼を背けた。同じように、受け止めることが出来なかった。

 この世にいない彼女の為に、京助は血色の夕日の前で起立する覚悟を固めたのだ。

「あらかじめ言っておく。俺は探偵じゃねぇーし。刑事でもねぇー。だから犯罪者を捕まえることも無ければー、推理することもろくに出来ねぇー」

 急に何を言い出すのかと一同が怪訝な表情を形成した。かまわず二の句を続行する。もとより誰かの意見を聞き入れるつもりなど一切ない。

「つまりは只の想像。証拠も無ければ検証も出来ない」

「なんなんだお前」

 苛立ったように椎木が詰め寄る。突然現れた異様でしかない闖入者が気に入らない彼は激しい嫌悪を包み隠すことはない。

「昨日はどーも。おかげで腹が三毛猫柄だ」

 社交辞令とばかりに会釈すれば、大きく舌打ち。

「嫌味な野郎め」

「俺を落とそーとするのは難しかったんじゃねぇーのか? 高梨杏奈と違って。いや、落とすつもりはなかったのかー?」

 独り言のようにぶつぶつ自己完結する。修二は説明と補足を要求し、視線を泳がせると蓮太郎とぶつかった。

「高梨杏奈が死んだのは、おそらく此処の学校だ。原因は毒殺や水死以外の何か。おおかた階段からでも突き落としたとか、だろう?」

 二人は青くなる信楽の表情を見て、頬をにやりと吊り上げる。性格が悪いと修二にたしなめられても、この暴く快感は止められそうに無い。普段ろくに口を開かない京助の饒舌。彼は蓮太郎に目配せする。

「……六月二十八日、河川敷でのホームレス放火事件。あくまで想像に過ぎない補足だが、たまたま犯行を目撃した人物がいた。その人物が何を思って、何をためらってかは知らないが、すぐに通報せず近くの高梨杏奈の自宅に向かった。だが、相談をしても彼女は軽くあしらったのだろう。「自分をまきこまないでくれ」と。それのせいでためらったのか、結局翌日の二十九日にその人物は通報した」

「誰だよそいつ!」

 信楽が蓮太郎に詰め寄り、獰猛な獣が噛み付くように胸倉に手を伸ばす。あまりに動作が俊敏で、咄嗟のことだったため反応が遅れた。腕を振り払うと、ぎらぎらした大きな目玉は金属バットを即座に拾い上げ、スイングする!

「うおっ!」

 上体を反転させてそれを間一髪避けた。コンクリートに打ち付けられたバット。痺れが手に伝わったのか、筋肉が眼に見えて緩んだ瞬間にバットを握る手を革靴で蹴り上げる!

「バットは人を殴るものじゃないんだよガキ!」

 ひるんだ隙を見て信楽の体を宙に放った。なにか大きなものを落としたときのような大きな音を立てて、体躯を振り下ろす! 彼は完全に意識を飛ばしたようで、白目を向いて泡をふいた。

 殺していないのだろうか。あまりのど迫力に敵ながら心配そうにしたが「大丈夫だ。俺、警察だから」分けのわからない理屈を返される。手加減はできるという意味なのだろう。勝手に解釈することにする。

「……そーいうわけだ。だいたい当てはまっていねぇーか?」

 ゆっくりと紺青に染まる空。背筋をぞくり硬直させる肌寒さを誰もが感じた。京助の問いかけで、いっせいにその方向に視線が向く。そこには学徒塔の剥げた塗装の階段を、優雅に登るぼやけた姿があった。

「おい、なんであいつが」

 椎木の問いには誰も答えなかった。

 右手に携帯電話。左手に出刃包丁。プリーツスカートを生ぬるい風に靡かせて、踵を潰したスニーカーを履いている。

 全身に血を浴びた鏡友花は「えーと、あーと、うん。そうだね」首を傾げて同意する。矛盾が生じている気もしなくはない。

「ケータイの電源が切れたのよ。あーと。だから電話をかしてって杏奈の家に行ったの。そしたら、ここから電話するなって。よからぬことに巻き込まれそうだから……」

 階段の傍から、一歩も微動せずにじっとこちらを見つめている。大塚が後ずさりをして逃げようと今度は別方向へ突進するが、蓮太郎が制止させた。

「……鏡友花は、通報していても放火した犯人が誰であるか、何名かを認識出来ていねぇー状態だった。だから警察も捕まえることは不可能だった」

「えーと、あーと。だって暗かったからね」

 あっさり認める。

 探偵と殺人犯が和解して、事件を答え合わせしている。シュールで奇妙で奇抜。ごほんと咳払いした蓮太郎が言葉を繋いだ。

「七月二十九日午後。『目撃情報から犯人は複数名』という報道が流れ始める。情報提供者がいることを、犯人は、お前らは恐れたんじゃないか? で、たまたま手に入れたのが二十八日に高梨杏奈が、事件を起こした河川敷の傍を歩いていたという情報」

 おそらくは帰宅途中のことである。高梨杏奈の運命はそこで捻じ曲げられたのだ。彼女は三人を陥れたいがために、わざわざ通報したのだと勘違いされたのである。

「彼女の本当の死因は知らねぇー。俺は階段から突き落とされたんだって想像したけれどな。実際どーなんだよ」

「……そうなんじゃねぇの? 実際手を下したのは、俺じゃないんでね」

「なんて奴……!」

 友花が口を挟むと、彼は笑った。

「殺すつもりはなかった」

「嘘!」

「本当だ! 脅す程度、怪我させりゃ少しは大人しくなると思ったんだけれど、高梨が勝手にあっさり死んだんだ」

 腐っていやがるな、このガキ。蓮太郎がありのままの悪態を付く。

 当然、困難を極めたのはその後の処理である。気を取り直して続けた。

「どー関与したかは分から知らねぇーが、あんたおそらくは自ら名乗り出て死体処理を協力したんじゃねぇーか? 大塚先生よぉ」

「何故そう思う」

 不機嫌そうな表情を下げた彼は、あざ笑うような、卑屈な笑みを作った。それは肯定も否定も意をなさない。

「高梨杏奈との関係を明かされるわけにはいかねぇーから。単純に邪魔でしかねぇーと判断したんだろ」

「はん。お前にはわからんだろうよ」

「知りたくもねぇーよ」

 共感できるわけがない。親が子供を殺されて、その犯人に加担する理由など、理解したいわけが無い!

 蓮太郎は大塚の胸倉を掴み上げようと拳を握ったが、理性で押さえつけた。友花は一切の表情をなくしたまま。ただの言葉を、京助を、傾聴する。

「……そーだろ? 教育者・聖職者であるあんたにとって、児童ポルノ騒ぎを犯し、性的虐待を与えてきた娘に愛情なんてねぇー」

 死体処理に協力をしたのは、通報したときに自分の素性を調べ上げられたとき、彼女との関係を他人に知られるかもしれないと恐れたからだ。現在の戸籍上他人でも、さかのぼればすぐにばれてしまう。

 本来ならそこで全て終わるはずだった。

 だが自分が関わった後すぐに亡くなったという不可解さを鏡友花が納得するわけがない。

 元来、私怨むき出しに嫌がらせを重ね、ホームレス暴行とも関係があると噂された井川勇一が疑われるのは当たり前のこと。そして月館麻緒が『バネ脚ジャッキー』になんらかの形で、嫌がらせを依頼していたことも公にされている。それらが引き金となって、友花は井川勇一と月館麻緒が高梨杏奈殺しの犯人だと思い込んだ。

 京助はじくじくと痛む腹を押さえた。遠くのどこかでヒグラシの声がした。夜が来る。どんどん冷え込む暗い空の下、誰が味方なのかの境目があやふやな屋上の空気だけがひたすら冷め切っていた。手首を握り締め、続ける。

「俺が想像するに、鏡は『バネ脚ジャッキー』に成りすまして、月館麻緒に高梨杏奈を消してやったんだから対価を払えって必要に求めたんじゃねぇーか? で、『落下姫』として接触したときに、助けてあげるから言うことを聞けと要求した」

 悪びれた様子もなく、他人事のように友花は頷いた。蓮太郎が溜息を付くと京助の代弁をする。警察手帳を悠長な様子で読み上げた。

「七月十四日、放火されたホームレスの仲間を雇い井川勇一を殺害させる。だが、人違いであったことが数日後にやっと判明した。……鏡友花。お前はそのときに高梨杏奈を殺害したのも井川ではなかったのかもしれない、という疑惑を抱いたんじゃないか?」

 そこから彼女は行き詰まった。高梨杏奈の犯人を推理することができなくなったのだ。

 自分の的外れな推理を恥じてか、それとも思い通りに行かない根源の京助に呆れてか、つまらなそうに唇を尖らせる。

「あーと。こんなことになるなら、昨日助けなければよかったかな? 浅月君のこと」

「それに関しては素直にありがとう。危うく墓場で朝を迎えることになりそーだった」

 椎木達の嫌味も含め豪語する。ちらりと視線をやれば悔しそうに舌打ちしている。

 言いたいことだけ散々まくし立てた京助が開口を止めたとき沈黙が降りる。

 大塚は苦虫を噛み潰したような表情で、苦渋(くじゅう)のあまり小さく呻いていた。ふいに耳に挟む、救急車とパトカーのサイレン。

「遅せーよ。やっとか」

 大塚はそれを分かっていて、もう抵抗に意味がないと分かっていて大人しかったのだろうか。絶望を顔にぶら下げて項垂れていた。

「あとは、署で詳しく説明してもらうぞ」

 蓮太郎は懐から手錠を取り出して、それを大塚の手首に嵌めようとした。――その刹那。

「はっ……!」

 一瞬。何が起こったのか、誰もがわからなかった。

 それは、その衝撃を受けた本人である蓮太郎すら分からなかった。

 彼はその場で膝を綺麗に畳むようにして崩れる。そっと掌を、衝撃を受けたほうへ向ければ、ぐちゃっと粘着質な音を立てて何かが引き抜かれた瞬間だった。鮮血が舞ったことは言うまでも無い。叫び声も、痛みによる呻きも出ない。ただそこにあるのは信じられないほどの熱。

 とろとろと溢れ出るそれは、アーティフィシャルなほどに赤い。こんなものが人間には詰まっているのか、と感心してしまう。

 血、というよりも濡れた鉄錆の臭い。そう口にしたほうが、馴染みがあると言い聞かせたのは、慰めだ。

「朝比奈さん!」

「来るな!」

 京助と友花、修二が駆け寄ろうとすれば、血のついたカッターナイフで牽制する椎木が震える手で刃を向けていた。

「もう、終わった。みんな終わりだ」

 うわ言のように、壊れたように言葉にすると髪を振り乱す。雄たけびのような声を上げると、血のついたカッターナイフで空気を切り裂いた!

「みんな俺が考えたんだよ! ホームレスのカス共殴るだけじゃストレスの発散にもならない。だから死なない程度に放火して、阿鼻叫喚を楽しんだ。でもな、高梨杏奈は俺にいったんだよ!」

 地団太を踏む聞き分けのない子供のように叫ぶ。普段の人を食ったような笑みや、嫌味な表情、大人びた姿は無い。凛とした横顔はただの異常者に変わっていた。

――「あんなことして、何が楽しいの?」「理解に苦しむ馬鹿野郎ね。死んでも直らなそうな病気だわ」

 生まれてこの方、何もかもを手玉のように扱ってきた椎木は努力をしない天才だった。何をしても人並み以上。劣ることなど無い。成績優秀(せいせきゆうしゅう)・才色兼備(さいしょくけんび)・文武(ぶんぶ)両道(りょうどう)。何をしても、彼を満足させるものなどない。天才故の悩み。ただ、唯一どうしようも出来なかったのは、高梨杏奈という美しい少女。

「あの女は、俺に恐怖も嫌悪も感じちゃいない。ただそこにいることすら認めない。俺よりも劣っているくせに、いつでも見下されている気分だった!」

 あの視線が許せない。

 自分を見ない高梨杏奈が許せない。

 周囲はこんなにも恐怖の視線を自分に送り、道を歩けば慄くほどなのに、彼女だけは屈服しない。候補に彼女の名前が挙がった瞬間に、格好の機会とばかりに殺人を決意した。なんでもいい。理由が欲しかったのである。そのため、通報した人物が実際は彼女ではなくてもいいと安易に思ったのだ。とにかく嫌悪しか抱けない不快な少女を、殺さなきゃ気がすまなかった。

 理解できるわけがない懺悔を耳にして、狂っている友花が対立する。

「そんなことのために……!」

 握った包丁を椎木に向けた。

「そんなことのために、杏奈を殺したのか!」

 お前のようなくだらない人間の嫉妬に、茶番に、彼女は付き合わされて死んだのならばそれほど浮ばれないことはない。理不尽なことはない! 怒りのあまりに全身が震える。対立する彼も、そんなことと踏みにじられたことに憤慨して地団太を踏んだ。

「黙れ! 元をただせばお前が余計なことをしなければ高梨も無事だったんじゃないのか? 余計なこと働きやがって! お前だって所詮自分のしたことの罪償いで井川たちを殺したんじゃねぇか!」

「違う! 罪悪で殺したんじゃない! 私は杏奈が好きだったから、お前みたいな奴が許せないんだ!」

 京助の制止を振り払い、二人の距離は一気に縮まってゆく。修二も京助も唖然と口を開けることしか出来なかった。友花が飛び掛り、彼女の出刃包丁が空を切る。椎木もカッターナイフを突き出すが、彼女は難なくそれを交わした。至近距離から、互いにじりじりと間合いを広げたり、縮まったりする。

 修二の右脛は変色して青紫色に変わっていた。其処から何かが生まれそうだと錯覚するほどに腫れ上がり、酷く熱を帯びている。立ち上がれないことは医療関係に携わらない素人眼でも明白。つまりこの瞬間に京助しか、あの二人を止めることは出来ないのだ。

「ふざけんなよ」

 蓮太郎の血を滴らせたカッターナイフ。誰かを殺傷した……おそらく角田巧のものだろう。脂でずるずるになっている出刃包丁。

 京助は咄嗟に信楽の金属バットを手探りで探した。蓮太郎の傍に転がっているそれを手に取ろうと、静かに伸ばせば、体を一蹴される。

「京助!」

 大塚が京助よりも先にバットを手にしていた。

「おおおお……」

 獣のように咆哮したかと思えば、急にだらしなく笑った。

「もう、終わりなんだろう? もう、逃げることはできないんだろう? 全部お前のせいだクソガキ! クズの分際で!」

 焦点が合わない眼は血走っている。即座に鉛が脳天めがけて振り下ろされる! 判っていても、一瞬恐怖にひるんだ。しかし

「……ッの野郎ぉおおお!」

 自ら懐に突進し、ヘッドバットを鼻面に食らわせた! 確かに捉えた感触。そのまま懐の中で鳩尾めがけて拳を打ちつける。自分より頭二つほど大きい彼の強靭な体躯は二、三歩後退し踏みとどまった。膝を折る勢いで呻いている隙にバットを取り上げる。

「観念しゃーがれ」

 普段ろくに使わない拳。パンチは肩や腕で打つものではなく、腰から重心全てをかけて放て、と昔叔父に教えられた経験がまさかこんなところで役立つとは。手をぶらぶらさせた。手の甲を始め、指全ての関節が痛む。なれないことはするものではない。

 近くで鳴り響くサイレン。凄まじいパトカーと救急車の音に囲まれている。屋上からでも覗える中庭に、見慣れない量の白と黒の乗用車がずらり並んだ。友花としばし睨み合う椎木もついに気力を失ったのか、その場に崩れる。

 蓮太郎の傍に駆けつけると体を揺さぶって声を掛けた。血みどろになったシャツ。血溜りを形成している。だが、大量の出血のわりに傷は小さいのか、彼は大丈夫だ、と返事をする。

「……終わった」

 誰かが、そう言葉にした。それが自分だと気が付いた。だが……。

「あんただけは、許さない」

 大きなガラスの破片を手にした里子が、戦意を喪失した大塚の前に立っていた。

 一瞬。眼を疑う。誰も彼女に気が付くことなんて出来なかった。三つ編みにセーラー服。もう二度と袖が通せないほどに血で汚れている。青白いほどに生気のない肌。か細い指が持つガラスの破片。学徒塔の非常階段から、友花と同じように来たのだろうか。

 温風に靡く三つ編みの姿の彼女を、誰もが驚愕の瞳で見ていた。

 ……鏡友花以外は。

「……殺っちゃえ」

 友花が無邪気に口にした。

 彼女は角田から里子を助けたとき、自分と同じ復讐を望む者と察した。だから殺さずに、しばらく時間が経過したら来て、と伝えたのだ。

「計画通り」

 友花は頬を歪める。

「ねぇ、見てよ、浅月くん。最後に笑うのは『バネ脚ジャッキー』でも君でもない」

 焦点の合っていない眼で、歌うように告げた。

「『落下姫』なんだよ」

 大塚がなにやら口をパクパクさせた。それが命乞いだったのだろう。それはまさしく、娘を殺した男が、娘に殺される瞬間。

「やめろぉおおおお!」

 京助の叫びと同時に、ガラスの破片が粉砕される音がした!

「……」

 ヒグラシと蛙の鳴く声。

 あたりは既にオレンジの輝きを失い、血色の残骸を侍らして薄暗くなっている。――蝙蝠が飛んでいる。――あちこちで電気が燈される多くの民家が伺える。――それは日常の光。

 満月の月明かりが、割れた窓ガラスをきらきらと照らした。血のべったりと付着した、破片を。

「……なんで」

 疑問を抱いたのは京助だけではない。

「なんで、殺さないのよ!」

 友花のヒステリックな叫びが響く。

 血まみれの掌。里子は、それで顔を覆っていた。大塚は頭で窓ガラスを割られたため、頬や額に小さな傷を作ったがたいした痛手ではなく、何が起こったのかわからないままきょとんとしていた。てっきり、尖った鋭い場所で刺されると恐怖したのに。

「どうして、最後の瞬間まで杏奈を眼の敵にしたの? 死体処理なんて手伝うの?」

 誰もが唖然としている中。湿った空気の中で三つ編みがはためいた。

「……どうして、愛してくれなかったの……?」

 静かな声音で苦しそうに呟いた。

「私たちは貴方の子供なのに、どうして愛してくれないの?」

 顔を覆う掌を下げた。血で汚れたかんばせ。一重と小さな鼻が特徴だが、華やかな美しさをもつ杏奈とは比べられないほどの格差。それでも、彼女たちは姉妹だった。別の女性から生まれてしまった、姉妹だった。

「愛してくれないのならば、子供なんて作らないでよ!」

 ――寂しさのあまり、壊れることで己を護った高梨杏奈。

 ――忘れることで過去と軽蔑した志摩里子。

 大きな傷を背負った二人の少女の願う愛情は、どんな人間から貰っても満たされるものではない。殺したいと思うほどに嫌いな、嫌悪の対象でしかない父親からの無償の愛が欲しかった。血の繋がった親からしか貰えない特別を願っていたのだから。

「杏奈を返してよ! お姉ちゃんを返して! 返してってば! 返せ、返せ!」

「落ち着け志摩!」

「これからもこれまでも、お前なんか許さない! 返せ! 返せ! 返せぇええ!」

 暴れだす彼女を京助が抱きとめる。ずるずると崩れると、わんわん声を上げて、嗚咽を散々吐露して泣きじゃくった。玩具をねだっても、買い与えてもらえなかった子供のように。

「返して、返して、返して……」

 そればかり、うわ言のように口にし続けた。胸を叩かれても、背中に爪を立てられても、じっとしていた。あやすことも慰めることもしないで、ずっと力強く抱きしめた。志摩里子という、復讐者を抱きしめた。

「……よく、頑張ったな」

 彼女は五年前の自分とは違う。彼女は大塚誠二に勝利した。復讐をほのめかせた鏡友花に勝利した。なにより、自分に負けなかった。

 高梨杏奈を思って、初めて涙を流す彼女は誰よりも強かった。

 腹を抱えてふらふらと立ち上がった蓮太郎は、大塚の手首に手錠を今度こそ、と手枷を掛ける。がちゃんと無機質な音。本当は娘の目の前で、親に手錠を嵌めるところなど見せたくは無い。しかし、この手械の音こそが、全ての区切りになると信じた。

 しばらくの静寂の間。誰の涙の声かもわからない音だけが耳に入る。それから間もなくして、警察手帳を掲げた樹要が屋上に飛び込んできた。

 七月二十五日 Sunday

 Aspect 相模太一

 事件の全貌はそれほど大きなニュースとして取り上げられなかった。なんだ、こんなものか、と相模太一は新聞を広げる。

 あの事件現場にいたメンバーの殆どがこの病院に現在入院しており、てんてこ舞い状態の看護師や医師に同情して小さく笑った。

「まさか、全部自分の手柄を『バネ脚ジャッキー』に押し付けるなんてねぇ」

 いい根性している。口笛を一つ。

 浅月京助の受けた傷を見て担当医はどうして放って置いたんだ! と激昂した。「体のタフさは医者も匙を投げる。判断基準はとんでもない馬鹿だ!」と散々説教を受けたそうで、一日で退院した後太一の見舞いにやって来た。だが、彼は一切太一を咎めず。「元気かぁー?」とぶっきらぼうに漫画を差し出した。修二のように手の込んだことをしない。そういう大雑把さがなんとも愛おしい。

 太一は本日退院する。

 里子に続いて三番目だ。白塗りの部屋の空間で、一人荷物をまとめながら高梨杏奈の墓へ持っていく花を何にするか、小田切修二への見舞いを何にするか、他愛も無いこと考えた。

 Aspect 志摩里子

「お疲れ様でありんす」

 アーティフィシャルの宝庫。相変わらずのノルスタジアの演出にうっとりしながら志摩里子はことの全貌を唐沢黒奈に伝える為、『椿屋』に出向いていた。

 本日は三つ編みを卸し、アイロンで真っ直ぐにした髪を背中に垂らしている。制服は八月になるまで届かない。九月新学期まで着用するなときつく母親に叱られた。

 白いブラウスにデニムのベスト。お気に入りの桜色のスカート。二重のサイズに変わったギプスを右膝に巻いて、ところどころに絆創膏を覗かせる。愛着がわくほど、相棒と呼べるほど連れ添った松葉杖の扱いも手馴れたものになった。

「鏡友花は少年院へ行くことが決定されました。実際誰一人手をかけて殺してはいません。角田巧を瀕死の状態まで追い込みましたけれど、彼は三日生死をさ迷って結局生きていました。現在は入院中ですが、角田巧も少年院行きはほぼ決定しています。井川勇一の殺人を依頼した件では、自首したホームレスによって証言が取れたそうです。更に証言によると、月館麻緒はその場から逃亡を図ったときトラックに撥ねられて……。本当に事故だったみたいです。その場で死亡しなかったら、鏡友花がなんらかの形で殺害するつもりでいたそうです。……あと、浅月君や私に謝罪をしていた、と樹さんから聞きました。多くの情報は、彼にも入らないそうです」

 勿論私は会えませんし、と掌を晒す。

 これらの事件で、結局彼女の復讐は果たせたのだろうか? 完遂できなかった想いはどこへ行くべきなのだろうか? 同じ想いを抱きながら違う方法で事件と戦った友花を、今でも敵対するつもりはなかった。

「ほう」

 興味深そうに眼を細める。何を言わずとも黒奈はアイスティーのお代わりをカウンターから滑らせた。輪切りされたレモンとオレンジに切込みが這いているようで、グラスに可愛らしく飾られている。氷の上に小さくミントが乗せられた、先ほどのアールグレイのように苦味や渋みが少なく、甘酸っぱいフルーツの香りが口内ではじける。素直に「おいしい」と感想を述べた。

「樹要さんは、やっぱり私たち一般市民が、それも未成年がでしゃばったことが原因みたいで……。この件の担当から外されたそうです。朝比奈さんもまだ復帰していないし、相当忙しいみたいで」

「いいだろう。税金で働いているんだ。少しぐらい無理をしろ」

 手厳しいコメントであった。相変わらず鳥肌が立つほどにクーラーのよく効いた店内。闇と同化する漆黒のワンピースに肢体を包んだ彼女は、里子と同じくらい生気のない肌の色をしていた。白いマグに注いだ紅茶を啜っている。白い湯気が上がっていた。なんとも夏とは思えない光景である。

「大塚誠二は逮捕されて、証言を認めているそうじゃないか」

「……はい」

 案外潔く腹を切ったな。そう口にしたのは褒めではなく、根性無しめ、という悪態。どちらに転んだところで悪態の対象になることには誤差ない。

「椎木海斗と信楽良は裁判沙汰のようだな」

 高梨杏奈の死体を遺棄した廃墟ビル。その周辺をうろつく姿がたびたび発見されている里子が、彼女の異母姉妹ということまでは知らなかったらしいが、危険人物をみなし、殺害しようと行動。一度人を殺しているという意味の分からない自信のあまり、決行することはすばやかったそうだ。しかし、彼女のコンクリートに横たわる姿に並々ならぬ恐怖を感じて、生死を見分ける前に逃亡したそうだ。

 もしあの場で里子が殺害されていたとしたら、迅速な事件解決には繋がらなかっただろう。彼らにとって大きな誤算は彼女で、多くを繋ぐ存在だった。

「詳しくはまだわかりませんけれど。あと……朝比奈さんと小田切修二ですが、二人とも全治二週間以上の入院です」

 空洞が肋骨下に形成された、蓮太郎の右横腹。カッターナイフで突き刺されたとは思えないほど、切れ味が良く大量の出血を伴った。骨に到達しなかったこと、大きな血管や筋肉から反れていたことが理由で大事には至らなかった。ただの奇跡だ。黒奈は笑う。

 修二は出血もなく、案外軽症かと思われたがコンクリートに頭を何度もぶつけていたため精密検査を受けた結果、慢性硬膜下血腫(まんせいこうまくかけつしゅ)になっていたことが判明する。

 軽いものですんだが、すぐさま頭に穴を開ける手術が行われた。術後ケロリと感知したものの、完全に粉砕されていた右脛の骨は当面治りそうもない。粉砕された右手の指は、完治まで半年は掛かる見込みである。

 実は骨折よりも皹のほうが、完治が遅いといわれており、安静という言葉をフルスイングで裏切った里子は長期入院こそしていないものの、本来なら二度と正常に歩くことが出来ないという深手だった。

 角田に痛めつけられた傷は直りが遅く、蹴られたことが原因の打撲は今も服の中で小さく悲鳴を上げている。ガラスの破片を握ったことによる創痍(そうい)は地味にちくちくと痛み、掌は包帯に覆われている。それがボクシングの選手のようだ、と京助はからかった。

「なるほどねぇ」

 何度も一人でに頷き、感心したようにも呆れたようにも黒奈は吟味する。里子はストローで氷をつつき、黒奈が「お疲れ様」と言葉にするまでしばらく弄んだ。

「まだ、終わっていません」

 浅月京助の報告か? 予測は刹那に裏切られる。彼女の怪訝な顔つきを、一変させた。

「唐沢黒奈。……いえ、あなたは高梨黒奈ですよね」

「……」

「そして『バネ脚ジャッキー』の一人だ」

 肯定も否定もない。

 曖昧な時間が経過する。

 それがしばらくかわずかかは、理解が追いつかない。もともと時間の流れすらも遮断するような空間を演出された店内だ。それらの感覚を体に刻みつけていることのほうが困難である。黒奈は小さく笑った。そして「いつ気が付いた」と悔しそうにも、哀しそうにも聞こえる声音で問う。

「想像したんです。浅月君のように」

 ――あなたは、杏奈に似ている。恐ろしいほどに静かに、続ける。

「輪郭もパーツも、表情も、顔立ちは何一つ類似しないに等しい私と杏奈だけれど、お前の姉妹だ。と大塚誠二に紹介されたとき、嘘つきのあの男の言葉が真実だとわかったんです」

 根拠はない。ただ、出会った瞬間にわかった。同じように愛されない、望まれない子供であるということを。

「あなたに対して同じ感情を芽生えたわけじゃないんです。でも、同じ時間を共有しても、同じ場所になっていても違う方向を見つめ続けるあなたは、消して私と見詰め合ってくれないとわかったとき、あなたが、私と、杏奈と、似ているって感じたんです」

 問いただすことはしない。ゆっくりと形成する言の葉は黒奈にしかと受け止められてゆく。

「あなたは私たちが、血が半分繋がった姉妹であることをはじめから知っていたんですよね」

「……」

「あなたは、大塚誠二が高梨杏奈を殺害したと考えた。そして私が椎木海斗に落とされたのではなく、大塚誠二に殺人を図られたのだと勘違いをした。だから、『バネ脚ジャッキー』として事件解決を目論(もくろ)んだ」

 ここには蝉も蛙も鳴き声は遮断されている。こげ茶色の木々で出来た椅子の背もたれにぐったり体を預ける彼女は煙草を取り出した。ほっそりとした長い指が取り出し、唇に咥える。オレンジ色の、あの日の夕焼けのような焔が燈った。先を促すように、指をとんとんと鳴らす。

「教えて欲しいことがあるんです。……どうして、選んだのが浅月京助なんですか?」

「簡単だよ」

 紫煙をくゆり登らせる。霧のように色濃いながら、あっさりと溶けた。

「少し、昔の話になるね」

 にいっと口元を三日月に歪めて笑うと、まだ半分以上残っている煙草を灰皿にねじ込んだ。なんとも落ち着きがない。何度も大きく呼吸する様を見せて、やっと開口した。

「……そうだよ。私は大塚誠二の娘で、高梨杏奈の正真正銘の実の姉だ。あの子が生まれるころには、私は親戚の家の子供に成り代わって唐沢に苗字が変わっていたけれどね。だからあの子は私を知らないし、私自身お前達を知ったのは二十になってからだ」

 両親から捧がれなかった愛情は、祖父母も叔父も叔母もくれることはなかった。あまりの乾きと飢えに、自分以外の全ての人間が幸せに思えた。自分の傷が一番だと、周囲を遮断し塞ぎこみ、彼女は孤独を愛することでしか、自分を、生を、感じることが出来なかった。

「そんなとき、朝比奈蓮太郎に出会ったんだよ」

 ――まだ、ランドセルを背負っていた時代のことだ。

 構うなと牽制しようが、無視を決め込もうが、なついた野良犬のように彼は彼女を一人にさせまいと努力した。その理由を聞いたところで、彼は答えない。ただ己のエゴを押し付ける。

 自身の利益の為のエゴではなく、どこか歪で歪んだ、暖かなもの。

 それが優しさなのだと、気が付く頃には自分は朝比奈蓮太郎を言う存在を深く享受し、愛していた。

 彼は一風変わっていて、自己中心的な一面が目立つが周囲に好かれる存在だった。彼を羨ましいとは感じなかったがその隣の居心地のよさに、彼女は甘えていた。……蓮太郎の母親が殺害された日までは。

 喜怒哀楽を一切封じ込め、ひたすら新聞記事やら教科書やら、活字ばかりを眺めては時折笑い出す。誰もが彼に同情しながら、異質な彼と関わろうとせず、遠巻きに眺めるばかりだった。異常で奇妙で狂ったような存在だと、何をするわけでもなく煙たがられ彼は孤独になっていった。

 黒奈には何もすることはできず、ただ彼の中に渦巻く復讐の念を見てみぬフリをした。彼がもし、殺人犯になるのならば、手伝ってやろうとすら思った。

 だが、その二年後。彼らが大学に入学した頃に、一人の少年が蓮太郎のもとを訪れた。

 彼は復讐の念だけで生きていた蓮太郎に、生きる糧(かて)を失わせた。殺すことだけを考えていた彼を、そのやっとの思いでいきた二年間を踏みにじった!

「それが、事件の全貌を被害者全員に伝えたようとした少年。浅月京助だ」

「……」

 一切の感情を表情に見せない黒奈が、眉間に力を込めて苦悩を物語る。姿勢を正して向き合った。

「それからしばらく蓮太郎とは音信不通になっちまって、てっきり自殺でもしたのかと思った。だが、奴はなにか取り付いていた疫病神を追い払ってきたような表情をぶらさげて、すがすがしいくらい、忌々しいくらい綺麗に笑って私を呼んだ。……あの日から見ることが出来なくなった様々な表情を、少しぎこちなく取り戻して、私に心配をかけたと誤ったんだ。……わかるか? 志摩里子。何十年も連れ添っていたのに、私は朝比奈蓮太郎の力には微力も慣れなかった。それなのに! 突如現れた浅月京助はわずか一時間足らずであいつを人間として救うことができたんだよ!」

 悔しい、という感情には、あまり似ていない。どうしようもない醜い嫉妬。蓮太郎が笑えばそれでいいと認めることができない醜い感情。それを抱く自分に嫌悪を感じ、イヤでイヤでしかたがなかった。

「私は彼をこの五年。忘れたことはなかったよ。最初は嫉妬。だが、単純な同情に変わったとき、あの子は救われなかったとわかったんだ」

 蓮太郎をはじめとする、すべての被害者の復讐の念。それを京助は達成し、人として堕ちた。多くを救った存在。多くの絶望となった存在。犯人に裁きを与えることなく殺してしまったこと。

「だから、浅月京助が救われないままで死んだように生きてゆくことが、私には何より許せなかった」

『バネ脚ジャッキー』の名前を借りて、彼にとって一番向き合いたくない題材と対峙させ、決別させる。朝比奈蓮太郎に、浅月京助を助けさせるために。

「計画自体は相当大雑把で荒治療そのものだ。だが、勝手に動いてくれたからね。おおかた成功でいいだろう。……軽蔑するか? 志摩里子」

 いいえ。

 無言のまま、彼女は首をゆるゆると左右にした。大きな涙の雫を、瞳いっぱいにためながら、微笑む。

「私は」

 今、――目の前にいる姉を。――偽りの愛情で認め合った姉妹を。何より、――自分を支え続けてくれた友人たちを。

 強く強く、思った。

「ただ、全てが愛おしい」

 某日(エピローグ) 二

 Aspect 浅月京助

 腹に穴開けられた男が横になる病室から、かすかに煙草の臭いがした。ここで喫煙したのか、彼の体臭なのかはわからない。五分五分と言ったところだろうか。どちらにせよ、あっけらかんとした表情で他人と接する彼はおそらく自分が重症患者であったことなど忘却している。

「元気そうじゃねぇーか」

 その一言の刹那に枕が投げつけられた。

「こっちはニコチンとアルコールとカフェインに飢えている」

 不機嫌そのものの表情を形成する蓮太郎は変色した林檎を爪楊枝で串刺しにした。京助は枕をやれやれと呆れながら拾いあげる。かんしゃくを起こした子供じゃないんだから。悪態を付けば、亭主関白(ていしゅかんぱく)の練習なんだよ。と呆れた言い訳だった。

 二人分の見舞い品を詰め込んだ紙袋は軽くなっていた。それを有無言わさずずいと差し出す。

「なんで最中なんだ?」

「俺の好物だからじゃねぇーですか?」

「ずうずうしいな!」

 箱に敷き詰められた六つの最中を一つ手に取ると、お茶を要求する。少し嫌そうに噛み付いて「糖分の塊だなこれは」すぐさま顔を顰めた。くっきり出来た歯型。歯並びのよさにしばし見とれる。口の中に張り付くような甘さに耐えられないようで、咽喉仏の辺りをさすり、べたべたすると眉を顰めていた。大方予測できた反応である。京助はお茶を差し出した後、微苦笑しながら「ばれるなよー」と煙草を一箱手渡した。

「……気が利くな。自分で買ったのか?」

 相変わらず気崩した制服姿の京助は「まさか」と肩をすくめた。

「叔父が帰ってきているんですー」

「マジか! あの世界を飛び回るパパラッチ野郎」

「本業は小説家だけれどねー」

 彼はどこからか事件について耳を挟んだようで、血相変えて帰宅してきた。きょとんと驚いた京助は彼に散々説教をされ、よかったよかったとさめざめ泣かれて一晩明かしたのである。そんなに簡単に死なないと口にしたが、彼の両親が死亡したことのショックは彼も未だに引きずっている。馬鹿にするようなことはせず、ただ素直に謝罪を述べた。

「いつになく気がきくな、あの野郎」

「中学の同級生だっけー?」

「あぁ」

 吸いすぎるなよ。と念を押す。叔父も相当なヘビースモーカーで、彼といい勝負だ。

「じつは要にも言われた」

 引き出しを開ければ、そこにはぎっしりと煙草の箱が詰められている。中にはカートンすらあった。唖然と口を開ける。

「みんな見舞いにこんなもん渡しやがるんだよ。困ったものだな。貰ったはいいが吸うに吸えん」

 何を渡してもお前はたいして喜ばないから。中にはそんな風に言う友人すらいた。そこから推測するに、みんな考えることを諦めたのだろう。安易に状況が頭に浮かぶのは京助も然り、である。

「なんならアルコールとカフェインも歓迎なんだがな」

「なんでそー、依存性の高けぇーものばかり……」

 呆れてものが言えないと額を覆えば、それも要に言われたと再度笑う。案外気難しいんだな、と嫌味を。

 見舞い品の量から見ても彼がどれほどの人に慕われているのかがわかる。チンピラ刑事、なんて愛称も憎まれ口から生まれたに過ぎない。自由奔放・短期で子供っぽい。そんな十歳も年上の男が可愛く見えた。

「……あんたに、話があるんだ」

 ベットの傍には、多くのパイプ椅子が並んでいる。先ほどまで人がいたのか、簡易テーブルには菓子の袋や花やら乱雑に置かれていた。一息つくと、頭を下げる。

「何のマネだ」

「すみませんでした」

「どういった意味での謝罪だよ」

「全部。含めて」

 かしこまったわりには適当じゃねぇか。蓮太郎は腹を押さえて笑った。傷は塞がっていても、大きな声で笑うと腸(はらわた)やらなにやら、臓器がはみ出るような感覚に教われるためほどほどに無理やり堪える。

「座れよ」

 椅子の一つを勧めれば、おずおずと腰掛けた。

「あの、さぁー」

 しどろもどろに、眼を少し泳がせている。緊張しているのか、硬い表情のまま膝で拳を形成していた。

「実はー、俺、あんたが警察になったこととかー、刑事になって、すげーいろんな人からチンピラ警察なんて言われていたりすること、全部知っていたんだー」

 聞き捨てならない単語が含まれていたが真実なので反論を嚥下した。

 京助は泣きそうに瞳を揺らす。蓮太郎もかなりの童顔だが、やはり現役を隣にすると老けるものだな、と感じた。微苦笑して先を促す。

「もー、二度とあんたには会わぇーと思ったし、会っちゃいけねぇーと思った。ずーっと他人のままでいよーと思った。それなのに、どうしてもあんたに嫌われたまま、恨まれたまま、決別することが我慢でねぇーんだ」

 それが何故、蓮太郎だったのかはわからない。

 報告したときに、死んだ魚のような眼を並べた被害者たちはどれも同じような生気のなさを漂わせ、その周囲だけどんよりとした空気に澱ませていたのに。思えば蓮太郎はどこか異なった。

 ぎらぎらとした復讐心。ただならない殺気。それをへし折って、死人のように変えたのは京助自信だった。

「あんたに謝りたかった。あんたにだけには、許して欲しかった」

 許される身分ではないとわかっていても、理解して欲しかった。叔父や修二のような愛情でなくてもいい。ただ、自分という存在を認めて欲しかった。

 ――要に言われなくても、本当は知っている。

 自分は強く愛されている。ただ、捧げられる愛情が怖かった。それだけの期待に答えることが出来ないと、素直に受け止めることができず愛することを酷く恐れた。

 それでも一人にはなれない。生きている限り、人は必ず誰かと繋がっている。それが絆といえるほど確かなものではなくても、強さのある洗礼された美しいものではなくても。

 理解されたい。

 友達になりたい。

 自分を受け止めて欲しい。

 あのとき声に出すことができなかった懇願は、やはり今も口にすることはできない。それでも、今なら真っ直ぐ彼を見据えることができる。

 蓮太郎はそっと掌を彼の頭にのせると旋毛をなぞるように撫でた。

「お前は」

「……」

 ――けっして強くはないけれど、志が美しい。真っ直ぐではないけれど、慈悲深い。

 人間らしい矛盾を携えた京助の、そういったところが愛される理由なのだ。そしてまたそういうところに気が付かないのも魅力なのである。嘗て彼へ抱いた憎悪を忘れたわけではない。だが、今蓮太郎は自分は彼に救われたのだと胸を張って言える。

「人は、生きていれば必ず変わることができる」

「……」

「お前が、誰かからの愛情が怖いのならば、お前が誰かを愛せばいい。いつかきっと享受できる。愛し愛される脆さと強さが、きっと理解できる。そのときまで、俺たちはお前の傍にいる」

 同情ではない。京助に対する思いの全ては誰にも名前のわからないものだ。

「錬太郎さん。俺は」

 自然と、微笑んだ。一切のおべっかのない、周囲からの視線を降り張った彼自身の本当。

「俺は、あなたと話がしたい」

 他愛もないこと。いつかは忘れてしまうようなこと。そんな刹那を抱きしめる為に、理解し、愛し、愛されたい。今、此処にいる自分のことを、いつか許すために。

 自分らしく生きることをもう二度と諦めない。蓮太郎に、自分を支えてくれた全ての愛すべき人に誓う。

 今、自分は此処で生きている。全ての人との繋がりを誰よりも愛おしんで、ここにいる。

 それがなにより、浅月京助の誇りだ。

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