まっくらな闇の中。
それはある種の安堵を生み出すのかもしれない。
自分さえ見えない闇の中で、明かりさえ消して、何もかもを・・・暗闇で濁してしまえば、何に対しても怖がらなくていい気がした。
眠る前そんなことを考えながら俺は必ず豆電球を消した。
それは在りえないとわかっていても心の何処かで臆病な自分が、自分でも気づかないほど慎ましく、隅っこの方でわけのわからない恐怖の巣を作っているからかもしれない。
時刻は、2時13分。
俺はそろそろ寝ないとヤバイ。バイトがあるし、勉強もしないと進級もヤバイ。
そんなヤバイ、ヤバイといいながらどうして人という生き物は前持った行動が出来ないのだろう?何故そこまでヤバクなるまで放って置くんだろう?
わからんが、今は眠らなくては。
そう思っては目をつぶってみるけど、やっぱり寝れない。
そんな眠らないといけない時に何故か余計に眠れなくなるようなことを考えてしまうんだ。
例えば昨日見た心霊特集とか、昔聞いた怖い話だとか、人一倍怖がりである俺がなんでこんな眠れない夜に限って思い出したくない、余計眠れなくなるような事を自ら進んで思い出してしまうのだろう?人間っておかしい、というか俺がおかしいのかもしれない。
今俺の脳中では昔見たホラー映画のワンシーンが上映されている。
確か彼女と行った初めての映画だったと思う。
その映画の内容というのが恋人の浮気によって男が怒り狂い、問いただすつもりがうっかりと恋人を殺してしまう。焦った男が恋人を山奥に埋めに行くのだが、数日後に奇怪な現象が男の周りで起こり始め、最後には殺された女が出てきて、とても口には出来ないような・・・・・・・・・酷い殺され方をされると言うような話だった。
俺がホラーを駄目だと言うことを知っていてなお、前売りまで買って直前まで俺に内緒で映画館に連れて行かされた挙句、あまりのグロさに言葉を失っていた俺に向かっていった彼女の言葉が「私が先に死んだら化けて出て散々怖がらせてあげるね。」だった。
なんて酷い女だろうと付き合ったことを後悔した瞬間だった。
俺たちは天文学サークルで知り合った。お互い月とか星とかが好きでいろいろ話をしたけれど特に印象深く覚えていることがあった。
それは一番初めに話したことで、どの天体が一番好きでそれはどうしてか?という本当に基本的で激しくどうでもいいような質問だった。
「私はね、月が豆電球に見えるの。」
そんな彼女の正直で素敵な見解を聞いて俺は少し大げさに笑った。
野生からかけ離れ今の生活様式に慣れきった人間サマの夢もロマンの欠片もない素直な感想だと思ったから。でも違った。
話を聞くと彼女は俺と同じで全然違うタイプの臆病者だとわかったからだ。
彼女はこう言った。
「子供頃さ、まっくらなのが怖くてずっと豆電球つけてもらってたんだ。
暗い部屋の中で薄ぼんやりとオレンジの光が部屋に広がって、少しだけだけど怖くなくなった気がした。そう考えるとさ、月とか星とかって太陽と違って全部明るく照らしてくれるわけじゃないけど、ぼんやりと夜を照らしてくれる豆電球みたいでしょ。」純粋にその時の俺は感動してしまった。
その発想に暖かい何かを感じた瞬間だった。
……何思い出してんだろ?俺は。
駄目だ、寝ないと。
俺はきつく眼をつぶってみるが眠れない。
それは俺が最近休みということもあって生活リズムを狂わせまくったというのもあるし、近所のヤンキー正則が改造バイクのマフラーを吹かしてうるさいというのもある。
俺は耳を塞いでみるが、気にしないようにすればするほど耳の神経はその音に集中してしまう。耳の神経を図太くさせ、眠ることに集中さえすればきっとすぐに夢の中にでも入れてしまえるのにどうして集中しようとすればするほど耳は耳障りなバイクの音に耳を傾けてしまうんだ。俺は眠る意志があるのか、ないのか、わからなくなる。
気にする俺。無音だ!! ここは無音な世界だ!! ここは。
俺はしばらく黙って硬く目を閉じたが、思い立ったように俺は起き上がった。
ヤンキーというが、人の子には違いねぇ。それに正則はよく遊んでやった純真な子供だったじゃないか、あんな無垢な目で俺に懐いていたじゃないか。怒鳴ってやろう、うるさいって怒鳴れば正則だってバイクを夜中に吹かすことの無意味さを知るだろう。
俺は腹を括って部屋の窓をガラッと開けた。
薄暗い街灯が照らすだけの路地を見つめるとそこには穴の二つ開いた紙袋を被り、汚れたつなぎの作業服を着て、右肩に電源の入れたチェーンソーを担いでいる人間の姿が目にはいった。
俺は考えた、なんで紙袋を被っているんだと。俺の脳みそが答えた。
「それは顔を隠して自分が誰か分からなくするためだ」と。
何のためにだよ? 俺はまた答えた。
「今から見られると困るようなことをするからだって」
俺はまた考えた。何故チェーンソーなんて担いでいるんだと。俺の嫌に冷静な脳みそが答えた。「それは何かを切るためだよ」と。
何を?
……いちいち考えなくったってわかる。でもあえてその答えを意識するのはよそう。意識すると恐怖が余計に増してしまう。
俺は黙って窓を素早く閉め、カーテンを引いた。
最初は純粋に信じられなかったのかもしれない、こんなの夢だ、俺はもうとっくに寝ていたんだなんて現実逃避までした。だってどんなホラー映画だってこんな突然の登場ご法度だろ?だってなんの脈絡もなく、紙袋被ってチェーンソー持った奴が真夜中に徘徊してるんだよ。おかしいだろ。俺は頭の中で何度もこれは現実じゃないと否定した、でも一瞬のうちに合った目が夢とは思えないほどリアルで、煌々と光るそれは気持ち悪いを、通り越して夜空に瞬く星のように幻想的で綺麗だった。だからわかるんだ、これは夢なんかじゃない。
そして何よりも俺がバイクだと思っていたのは、紛れもなくチェーンソーの音だった。よくよく考えたらバイクの音と微妙に違ってる。なんで窓なんか開けたんだと死ぬほど後悔した。
俺の心は秒針がカチカチと音を立てるたび、訳のわからない恐怖心が、風船が膨らむみたいに大きくなって限界が近づく程、恐怖をごまかしたくて大声で叫びたくなった。チェーンソーの機械音はまだ外にある。最近物騒になったねどころじゃない、もしかしたら日本の治安は最悪なところまで来ているかもしれない。
焦るような恐怖がむずむずと喉の奥に存在して、心の中で悲鳴が上がってくる。けど今ここで、俺が叫びでもしたらそれこそ家は血の海、俺の未来はバラバラ死体だ。それだけは勘弁、マジで嫌。こんな時こそ家族に助けてもらいたいのに兄ちゃんは友達の家に遊びに行っているし、両親も久しぶりに温泉旅行。そう今この家には俺しかいない。
一人という恐怖とどうすればいいのかという混乱で俺は頭の中真っ白だ。一人だと考えるだけで頭が痛くなる。心の中では臆病で酷く傷つきやすい俺がくじけて泣き叫び、そんな状況に混乱している二人目の俺が必死に忍び寄る恐怖を薙ぎ払おうと暴れ狂い、一人だけ冷静な俺が大慌てでそれらの俺たちを慰め説得している。そんな総合的な俺は鳴り止まない機械音に時々くじけそうになりながらそれでもひとりだけ冷静な俺に励まされ、健気に打開案を考えた。
心臓の音が内側の肉をまるで外に出たいのかと思うほど、強く大きくそのうえ早く叩くから俺は冷静になろうと思う一方で、混乱が酷くまともな考えさえ浮かばないで時間が消費していく。
コチコチと秒針の時さえ、怖くてそのうち息まで荒くなっていった。たまらなくなった俺は何かに縋るようにゆっくりと辺りを見渡した。するとベッドの上に目覚まし代わりにしていたケータイが目にはいった。
そうだ、警察に電話すればいいんだ。俺はなぜこんな簡単で誰もがするであろうことを今まで気づかなかったんだろう、それが一番いい。さすがにあんな猟奇殺人者みたいな奴でも警察が来たら逃げ出すに決まってる。そうすればご近所さんにも俺も無傷で済むし、電動ノコギリ人間は指名手配でもされてさっさと捕まって刑務所にでも入ればいい。そうすれば日本の治安も良くなる。深夜にあんな電動ノコギリ携帯するような人間なんてさっさと捕まってしまえばいい。
俺は早速電話しようと携帯(電話)を手に取ると絶望した。
あろう事か電源が切れている。
「くそっ!! 」俺はできるだけ小さく悪態をついた。
俺は普段携帯をこまめに充電なんてしない、切れた時に充電し、また切れてから充電する。そんなことを繰り返してこんな時に限って電池が切れるなんてもしかしたら俺は史上最強に今日は運が悪いのかもしれない。それに充電したくてもコンセントは一階置き去りだ。それならいちいちケータイ充電するよりも、普通に固定電話でしたほうが早い。
俺は部屋をなんの物音も立てずにそっと出ようとしたが、一抹の不安が電話のある一階に歩く足と立ち止まらせた。はたしてチェーンソー持った人が家の前を徘徊してるんです、って言って信じえもらえるだろうか。俺だったら信じないんじゃないか?そんな妄想みたいな出来事、信じるか? いや信じないだろう?そして切られておしまいってオチになるんじゃ? ……そうだ、証拠写真だ。写メでいいや。取って警察のパソコンにでも送れば……。余計手の込んだいたずらとでも思われるんじゃ……。考えてみるけど、そんな事言ってたんじゃきりがない。だいたいなんだよ。初期のジェイソンかよ、紙袋なんか被っちゃって。
……もういい、電話だ。電話! 親身に訴えかけたらきっと信じてくれる。
俺は音を立てないように慎重に立ち上がると、さっきまで鳴り響いていたチェーンソーの音が急に止んだ。その瞬間、俺は一瞬鷲の鋭い鍵詰めでぐっと心臓を握りつぶされたような酷い感覚に襲われた。だってあまりに見ていたようにタイミングが良すぎたから、これで怖いと思わないほうがおかしい。さっきまで早く止んでくれと願って願っていっそ怒鳴ろうかとも思っていたほどうるさくて延々と鳴り響いていたのに。
どっかのホラー映画の展開みたいだ、そう思うとあの映画の一シーンが頭に浮かんだ。もしかしたら俺はあの男のように惨殺されてしまうんじゃないだろうか? 俺の中で恐怖は水に落とした小石が作る波紋のようにただ広がっていく。これは俺の妄想でしかないけど、別におかしいことじゃないんだよな、おかしな事件なら世界中何処かしこで実際起こってるわけだし、たまたま俺がその滅多に起こらない事件に引っかかったというだけで、在りえないことじゃない。
俺は辺りを見渡した。そこには静まり返った階段と扉を開けっ放しにしてる俺の汚い部屋、その空間には俺以外誰もいない、誰もいやしない。
改めてそんな状況を頭で理解するとどうしようもなく孤独を感じた。そして寂しさが募った。
よく世界が終わるとか映画であるけど、別に世界が消滅するわけじゃない。俺たちっていう生き物が死んでしまったりするだけで、世界は砂漠になろうが、地球が割れてしまおうが平然と世界は在りつづける。だから世界が終わるってあながちただ自分がこの先の未来を歩むことが出来なくなるって事で、自分が必死に作り上げてきた世界が終わってしまうってことだけなのかもしれない。
そして今の俺は確実に自滅に道を進んでいて、もしかしたら後一時間もしないうちにチェーンソーの錆びになっているのかもしれない。そしてそれは確実に俺の世界が終わってしまうってことで。そんなことを頭の端で考えると心に広がっていた寂しさが不安に変わり、俺の頭の中は臆病な自分を怖がらせる恐ろしい妄想ばかりが膨れ上がって俺を押しつぶそうとする。
そんな己との葛藤をしている間にもその場は静か過ぎた。物音一つしない静寂の中でおそらくまだ街灯に照らされながらチェーンソーを担ぐジェイソンが今どうしているのかが気になった。
もしかしたらすぐ傍に来ているんじゃないだろうか?ジェイソンは俺の部屋の窓にでもへばりついてカーテンの隙間からこっそりと俺のことを見ているんじゃないか?と臆病な頭は妄想する。いや、けど妄想だとしても変だ。だって静か過ぎる、さっきまでずっとあんなにうるさかったのに・・・。もう思うと途端に怖くなって、俺はそっと立ち上がると慌てて出来るだけ音を立てないで部屋に向かう、ヒタヒタと歩く足音が静まり返った空間に久しぶりに響く。けれどそれは不気味にも聞こえて、正直怖くて逃げ出したい気持ちにもなった。けれど、この心の中にあるこの不安を拭い去りたかった。
俺はカーテンを思いっきり開けた。
カーテンのレールがシャーと嫌に大きく聞こえて開帳した窓には、向かいの家の屋根と嫌に綺麗な夜空が広がっていた。窓には案の定、ジェイソンの姿はなく、俺は一気に緊張の糸が切れて深いため息をついた。窓にへばりついていると思っていた俺はそれだけでなんだか安心してしまって現実を確かめるようにガラス窓に手を当てた。ヒヤッとした冷たい感触が、俺の落ち着きを取り戻して汗ばんだ体が手の冷たい感覚によって覚まされていった気さえした。
そうだ、よくよく考えればジェイソンは別に俺のうちに乗り込んでくるって可能性だって殆どないじゃないか、もしかしたら殺人が目的じゃなくて、ただ単に役者さんが役に陶酔して遊び半分にやっているだけかもしれないし、今まで考えたのだってただの俺の妄想でしかない。
俺は目をつぶって、出来るだけ深く息を吸って、ふぅーと吐いた。今まで溜まっていた体の中の熱い空気を吐き出して、落ち着きを取り戻していった。そしてもうこの出来事は解決した気になっていた。俺はなんだかバカらしくなって、窓を開けて部屋の空気を入れ替えようと思い、ふと道路を見下ろしたら。
ジェイソンが、俺を見上げていた。
一気に外気に触れる俺の体が凍り付いた気がした。体内では危険信号が常に発信されているのに、体の外観が凍り付いて全く動こうとしないから、ただ絡み合う視線をほどくことが出来なくて、なんとなく気づいてしまったんだ。こいつは俺が窓から顔を出すのを持っていたんじゃないかって、そしてこいつは誰でもなくこの俺という人間を世界中の滅多に起きない悲劇の犠牲者にしようとしているんじゃないかって。
俺の心臓はドクンと大きな音を立てて内側の肉を叩き始めた。
静まったはずの心は掻き乱されて、きっと体が硬直していなかったら無意味に叫んでいるだろう。気づけば俺の手はカタカタとみっともなく震え上がっていた。そして反らせない目線に縛り付けられて痛々しい沈黙が続いて、その沈黙をついに崩壊させたのは、ジェイソンの小さな声だった。聞き取りにくく、もう少しで何を言っているのかわからなくなるほどの声で「待っていろ今、そっちに行く。」と確かにいったのだ。
俺は思わずカーテンを引き、狂ったようにパイプベットの下に上半身を押し込むとガタガタと震えた。シャツが冷や汗でべっとりと皮膚に纏わり付き、手の震えは全身に広がって息まで整わない。むしろ震えが邪魔してちょっとした呼吸困難だ。その間にも心臓はまるで外に出たいと言わんばかりに俺を内側から強く殴りつける。気が狂いそうになるほどの恐怖心、こんなことならさっさと警察にでも何でも電話しとけばよかったなんて死ぬほど後悔した。
目をギュッとつぶると聞こえるはずもないジェイソンの靴音がコツンコツンと聞こえる。それは俺の心臓の音と重なって人生最後に俺が聞くメロディにもならない音楽のように感じた。
そしてまたチェーンソーは耳障りな音を出してから回り始めたのだ。「勘弁してくれよ。」俺は頭を抱え込みながら唸るように呟いた。今までのは悪夢でいいのに、目を覚まして「あーこわかった」でいいのに……無情にも目は冷めない。
現実なんだ。
しばらくすると玄関のほうでチェーンソーの音以外にも何か殴りつけるような音が規則的鳴り出した。俺は思わずベッドから出て耳を済ました。音はドアを素手で殴りつけている音でどうやらまだチェーンソーは使っていないようだった、でも時間の問題だ。涙が出た。
悲痛に「やめてくれよ」って叫びそうになった。叫んだ方がいいのかも知れない、誰かが気づいてくれるかもしれない、助けてくれるかもしれない。でも惨めにも感じた。それは臆病な自分が唯一ある男としてのプライドでそれだけは自分には犯せない領域だった。
もういい、どうでも。俺にとって死なんて怖いはずないだろう?だって俺には罪があるから。だから、いいんだ。罰なんだ。大丈夫なんだ。……死ぬのなんて一瞬だ、怖いのも一瞬だ。だから大丈夫、大丈夫なはずなのに……。
俺はガタガタ震えながら涙がボロボロ零れ落ちるように流れていく。
酷く痛む痛みに耐えるように息をしていた。生きたいと願ってるのか、自分で自分が分からなくなった。けど心の端っこの冷静な部分の自分は違和感を感じた。
おかしいと思った。死ぬのが怖いなんておかしいと思った。
自分にとっての死の概念は、恐怖よりも哀しいだった。どうしようもない哀しさだった。死とは分かれると言うことだった。もう二度と会えないという冷たい現実だった。
俺は大切な人を昔になくした。
昔……そう、もう、過去の話なんだ。
……過去になっている。
でも俺はその過去から一歩も動けないでいる。忘れたくても、心が痛くて忘れられない。後を追う?出来なかった。みっともなく生に食らいつく。だからせめて、代わりに生きようと思った、けど俺は今まで生きていたのに、代わりに生きているのに、しゃんと前を向けない自分が情けなくて嫌いで仕方ない。心が消化できない。前を向けない。
それなのに、まだ……それでも、まだ……生にしがみついてる。
そんな自分に、強い嫌悪感が湧いた。
俯くと急に机から何かが落ちてきた、落ちた床を見ているとそれは天体の雑誌だった。よく二人で肩を並べて読んだ本だった。それを見た瞬間、情けない自分が申し訳なく思って、自分に嫌気がさした。そして強烈に今のままじゃ駄目だと思った。
俺の震えはいつの間にか止まり、俺は走って玄関に向かった。足音なんか気にもせず急いで階段を降り、玄関の向こうに見え隠れする人影に叫んでやった。
「お前一体何なんだ!! 何の恨みがあってこんなことするんだ!! 」
それは俺の精一杯の反撃だった。足はガタガタ膝が笑うし、顔なんか冷や汗が流れていた。それでも部屋の中で震えて死を待つよりは全然いいと思った。そしてぎゅっと手を握ると玄関か見える人影を睨んだ。
すると一時的にチェーンソーの音が止まり、少しだけ俺は安心してると、急にポスト部分から
ガサガサと手を突っ込み始め、何か探す手振りを始めた。俺はその異様な行動にかなりうろたえたが心を持ち直して生唾をごくりと飲み込んで傘立てにあった傘を手に取り、構えた。
そしてもう一度、「お前は何なんだ!!! 」っと一括した。
すると訳のわからない奇声をあげてぶつぶつと何か言い出した。声が小さいわけではないが、何を言っているのかさっぱりわからない。不気味で嫌気がさして俺は玄関のドアに近づき、「だから何なんだ!!お前は一体何が言いたいんだ!! 」ともう一度叫ぶと、ガツンッと何かが壊れる音がした。嫌な予感がしてゆっくりと首を傾けると俺のわき腹の隣に大きなチェーンソーがドアを突き破って伸びていた。そしてまたあの耳障りな大きな音が鳴り始め、チェーンソーの歯がぐるぐると回り、俺の家の薄いドアを削っていく。
一瞬血の気が失せた。俺は転ぶようにしてドアから離れると今度は、悲鳴のような濁った声を上げながら、夢中でドアをチェインソーで殴り始めた。
死ぬかと思った、それは何の実感も湧かない死が目の前にある不思議な恐怖だった。
そして呆然とする頭が、状況を理解すると俺は走って電話の前に立った。
何度も110番を押そうとするのに、指が震えて何度も1と2の間を押してしまいたった三つのボタンさえ押せないでいる。その自分の情けなさが苛立ちに変わって終いにはそれは混乱になった。そしてやっとのことでボタンを押し終わってブルルルゥと警察に繋がりそうになった時だった。玄関のチェーンソーの音が止まった。「はい、もしもし。」っと電話がやっと繋がった瞬間、見知らぬ手が俺から受話器を奪い、がしゃんと電話を置いた。振り返ると紙袋を被った小柄な人間が立っていた。そして紙袋を被った人間が小さい声で少しだけ笑うと持っていたチェーンソーの電源を入れ、振り上げた。
俺は死ぬと思った。きっと数秒もしないうちに体を半分に引き裂かれ、真っ赤な血の飛沫を上げて。まさに今、生死の境にいるって訳だと一人だけ冷静な俺は理解する。「死」と言う物が頭に浮かぶと俺は今までの人生で生死の境を彷徨ったあの時を思い出した。あれは一瞬だった。
こんなじわじわ来るような恐怖ではなかった。たった一瞬、強烈な恐怖が襲って次、目を開けたときには大切な人が一人、いなくなっていた。
天体観測をした帰りの高速道路。
運転手の俺と彼女以外は、すっかり寝息を立てていた。俺たちは夜の明るいオレンジの光が照らす道を静かに走り他愛のない話をしながら笑っていた。幾分か走って誰もいなかった道に木材を乗せたトラックが前を通った。俺も疲れていたからそれを何の注意もなく見ていただけだった。次の瞬間には何かが勢いよく飛び散る音が鳴ったかと思うとトラックに積んでいた長い枝を削がれたの木達が俺たちのワゴン目がけて滑り落ちてきた。
死ぬと思った。駄目だと思って咄嗟に目をつぶった。そして俺の胸より下を信じられないぐらい強い力がぐっと押してきて俺は気を失った。
真っ白な部屋の照明が初めに目に入ってきて、そこには誰もいなかった。しばらくして状況を掴んだ俺は生きてるんだとわかると素直に喜んだ。生きてて良かったと、またいつも通りに生きていけると。何も知らなかったその時の俺は、心から良かったと笑えたのに……。
彼女は死んでいた。
目をつぶった瞬間、俺にかぶさるようにして背骨と心臓、肺をつぶし、肺がつぶれ圧迫されたことによって、口から大量の血を吐いて、・・・彼女は死んでいた。
衝撃か何かでレバーが引かれたリクライニング(車のシートの背もたれの角度をかえる機能)によって俺は直撃を免れ、鎖骨が見事に折れてはいたが命に別状ないほどで助かっていた。事故の原因は、緩んだボルトが、木の重さと車の振動に耐え切れなくなり、弾け飛んだらしい。
夜中の高速道路、そこまで車は多くないが、俺たちの車だけが犠牲者じゃなかった。顔をあわせると親は泣いて喜んだ。他の奴らも怪我を負っていた。
病院の中は騒然として、腕をざっくりと切り、血を流し、痛みで泣いている少女や、ベッドでぐったりとしている人。
そして俺は、何も知らず一人部屋で、のうのうベッドの上で、何の疑いもなく、当然のように生きているだろうと思っていた彼女に、また会えると……バカみたいにベッドの上で……勝手に怪我も何も負っていないと思い込んで、ベッドの上で、バカみたいに、見舞いに来てくれるのを待っていた。
自分はなんなのだろう?
なんて馬鹿なんだろう?
なんて浅はかなんだろ?
逆恨みだとわかっていても無情に淡々と現場の状況を語る刑事が憎かった。傷に塩を塗るように事故のことを語らなければならないことがたまらなく嫌だった。何度も何度も「間違いないか?」「それは本当か?」と聞かれてその度俺は心の中が窒息しそうなほど締め付けられて、ちょっとずつ苦しみで気が遠のいて時間が止まっていくように感じた。
彼女は酷い姿で車の中から引きずり出され、即死状態。俺はそんな熱を失い、赤い液体で染まった彼女を腹の上に乗せてのびていただけ。
死体は見なかった。
見なければ、死んだことを嘘だと思うことが出来るから。
葬式にも出なかった。
決定的な記憶を残さなければ、嘘だと信じることが出来たから。
俺は彼女に振られてそれ以来会ってもいない、彼女はどこぞの誰かさんと幸せに・・・なんてそんな空想を頭の中に浮かべてこのどうしようもない喪失感をごまかしていた。そのほうが全然マシだということに、彼女が死んでから気づいた。そうして3年間という時間が過ぎ、俺は心が死んだように何に対しても無気力になり、いつ死んでもいいようなそんな気持ちのまま生きて、予報も告げずにやってきたあの頃はまだ思い浮かべたことなんてない死が未だに受け入れられなくてただ考えていた。人はいつか死んでしまう。必ずその順番は回ってくる。こんなに哀しいことを俺は自分の番が回ってくるまで出会った人の数だけ繰り返す。
喪失感はいつまでも前を向けないで消化できずに心の中で持て余すけど、生きている限り何時まで煮え切れない思いを抱えているわけにはいかないから、それさえ気づかない振りして生きるしかないんだって。もう十分思い知ったよ、「何で」とか「どうして」とかもう言い飽きた。理由を求めてどうなるっていうんだ?過ぎてしまったことを防ぐことはもう出来ないのに、知ってどうなるんだよ?しょうがないことなんだって、どうしようもないことなんだって。心から流してしまうための理由にしたいだけじゃないか。
もういいよ、もうこんなに哀しいことを抱えなくて済む。頭の上の空回るチェーンソーの刃が自分にゆっくりと落ちてくる。俺はこれを望んでいたんだと思い、目をつぶって受け入れた。
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