プロローグ
少年は自分の師匠を探して、人ごみをかきわけていた。
探し始めて、一時間は経っただろうか。
熱心にダンスを勧めてくる少女たちの一団を避けながら、少年はため息をついた。
少年の師匠――マロウ・ウィステァリア伯爵は今日、ここである人物と仕事の話をすることになっていたが、ダンスパーティーの会場に着いた途端、ご婦人連とお喋りを始めたのだ。
その後の、うるさい監視を撒いたやり方は見習うものがあるにしろ、少年はここに着てからずっとイライラし通しだった。
すれ違った女性にヒールで足を踏まれた時、少年はもう師匠を探すことを諦めていた。
社交界なんて嫌いだ。
少年は給仕にアルコール度数の低いカクテルをもらって、壁際に避難した。
懐中時計を見ると、約束の時間から、もう三十分が経過していた。
ちゃんと相手と会えただろうか――?
「やあ、エドガー」
少年は顔をあげた。
金髪の男――今日の密会の相手であるラウール・バシュレが、少年と同じように、片手にカクテルを持って立っていた。
「今晩は、ミスター・バシュレ。師匠とはもう会われましたか?」
「ついさっき、ご婦人の一団から引き離してきたところだよ」
「申し訳ありません」
バシュレと別れた後、少年は額にうっすらと青筋を浮かべながら、再びマロウを探し始めた。
――いた。
かすかに漂う師匠の魔力を辿って(しっかりと魔力の気配を消しているところが憎らしい)、少年はようやくマロウを見つけた。
女性に囲まれて、とても楽しそうにしている。
少年は背後から近づいていって、周りに気づかれないように、マロウの足を思い切り踏みつけた。
マロウはびくりと体を強張らせたが、さすがは社交界の花形、顔色一つ変えずに(かなり痛かったはずだ)、ちらりと少年を見ると、周りに会釈をして少年に引っ張られるままその場を離れた。
「なんだ、機嫌が悪そうだな」
少年は師匠の腕を離し、振り返って睨みつけた。
「仕事はどうされたんですか」
「ちゃんとやったさ。君も堅いねえ」
少年はため息をついた。
「終わったなら、早く『あの方』に連絡してください」
マロウは肩をすくめると、ちょっと辺りを見回して言った。
「君はいつも壁の華を決め込んでいるな。少し踊ってきたらどうだ?」
「結構です」
「私と一曲踊るかい?」
少年はあからさまに嫌そうな顔をした。
「気持ち悪い。男と踊って何が楽しいんですか」
「じゃ、今度はドレスでも着ておいで」
「嫌味ですか?」
「かわいらしい顔をしてるから、いけるんじゃないかと思っただけだよ。
しかし、後二、三年経ったら女装はきついかな。
そうだ、今度どこかに潜入する機会があったら、試してみるか?」
「冗談ばっかり言ってると、明日の朝食に毒を盛りますよ」
師匠は降参だというように、ふざけて両手をあげた。
「わかった、そう怒るな。我が弟子ながら、ジョークの通じないやつだ……首領には帰ったらすぐに連絡を入れるよ」
「そうしてください」
「帰ったらね」
少年はもう一度懐中時計を取り出して時間を確認したが、それがいけなかった。
顔をあげた時、少年からずっと離れたところで、マロウ・ウィステァリアのロングコートの裾が、人ごみの中にするりと消えた。
少年は忌々しそうに呟いた。
「あの、くそったれ!」
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第一章・秘密の首領(シークレット・チーフ)
少年の名前はエドガー・マクレーン。歳は十六。秘密結社「セイレーンの嘆き」の入団者の中では最年少だ。彼は入団してすぐに、五人いる組織長のうちの一人に弟子入りした。それが社交界の花形・ウィステァリア伯爵だ。普段はのんびりしているが、エドガーはそれが本当の彼ではないと知っている。そうしたければ、マロウ・ウィステァリアは視線だけで人を殺すことだってできるだろう。もちろん、魔術的な意味合いではなく。
マロウだけではない。『セイレーンの嘆き』に限らず、どこの秘密結社でも、組織長というのはそういうものだ。そして、組織長よりさらに恐ろしいのが、秘密の首領(シークレット・チーフ)と呼ばれる者だ。
マロウの前では平然を装っているが、エドガーは首領が苦手だ。いつも不気味な仮面で顔を隠しているので表情が読めないし、何よりあの仮面から覗く血のような赤銅色の目が嫌でたまらなかった。常に何かを警戒している、狩人の目だ。
「エドガー」
屋敷に戻った時、マロウがエドガーの肩に手を置いた。
「今日はもう遅い。真っ先に部屋にいって、寝たほうがいいんじゃないか?」
「首領が許さないでしょう……」
エドガーは疲れた顔で、肩からマロウの手を外した。
「気づいていたんですね」
「君が首領を恐れていることを?」
「恐れているんじゃありません。苦手なんです」
エドガーはむっとして言い返すと、マロウはちょっと笑って言った。
「皆そう思っているよ。なるほど、統率力はあるが一緒にいて楽しい相手ではないからね」
「あなたは楽しそうですよ」
「恐いもの見たさってやつさ」
マロウはシルクハットとコートをエドガーに渡して、魔術師のローブに着替えた。
「本当に大丈夫なのか?」
「ええ。さっさと終わらせていただければ」
マロウはため息をついて言った。
「君も不運な子だ。よりによって、首領に気に入られてしまうとはな」
エドガーは複雑な顔をして答えた。
エドガーが『セイレーンの嘆き』に入団したのは一年前。彼を引き入れたのは、首領その人だった。おそらく、組織の中で直接首領と会ったことがある者は、組織長以外ではエドガーだけだ。その組織長ですら、普段は魔術による交信で支持を仰ぐ。
今日もそうだ。エドガーはチョークで魔方陣を描き、交信の準備を整えた。エドガーがチョークを箱に入れて下がると、マロウが呪文を唱えた。部屋の四辺で揺れていた蝋燭の炎が消えて、魔方陣が緑色に輝き始めた。いよいよだ。
魔方陣の中心に、首領の姿が現れた。仮面、ローブ、赤銅色の瞳。首領の目がマロウをとらえ、次にエドガー、それから再びマロウに戻った。
「ウィステァリア伯爵。報告を聞こう」
「今日のパーティーで他の組織の幹部にも確認しましたが、やはり間違いありません。次の木曜日に発行予定で、前回のシュトゥルムヴィント社ではなく、『モデルン・タイムズ』を発行しているプラティーン社から出されるそうです。題名はこの間と同じ『薔薇の宣言書』、副題は『魔術の発展』。ページ数と内容はまだわかっていません」
首領が舌打ちをした。
「著者は見つかったのか?」
「いえ、まだです」
「徹底的に調べ上げろ。こんなものをばら撒かれ続けたら、秘密結社は自由に身動きが取れなくなる。手段は問わない。見つけたら潰せ」
「今日接触した『冥界の門』の組織長はこの件に関して協力したいと申しておりましたが、どうされますか」
「お前に任せよう。他の組織長にも連絡しておけ。エドガー」
急に名前を呼ばれたので、エドガーはぎくりとした。
「はい」
「マロウとは別の方向からその者を追え」
「エドガーにやらせるのですか?」
さすがのマロウも、これには困惑したようだった。
「お前が入団してから一年が経つ。そろそろ任務を与えてもいい頃だろう」
「しかし……」
「同じことを二度も言わせるな」
首領の声が危険をはらんだ。
「エドガー、できるだろう?」
もちろん、答えはノー。実在するかもわからない人間を、それも師匠の力なしでやろうだなんて無茶だ。だいたい、昼間は大学に通う平凡な医学生に、どの方向から調査しろというんだ?
頭を過る言葉は、どれも「ノー」に属するものだ。しかし、ここで断れば、どんな目に遭うかわからない――首領は同じ言葉を繰り返すのも嫌いだが、もっと嫌いなのは、任務を遂行できない者だ。
目の前にある危険か、少し先の叱責か。つまるところ、選択肢など始めからないのだと気づいて、エドガーは内心ため息をついた。
「あなたのご命令とあれば」
「期待している」
交信が切れた。エドガーは息を吐きながら、壁にもたれた。
「本当に出来るのか?」
「やるしかないでしょう」
「私もサポートはする。しかし、首領は何を考えているのだろうな?」
「それがわかったら苦労はしませんよ」
マロウがそれもそうだと肩をすくめた。
「これからどうするつもりなんだ?」
「明日『冥界の門』に接触します」
「ついて行こうか?」
エドガーは少し考えたが、首を横に振った。
「あなたの邪魔はしたくないんです。まあ、出来るだけのことはやってみますよ」
「やるからには、手抜かりは許されないぞ」
マロウの碧色の目が、エドガーをじっと見つめた。挑戦的にその目を見つめ返した後、エドガーはドアノブに手をかけた。
「わかってます。おやすみなさい」
そのまま振り返らずに部屋を出ていったので、エドガーにはマロウ・ウィステァリアがどんな顔をしていたのか見えていなかった。
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第二章:コーヒーハウス
エドガーは講義が終わると、すぐに教材を鞄に突っ込んで、教室を出ようとしていた同級生を呼びとめた。
特別に親しいというわけではないが、二人にはある共通点がある。
振り向いたラッセル・ラドフォードの目が、意味ありげに細められた。
秘密結社に属する者が見せる、独特の目つきだ。
「話したいことがあるんだ」
「ああ、この前のことだろ?」
ラッセルがさりげなく言った。
「図書館に行こう。資料室がいいな。あそこなら、誰も来ないし」
最後の一言は小声で言って、エドガーとラッセルは一緒に教室を出た。
――ラッセル・ラドフォード。
秘密結社「冥界の門」のメンバーで、エドガーと同じように、一年ほど前に入団したばかりだ。
最近は例の「薔薇の宣言書」の調査にあたっている、とマロウから聞いたので、一緒に調査を進めてみるのもいいだろう。
ラッセルも、「セイレーンの嘆き」が「冥界の門」と協力関係を結んだことはもう知っているだろう。
資料室のドアを後ろ手で閉めて、ラッセルがにやりと笑った。
予想通りの顔だ。
「面白いと思わないか? どこの秘密結社も必死になって探し回っているのに、まだ何の情報もないんだからな」
「面白くなんかないよ。白紙の調査表なんか提出したら、首領は僕を殺しかねない」
エドガーが真面目に言うと、ラッセルは小さく笑った。
「そうだろうなあ。ま、シークレット・チーフなんてどこも同じようなもんだけどさ。お前もこっちに来ればよかったのに」
「もともと、秘密結社に入るつもりなんてなかったんだ」
「へえ?」
ラッセルがそちらの方に興味を示したので、エドガーは慌てて話を戻した。
「『薔薇』の話だけどさ、一緒に調査するっていうのはどうかな? 今日はそれを言おうと思ってたんだ」
「こういう場合、下っ端のほうが行動しやすいしな」
ラッセルが手を差し出したので、エドガーも握手に応じた。
「じゃ、これなんだけど……」
エドガーが、発表された文章、その内容を、自分なりに細かく分析したノートを取り出すと、ラッセルはちらっと見ただけで、鞄の中に戻してしまった。
「おい……」
「だめだめ。部屋の中に閉じこもってペンを走らせるだけで、ターゲットが捕まると思うか?」
「じゃあ、どうするんだよ」
ラッセルが悪戯っぽくウィンクをしてみせた。
エドガーは思いっきり顔をしかめた。
「パブなんか嫌だぞ。この時間帯にあんな場所に行ったら、からまれるだけだ」
「だから、それよりももう少し高級な場所で」
「コーヒーハウス?」
「ご名答。知識人の溜まり場だからな、あそこは。俺たちみたいな大学生が相手なら、誰かがぽろっとこぼすかもしれないだろ?」
「何だか運任せのような気もするけど……」
「まあ、いいから行こうぜ。諜報員の鼻を信じな」
ラッセルに腕をひかれて、エドガーはしぶしぶ頷いた。
エドガーとラッセルはコーヒーハウスに入ると、店の中央にあたる場所を選んで座り、低くも大きくもない、しかし、ある程度周りに聞こえるような声で、いかにも知的好奇心に飢えた大学生らしく議論を始めた。
あれほど有名な医者であったパラケルススが、何故一般の教材に載っていないのか、という議論で、医学の話は少しかするだけにとどめておいて、二人は巧みに錬金術と化学の分野に話を進めていった。
間もなく、同じように議論をかわしていた大人たちがこの話に興味を持って、二人の周りに集まってきた。
ラッセルが本気で語り始めたので(まるで大統領の演説のようだ)、エドガーは聞き役に回った。
「やあ、君たち大学生?」
ラッセルの熱弁を聞いていた男が、エドガーに声をかけてきた。
「ええ、医学部です」
「オカルトに興味があるのかい? 詳しいみたいだけど」
「少しだけなら知ってますよ」
「今はオカルトブームだしな」
もう一人が話に入ってきた。
「ほら……なんだったかな。『薔薇の宣言書』とかいう……」
「聞いたことはあるんですけど、あれって何なんですか?」
エドガーは何も知らないようなふりをして、周りの人に説明を求めた。
それぞれ自分の知っていることを話し出したが、どれも一般的な説明ばかりだ。
「へえ……面白い話ですね」
エドガーは上着のポケットからハンカチを取り出したが、実際はハンカチに包んでおいた、藍色の石を見ていた。
近くに隠れた魔力を感じると、熱を発して所有者にその存在を知らせるというものだ。
だが、あいにく、このコーヒーハウスには魔力の欠片もなかった。
エドガーは心の中でため息をついた。
もともと、おしゃべりはあんまり得意じゃない。
捜査のためなら我慢するが、このまま何の確証もないままここを見張るのは、どう考えてもばかげている。
エドガーはトイレに行くふりをして、店の隅に退却した。
もちろん、数あるコーヒーハウスの中で、ここを選んだのは気まぐれではなかった。
ラッセルが法学部の友人に聞いた話によると、このコーヒーハウスにはよく、オカルトと化学について話す人物が来るらしい。
それも、ここ最近のことではなく、ずっと前からだという。
上流階級の服装で、不思議な雰囲気を持った人物……この人物に焦点をあててみるのは、エドガーもなるほどと思ったのだが……長期戦になりそうな気がして、エドガーはため息をついた。
「こんにちは」
帽子を目深にかぶった男が、エドガーの前に立っていた。
「隣に座っても?」
「ええ、どうぞ」
エドガーは少し緊張した。
上流階級の服装、不思議な雰囲気。
まさか――?
「たまたま通りかかったら、ラドフォード君が見えたものだからね。多分、君は奥のほうにいるだろうと……」
エドガーは深々とため息をついた。
「マロウ……」
ウィステァリア伯爵が、茶目っ気たっぷりに帽子を少しだけ上にずらした。
「あなただったんですか」
「何がかね?」
「このコーヒーハウスによく来る、上流階級の服装のオカルト好きの客」
「さあ。確かに、私はこのコーヒーハウスに時々顔を出すよ。もしかして、君たちは私を追っていたのかな?」
「そういうことになります」
エドガーはそれ以上、何も喋る気にならなかった。
時間を無駄にしたばかりか、マロウに失態をさらすなんて、最悪だ。
エドガーが立ち上がろうとすると、マロウが腕をつかんで、耳元に唇を寄せた。
「誰かがずっと君を見ている」
エドガーは硬直した。
「誰が?」
「知らないよ。あそこのカウンターの席の男だ。君も不用心だね。気づいていなかったのか?」
エドガーは苛立って、その男を睨みつけた。
しかし、動揺したのは相手ではなく、エドガーのほうだった。
エドガーはその男を見るなり、コーヒーハウスの扉に突進した。
マロウですら驚く反応だった。
「お待ちください!」
男が慌てて引き留めようとするが、エドガーは男の腕をするりとかいくぐり、大通りを走りぬけた。
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