離脱

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 気が付くと、そこには俺の体があった。

 ん?

 死んじゃった?

 見回すと、そこはいつものオフィスだった。

 俺がいて机があって、その前にはパソコンが置いてある。机に突っ伏した俺の体は、とても死んでいるようには思えず、ただ単に眠っているだけのように見える。

 しかし、ああ、俺は死んでしまったのだなあ、と思った。二十五年という短い生涯だった。

 だだっ広いオフィスでは、俺以外にも机に突っ伏している姿がたくさん見える。昼休み中だったから、きっと居眠りなのだろう。でも、そこにいる俺だけは死んでいるのだ。

 そういえば、今朝から胸の辺りが痛かった。それが予兆だったのだろう。

 こうして眠る俺の姿が、とてもいとおしい。もう、この体には戻れないのだろうな。そんなことを思いながら身を寄せる。

「あ!」

 顔を上げると、見飽きた眺めだった。

 戻っている。

「突然叫ぶなや」

隣席の天野に言われ、夢だったと気付いた。同時に、とても恥ずかしくなった。

「お、ああ。うん……」

 俺は、答えながら口元のよだれを拭う。

 ──なんだ夢か。夢か。そりゃ、うん。

 胸の痛みがなんとか思ったのはなんだったんだ。気のせいっちゅうか、そう思ったことが恥ずかしい。

 オフィスに掛かった時計を見る。

 1時だ。

 そう思ったとき、始業の鐘が鳴った。

 

「なんだこりゃ。お前、ホント使えんな」

 対面に座るもぶおが、またチーフに怒られている。

「ここのフローチャートでバツになって、どうしてその下が全部丸なんだ。おかしいだろう。お前、フローチャート知らんのか」

 もぶおが怒られていても、いつものことだとわざわざ振り返る人もいない。俺も同じだが、声だけはどうしても聞こえる。

「すいません……」

 もごもごっともぶお。──本当は信夫と言うが、いつしか誰かが言い出して定着した。いつから誰が言い出したのかは定かでない。

「お前がミスすると、俺が文句言われるんだぞ。ちったあ俺の身にもなれ。俺の足を引っ張るな。俺もヒマじゃないんだ」

 チーフはひとしきり怒ったあと、自分の席に帰って行く。

 チーフの怒り方というのは、相手に対する配慮がなく俺も嫌いだが、もぶおにも問題があるのは事実だ。とにかくミスが多い。とはいえ、やっぱりチーフの言い方はひどい。上司とはいえ、年上のもぶおにする態度ではない。確か三十歳くらいだったと思ったが、こんなのが上司だと思うと嫌になる。

 と、顔を上げたもぶおと目が合った。にや〜っとするもぶお。気持ち悪い。

「もぶさん。そのフローチャート分かります? 分からなかったら言って下さい」

「うん。大丈夫」

 ホントかいな。俺もヒマじゃないが、もぶおにもうまくやってもらわないと、こっちの仕事にも影響が出る。

 中途半端に伸びた髪は脂ぎっていて、黒縁の眼鏡はフケだらけ。ゲーム、アニメが好きな絵に書いたような三十二歳のオタク。女子社員は近付くのも嫌がる。

 それでも俺は、もぶおが嫌いではない。悪い人ではない。彼なりに一生懸命やっている。

 だからと言って、好きでもないが。

   2

 まただ。──俺の体がそこにある。

 昼休み。俺の体は机に突っ伏して寝ている。……ように見える。

 昨日は夢だったから今日も夢なのだろうと、夢の中で俺は思う。

 動いてみる。──動ける。

 隣りの席では、天野が俺と同じように寝ている。対面ではもぶおも同じく。そして、向こうの列の机では、映子がパソコンに向かって何かを見ている。──何を見ているんだろう。ネットなのだろうが、ネットの何を……。

 俺は、もぶおの頭上を飛び越え映子に近付く。浮いているという感覚はないが、見える景色はまさにそれだ。見慣れたオフィスが違って見える。

 映子のパソコンをのぞく。何のことはない。ヤフーのニュースを読んでいる。俺もさっき見てた、同じニュースだ。芸能人の誰と誰が結婚したとか、新種のカエルが何とか。

 ──それにしては、リアルな夢だ。パソコン画面の一字一句が読み取れる。俺もさっき見たニュースだから、夢がそれを再現しているだけなのだろうか?

 パソコンを見る映子の顔を見る。

 ボーッとしている。何だか眠そうだ。

 ──でも、かわいい。

 白い肌と丸い目と顔が愛らしい。愛くるしい。こんなに近くで映子を見るのは初めてだ。

 左の眉の横にホクロがある。一見眉毛と見間違えるが、こんなところにホクロがあったんだと思った。

──キスしてやろうか。

 下心が盛り上がってきた。それと同時に、本当に映子には俺が見えてないんだろうかと不安になった。

 映子が目を閉じた。

 あれ? キス待ち?──の訳はなく、映子は机に顔を伏せた。眠たい。そういうことなのだろう。

 本当に映子には俺が見えていない。そう思うと、下心はエスカレートしてくる。

 映子は二十一か二くらいの年齢で、実をいうとほとんどしゃべったこともない。ただ、同じ職場にいるから、お互い知ってはいるはずで。

 眠る映子の髪に触れてみた。──が、触れるという感覚はなかった。行き止まり。そんな感じだった。

 背中に触れてみる。──何の感覚もない。

 腰、肩、それと胸。──やはり、触れるという感覚はなかった。

 がっかり。

 こうなったら、机の下に潜り込んでパンツでも見てやろうか。エスカレートした下心を満たすには、それぐらいしかない。

(ちょっと! 何やってんの!?)

 声がして、俺は声のした方を見る。

 声のした方──右を見た。誰もいない。

 左を見る。後ろを見る。やはり誰もいない。

 もう一度右を見る。

 誰もいない……のだが、何かがいる。それは分かった。

(え……と、何か?)

 俺はそいつに言ってみた。

(何か、じゃないよ。エッチなこと考えてたでしょ、新井君)

 名前を呼ばれた。なぜ、と思うと同時に、こいつは女だなと分かった。声でもなく、話し方でもなく感覚で。

(そんなことはない)

 俺が弁解すると、

(うそばっかり。だいたい男って、エッチなことばかり考えるからね)

 図星以外の何でもないが、

(違うんだけど)

 と、言っておく。

 やばいな。やりたい放題と思ったが、何だかやっかいな奴が出てきた。ヘタをすれば変態扱いされる。

(ま、でも、仕方ないか。腹は立つけど、新井君も男なんだから。ちょっと楽しむくらいはね。どうこうできるわけでもないし)

 そいつは、妙に理解のあることを言った。それと同時に、何なんだこいつは。そう思った。

 まず、こいつはなぜ俺の名前を知っている。そしてこいつは誰なのか。そもそも、今はどういう状態なのか。夢……じゃないのか。

(アンタは誰だ?)

 声──なのか──にしてみた。

(秘密)

(何で?)

(何ででも)

(でも、どうしてアンタには俺が分かる?)

(それも秘密)

(何で?)

(何ででも)

(アンタは誰だ?)

(秘密)

 ラチが明かない。

 俺は、机に顔を伏せた映子を見やる。

 まさか、とは思う。期待もある。不安もある。

(映子?)

 言ってみた。

 返事がない。

(違うのか?)

 やはり返事がない。

(聞こえてる?)

 そう言うと、

(聞こえてる)

 ようやく返事があった。

(アイ)

(え?)

(アイ。名前が必要なら、そう呼んで)

(……ああ、うん)

 映子じゃないのか……? そういえば、俺は彼女をそう呼んだこともなければ、親しく話したこともない。映子、なんて呼ばれて戸惑ったのだろうか。

(時計を見て)

 アイは言った。(そろそろ時間よ)

 掛時計に目をやると、1時になろうとしていた。

(戻って戻って。早く早く)

 アイは急かすように言う。

 俺は振り返り、俺の机で伏して眠る俺を見る。

 鐘が鳴った。始業の鐘だ。 

俺は空中を泳いで机に戻る。俺は俺に体を合わせる──。

 始業の鐘が鳴っている。

 顔を上げると、周りも同じように顔を上げ出した。お昼寝タイムの終了だ。

 映子の方を見る。──映子も今起きたようだった。

 そういえば、アイはどの体に入っていったのだろう。見ておけばよかった。

 そもそも、あれは夢なんだろうか。映子の服装も髪型も、さっき見た通りだ。それとも、眠る前に俺が記憶していたんだろうか。

「ぼーっとしてないで仕事しろ」

 見ると、そこにチーフが立っていて文句を言われた。

「あ、はい」

 やかましい奴だ。起き抜けにぼーっとするくらいいいだろう。アンタだって、今便所から戻ったんだろう。

 いわゆる、幽体離脱という奴ではないかと思う。あれが夢じゃないとするならば。

 パソコン画面のフローチャートの色を変えながら、そんなことを考える。──フローチャートの青色はオッケーという意味。

 二日連続でこんな夢があるか。しかも昼休みに。

 本当に幽体離脱であるならば、どうしてそんなものができるようになってしまったのか。死期が近い。そういうことなのだろうか。

 ふと、香水の匂いがした。──いい、匂い。

 見ると、映子がチラシをそれぞれの机に配っていた。──映子は、会社の配布物を配ったりする役目がある。

「はい」

 そう言ってチラシを手渡されたとき、映子と目があった。

 左の眉の横にホクロがあった。一見眉毛と見間違える。

 映子は俺と目が合ったとき、少し微笑んだ──ように見えた。

 チラシは労働組合の何かだった。賃金値上げが何とか書いてある。

 映子。俺に惚れてるな。

 そう妄想すると同時に、夢じゃない。そう思った。

「お前、ただでさえダメなのに居眠りか」

 チーフの声がして、俺は顔を上げた。

 もぶおの前にチーフが立っている。一瞬、俺のことかと思った。昼を過ぎて眠たくなっていた。

「す、すいません」

 どもってもぶおは言った。

「本当にコイツは……」

 チーフはそう言いながら、怪訝な顔をした。

「ん? お前、ボッキしてるじゃねえか。この、ど変態め」

 チーフのその言葉に、辺りが顔を上げた。怒られているのはいつものことだが、何だかおかしなことになってるぞ、と。

「どう思う、映子」

チーフは、もぶおの斜め後ろの席、映子に話し掛けた。

「え? いや、あの……」

 映子は困っているようだった。そりゃそうだと思う。少し紅潮している。

「変態だろ?」

「あ、ええと。どうなんでしょう……」

 映子は言った。

 そんな返事しか出来ないだろうと思う。かわいそうだ。

「まったく」

 と、チーフは満足したのか、

「ボッキしてるヒマがあったら仕事しろ」

 楽しそうに言ってからその場を去った。便所にでも行ったのだろう。

 ──昼の眠たいときにボッキしてしまう。これは一種の生理現象で、よくあることだ。チーフにだって。それをことさらに言う。なんてイヤな奴なのだろう。

 もぶおを見ると、ふと目が合った。

 微笑んでおいた。もぶおも苦笑いした。

 うーん。笑ってやれば、ちょっとは救われるんじゃないか。……そうでもないか。

さすがに、ちょっと気の毒だった。

 四年くらい前だっただろうか。俺ともぶおは、同じ時期に同じ職場に異動されてきた。

 村上チーフは最初からこの職場にいて、その頃はまだチーフではなかった。ただ、一流大学を出ていたこともあって、若くてもチーフに昇格することは決まっているようなものだった。

「村上の奴、いちいちムカつきますよね」

 俺がそう言うと、

「うん」

 と、もぶおが返す。そんな会話が何度繰り返されたことかと思う。仕事の出来ないもぶおは矢おもてに立たされることが多かったし、なおさらだったと思う。

 あるときから、もぶおは会社を休みがちになった。村上が原因だ、とすぐに俺は思った。

 朝の始業時間になっても、もぶおが席に座っていない。すると、会社の電話が鳴る。

「病院に行くから休みます」

 と、俺が電話を受けることもあった。

「あのバカ。胃潰瘍らしいぞ」

 村上が電話を受けたとき、そんなことを言っていた。

「あいつが胃潰瘍なら俺は胃ガンだ!」

 とも言っていた。なんだか、それには本当に腹が立った。

 もぶおは、とうとう月のうち半分も出て来なくなった。胃潰瘍だからといって、そうそう休む理由にはならないはずだ。

 会社、辞めるのかな。

 心配になって、もぶおのアパートを訪ねた。

アニメのフィギアや、アイドルのDVDがたくさん置いてあった。最新のゲーム機が、なぜか二台あった。聞くと、一台は初期型限定品なので、保管用なのだそうだ。

「すげえっスね」

 俺はそう言っておいた。

 ゲームをした。映像がキレイだった。さすが最新機種だと思った。

「会社、ちゃんと来ないとダメっスよ」

 俺が言うと、

「……うん」

 とは言っていた。ただ、他人がちょっと言っただけで直るようなもんでもないことは、明白だった。

 その後も、何度かゲームをしに行った。俺もゲームは嫌いじゃないし。

 そのおかげ、というわけじゃないだろうが、やがてもぶおはボチボチ会社に来るようになった。

 相変わらず村上はうるさく、もぶおは仕事ができなかったが、とりあえず俺は、もぶおのフォローだけはしてやろう。それなりに味方をしてやろう。そう思うようになった。

 仕事を終えて、一人暮らしのアパートに帰って飯食ってテレビを観て寝た。

 幽体離脱するかと思ったが、しなかった。

 次の日の朝起きて、やっぱり夢だったのかな。そう思った。

   3

 朝、出社するとまず、自分の名前が書かれたホワイトボードに「出勤」のマグネットを貼り付ける。そして、自分以外のメンバーの状況を何気に見る。

 もぶお「出勤」もう来てる、映子「帰宅」まだ来てない。……村上「有休」休みだ。

「おお、やった」

 と思わず小さく言うと、

「あ、ホント」

 と女の声がした。

 見ると、映子が俺の隣りに立っていた。目が合って、お互い微笑んだ。

「おはようございます」

 俺が言うと、

「おはようございます」

 映子も言った。

 俺はホワイトボード前を離れながら、相手は年下なのだから、おはようございます、じゃなくて、おはよう、でよかったんじゃないか。その方が親近感を持てたかなあと、後悔した。

 昼休みになり、うとうとしてきたので机に顔を伏せた。

 目を閉じる。眠る。体が浮いてくるようなこの感覚……。

 ──抜けた。

 三日連続だ。

 夜はない、昼だけのものなのだろうか。この感覚を覚えていれば、夜も可能だろうか。

 辺りを見回す。

 やっぱり夢ではないと思う。リアル過ぎる。

 上から見下ろすオフィスは、不思議と神聖に思える。──実際そうなのかもしれない。どんなにふざけた人間でも、ここでは真剣にならなければならない。

 もぶおがいる。映子がいる。天野やその他の同僚がいて、部長、課長がいる。

 気付くと天井にぶつかっていた。もちろん、ぶつかったからといって痛みなどはない。

 下々の者を見下ろす。

 俺は神になった。──そんな気がした。

 見ると、映子がケータイを扱っていた。カチカチとボタンを連打している。きっとメールを打っているんだろう。

 ──誰に打っているんだろう。

 男……だろうか。

 少し躊躇したが、俺は彼女の元へ降りていった。

 映子の顔の横から、ケータイを覗き見る。

『送信しました』

 と、出ていた。

あら。見れなかった。ちょっとがっかり。

 そして映子は、ケータイを折りたたんだあと、俺の方を見て少しにらんだ──ような気がした。

 ドキッとした。

 見えているのか? まさか。

 俺は映子の机の上に乗り、その表情をうかがってみた。

 何も気が付いている様子はない。やっぱり気のせいなのだ。

 ふと、窓の外を見た。

 今日は天気がいい。ブラインド越しに青空が見える。

 あの窓の外に行けば、俺はどれだけのことができるのだろうか。この狭いオフィスにいて、中途半端に自分の欲望だけを満たすのはバカらしい。もっと大きなことができる。

 昨日も夜、布団に入っていろんなことを考えた。

 例えば、ライバル企業に行って機密情報を入手したり、政治家の汚職を暴いたり。核平気を開発する独裁国家へ潜入し、世界平和に貢献することもできる。

 そして独裁国家のみならず、女風呂へも潜入するのだー!

 ……やっぱり大きなことを考えてみても、テンションが上がるのは自分の欲望だ。人間とはそういうものなのだろう。

 そういえば昨日、俺のジャマをした『アイ』はいないのだろうか。映子が眠っていないから、『アイ』もまだいない。そういうことなんだろうか。

 俺は天井へ浮かび上がってみた。

 オフィスを見回す。『アイ』はいないかどうか。

 ん? 何かいる。目に見えるわけではないが、それが分かる。

 あれは……村上チーフの机だ。村上は今日は休みだ。あんなところで何をしている。

 話し掛けるべきか、やめるべきか。迷いながら俺は近付いてみた。

(やあ新井君)

 先に声を掛けられた。

(ああ)

 俺は答えながら、『アイ』じゃないとすぐに分かった。何しろ、こいつは男だ。

(僕はエヌ。村上を困らせようと思って、何か探してる)

 エヌと言ったそいつは、いきなりそんなことを言った。

(あ、ああ。そうなんだ)

 俺は、とりあえずそう答えておいた。

(この能力は自分の欲望を叶えるためのものだ。僕は村上が嫌いだ。ノイローゼにして、最終的には自殺してもらおうと思っている)

なんだかこいつは、とんでもないことを言いやがる。

(そんなことはできないよ)

 俺は言った。

(いや、できる。君だって村上は嫌いだろう。力を合わせよう)

(嫌いだけど、殺すまでは思えない)

(そうか。じゃあ仕方ない。僕一人でやるしかないな)

(ああ。そうしてくれ)

 こいつはなんなのだ。殺すなんてことを平気で言う。

(ここには村上を困らせられるようなものはないなあ。やっぱり家だなあ)

(家? 家にも行ったのか?)

 俺が聞くと、

(まだだけど行くよ。まずは奥さんの風呂でも覗いてやろうと思うし、夜の生活だって見てやろうと思う。その感想を書いて嫌がらせの手紙を送ろうとも思ってる。とにかくアイツの秘密を暴露してやる。通帳の残高も見て、銀行の暗証番号も見てやる。それをみんなにバラすんだ)

(それはやり過ぎだ)

(やり過ぎなんかない。アイツが死ぬまで僕はやる)

(どうして……)

(君には分かるのか。僕がどれだけ辛い思いをしてきたか)

(いや、でも……)

──仮にどんな理由があろうとも、そんなことは許されることではない。

(はい。終わり終わり。時間よ)

 突然、女の声がした。

(ああ、アイか)

 俺は言って、声のした方を見た。

(もう鐘が鳴るよ)

(うん)

 と、答えながらエヌの方を見ると、その気配はもうなかった。

 始業の鐘が鳴った。

(早く戻って)

 アイが俺を急かした。

(うん)

 俺は答えるが、アイがどの体に戻っていくのか突き止めたい。

 俺は自分の席を見る。

 俺の体は、机の上に伏せて起きる気配がない。当たり前か。隣りの席の天野が起きた。そして、向かいの席のもぶおが起きた。

 ──映子。机に頬杖を突いて寝ていたようで、今体が動いた。そして、背伸びを始めた。

 アイは?

 今までいたところには、その気配も、もう感じられなかった。

 始業の鐘が鳴り終わった。机に伏せて寝ているのは、もう俺だけだった。

 急いで戻らねば──。

 そう思うと、驚くほど早く動けた。一瞬で俺は俺に戻っていた。

 光速。まるで光にでもなったかのような速さだった。

 勢い余って、体をびくつかせながら飛び起きると、

「なーにやっとんだ、お前」

 と、隣りの席の天野にバカにされた。

 向かいの席のもぶおも、微笑んでいた。向こうの席の映子は──俺のことなど見てはいなかった。

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