僕がここにいる理由。二章。

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「その本、面白い?」

 図書室で本を読んでいると、後ろから小林に話かけられた。

「うん」

 オレはそっけない返事をする。

 あの日から気分のいい日が続いていて、行く時間はバラバラだけど、毎日保健室に行けるようになった。昼休みは図書室で小林といることがほとんどだ。とはいってもオレはずっと席について本を読んでいて、小林は本棚の整理とか図書委員の仕事をしているから会話は少ないのだけれど。

「じゃあ、次、オレが読もうっと」

 なんてことを言いながら小林は本棚を整理していた。小林は「あー」とか「まだ返してないなぁ」とかいう言葉を連発して本棚を整理している。

「ごめん、竹内くん、机のに置いてあるオレの筆箱持ってきて」

 視線を本から机に移した。でも、広い机のどこにも筆箱らしきものは見当たらない。

 ふと、奥の席に目をやった。そこには学校の指定カバンが置いていた。小林のものだった。

 オレは席を立って小林のカバンに近づいた。

「小林、筆箱カバンの中だろ。開けるぞ」

 カバンのファスナーに手を伸ばした。

 途端、声がする。

「ごめん! やっぱりいい!」

 小林が叫んだ。聞き慣れない大声で少し戸惑ってしまう。小林は奥から駆け寄ってきて、オレの手からカバンをひったくるようにして取った。

「ごめん。……ホント、ごめん」

 小林はカバンをきつく抱きしめていて、申し訳なさそうにオレに何度も謝った。

「あ……うん、オレの方こそ、ごめん」

オレはその様子にあっけにとられて口ごもってしまう。

そうして小林はカバンの中から筆箱を出した。白い紙を机の上に置いて「図書委員会からのお願いです。期日を過ぎた本は必ず返しましょう」太いペンで書いていた。それを、図書室のドアのところに貼っていた。

 オレは小林の書いた紙を見ていた。頭の隅で何かが引っかかったような気がした。

 小林とは一緒に帰るようにもなった。家が近かったからだ。小林の友達はみんな坂のふもとに住んでいるらしく、ひとりだけ残されてしまうのが嫌らしい。

 オレがどういう生徒なのかも知っていた。小林は「気にしてないよ」と言ってくれた。

 一緒にいてもあまり話さないけれど、考えてみればそんなに楽しいこともないのだけれど、それでもいてくれると嬉しかった。小林といると広橋さんといるのと似たような気持ちになれる。

 広橋さんは大人のクセにうるさくない。「あれをしろ」とか「これはこうだ」とかいうことを言わない。そういう意味では変な大人だなと思った。

 オレに保健室を紹介してくれたのは広橋さんだった。オレがまだ学校まで行けない時、信号待ちで一緒になったことがある。その時広橋さんは小西先生に頼まれたお使いの帰りで、マウンテンバイクに乗っていた。

 信号が青に変わると、広橋さんはペダルを踏み込んで横断歩道を進んでいった。オレは足に力をいれるけれど、前へ踏み出すことができない。その時のオレは、そこまでしか行くことができなかった。

 途中まで進んだマウンテンバイクが止まった。広橋さんがこっちを振り向いて、オレと目があった。広橋さんは青信号が点滅しはじめたのを確認すると、オレの方に戻ってきた。

「学校、行かないのか?」

「体がこれ以上前に進まないんです」

 広橋さんは近くの自動販売機で缶のミルクティーを買ってくれた。適当な段差を見つけて腰掛けた。広橋さんは自分のことを話しはじめた。学校の校務員であること、小西先生のお使いでここにいること、二十七歳であること。

 それからしばらく沈黙が続いた。オレたちはただひたすら、目の前に広がる田園風景と、抜けるような青い空をぼうっと見つめていた。

「説教……とか、しないんですか?」

 聞こう、と思って言ったわけじゃなかった。言葉が自然と口からこぼれた。

「なんで?」

「だって、もう二時間目始まってるんですよ。まだこんなところに居たら……」

「でも、体が進まないんじゃ、しょうがないだろ」

と、小さく笑っていた。広橋さんを変な大人だと思ったのはたぶんこれが最初だ。

気付けばミルクティーは空になっていて二時間目も終わっていた。その間に広橋さんと短い話をいくつかした。早く戻らなくていいんですか、とか、最近学校で何かありましたか、とか、自分のこと好きですか、とか。

広橋さんの答えはどれもはっきりしなくて、うやむやにされてしまったものも多かった。

 考えたら最初に話かけられたのを除いて、全部オレから話かけている。ずっと人と話すのが億劫になっていたので、そんなことができた自分に少し驚いた。

「そろそろ戻るよ。小西先生に怒られる」

 広橋さんが立ち上がり、マウンテンバイクにまたがる。横断歩道の信号が青になった。

「あ、あのっ!」

 広橋さんがこっちを振り向いた。

「また会えますか? 話、できますか?」

「保健室! いつでもこい! 待ってるから!」

 そう言うと広橋さんは前を向いて、坂道を一気に下っていった。

 これはあくまでオレの憶測なんだけど、広橋さんははじめからオレがどういう生徒か知っていたのかもしれない。

 それから数日後、学校へ行くことができた。保健室の前の花壇で広橋さんは作業をしてて「待ってた」と優しい笑顔で言ってくれた。

それからオレの保健室登校がはじまったんだ。

 

 

 小林が保健室に来た。授業が終わればいつも迎えにきてくれる。

「ハル、紅茶いるか?」

「うん。いる」

 ハル、というのは小林のことだ。小林のフルネームは小林という。最初聞いた時、その女の子みたいな名前に驚いた。

 小林は広橋さんや小西先生とも顔馴染みだったので、四人で広橋さんのいれた紅茶を飲んだりしていた。どうやら小林は、一年の頃ひどいぜんそくを患っていたみたいで、その影響で保健室に来ることが多かったのだという。

 四人で紅茶を飲みながら話をしていた。話が弾んで帰る時間が遅くなってしまった。そろそろ帰ろうと言ったところで小林が切り出した。

「竹内くん、今から教室行ってみない? 今なら誰もいないから気持ちも楽だと思うんだけど……」

 その言葉にオレだけではなく、広橋さんも小西先生も驚いた。何というか、まさか小林からそんな言葉が出るなんて……。

「やっぱりこのままじゃ駄目だと思うんだ。何より竹内くんのためにならないよ」

 神谷先生が言うような言葉を小林が並べる。何か悪い夢を見ているようだった。好きな人間に嫌な言葉を言われる。何て言えばいいのかわからないけれど、とにかく変な気持ちでいっぱいになった。

 断るつもりだった。なのに、体は思うように動いてくれない。

 たぶん、何より嫌なのは小林に嫌われることなんだよな、と思った。

 気付けばオレは、首を縦に振っていた。

 オレと小林は保健室を出てすぐの階段を三階まで上った。窓から見えた空はもう暗くて、薄っすらと月が昇っていた。

 ひょっとしたら三階にあがるだけでむせたりするんじゃないかと思ったけれど、それは大丈夫だった。廊下は静かで誰もいる気配がしない。

 小林がそばにあったスイッチを入れて電気をつける。目の前に広がる廊下をオレはもう二ヶ月近く歩いていない。一番手前にある教室が四組で、奥に連れて行くに連れて三組、二組、一組と続いている。オレの二組は手前から三番目の教室だ。

「大丈夫? 行けそう?」

 小林が聞いてきた。

 気分は案外落ち着いていて、何かが込み上げてきたりはしない。

 これはいい機会なんだと自分に言い聞かせた。保健室は確かに居心地のいい場所だけれど、このままいたって広橋さんも小西先生も教室に行こうとは言わないだろう。かといって神谷先生の説得には答えないだろう。

 そうだ、教室に行くことは悪いことじゃないんだ。むしろいいことで、そうなれば、みんな喜ぶ。……そう自分に言い聞かせた。

 足に力を込めて、一歩踏み出した。教室の前までならどうにか思い通りに動いてくれる。胸だって苦しくない。それでも四組の教室の前に差し掛かるとすくんでしまう。足が鉛のように重い。一歩進むごとに胸に変なものが込み上げてくる。それが溜まりにそうになったら足を止めて深呼吸をする。でもそれも長く続かない。

 朝、登校する時のことが頭をよぎった。「死んでください」という手紙を見て、教室に向かう。廊下を歩いていると行き交う生徒は全員敵に見えた。みんなオレのことを悪く言っている気がして仕方ない。「いなくなればいい」ってみんな、言ってる。

 確かに、オレへのいじめは殴られるとか物を盗られるとかそんな大それたもんなじゃなかった。そんなことで登校拒否だなんて馬鹿げてるなんていう人もいるかもしれない。

 でも、違うんだ。

 いじめで一番辛いのは、殴られた痛みじゃなくて、物を盗られた悲しさじゃなくて――

 ――存在を認めてもらえない、怖さだ。

 

 軸足に力を込めて、もう片方の足を上げる。胸に溜まったものは喉にまで込み上げてきて、下手をすれば一気に口内から吐き出しそうだった。足を止めて、肩で息をした。胸に押し当てた手を口元に持っていった。胸が千切れそうになった。

 次の瞬間、両肩を掴まれて体が後ろに持っていかれた。ふわっとした感触が後頭部にあった。

 見上げると、広橋さんがいた。

「ひとりじゃない」

 そう言って、ふっくらと笑う。とてもやわらかい言葉だった。

「わかるだろ。オレはトモに触れてる。オレはトモがここにいることがわかるし、トモにだってオレがここにいることがわかる」

 小さく頷くと、腕を握られた。振り向くと小林がいた。小林の目は真っ直ぐオレを見ている。

「オレ、竹内くんの友達だから」

 小林の手にはオレの腕があって、オレの腕は小林に握られてるってことがわかる。小林にはオレがいることがわかるし、オレも小林がいることがわかる。それはオレがひとりじゃない証拠だ。

「トモでいいよ」

 広橋さんのようにやわらかく言えただろうか。小林はふっくら笑って「じゃあオレもハルって呼んで」と言ってくれた。

 広橋さんと小林の手を外して、歩き出した。一歩一歩を確実に進めていく、オレの二組はもうすぐそこだ。

 立ち止まって、深呼吸をする。大丈夫、まだいける。振り向いた。小林と広橋さんがいる。

 オレのことを見てくれる人が、オレにはいる。

 また一歩、踏み込んだ。

 足は二組の教室の前に入っていた。

 学校を出る時にはもう六時を過ぎていた。十一月も下旬になるとさすがに寒い。

 あの後、教室に足を踏み入れた。廊下に一歩踏み込むと、それからの足取りは自分のでも驚くぐらい軽かった。

 外はすっかり暗くなっていて、教室の窓からは月が見えた。窓際の一番前へ向かう。そこがオレの席だ。机から椅子を引いて座った。ここからだと体勢を斜めにしないと向こう側の黒板が見えない。あぁ、そういえばこんな視界だったな、と思った。ここでこうして授業を受けて、たまに窓の外から別のクラスの体育の授業をしているのを見て、休み時間は友達と馬鹿みたいなことを話して。

 神谷先生の言うとおり、本当にみんなが反省しているなら戻ってもいいかもしれない、と思った。あの反省文も実は全部本音で、何事もなかったかのように教室に戻れるかもしれない。

 都合のいい妄想だってことはわかっている。だけどそのことを信じたくて仕方なかった。

「壁、越えたね」

 交差点で信号待ちをしているときに、小林が言った。

「うん。小林と広橋さんのおかげだ」

 ふっくらと、嬉しそうに、小林は顔を綻ばせて笑う。

「小林、オレさ一回ぐらいは教室で授業を受けてみようと思うんだ。すぐには、無理だと思うんだけど」

「うん。オレも出来ることは手伝うよ」

「ありがとう」

 心を込めてそう言えた。

 気付けば横断歩道の信号は青になっていたので、足を進めた。「あのさっ!」という声が背中越しに聞こえた。立ち止まって振り返ると小林はまだ横断歩道を渡っていなくて、オレの目をじっと見ていた。なんだろうと思って、しばらく様子を見ていると、視界の隅で信号が点滅したのがわかった。

「早く来い!」

 叫んだ。

 すると小林は

「やっぱりいいや!」

 と叫んだ。

 小林がオレのところまできた。それから二人で、横断歩道を駆け抜けた。

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