僕がここにいる理由。一章。

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 起きると八時半を回っていた。いつもより一時間ほど遅い。寝起きなのに頭の中はすっきりしていた。よく眠れた、と思う。

 胸に抱えた枕をそばにおいて、起き上がった。耳を澄ますと一階で音がしているのがわかった。たぶん、洗濯機。

 パジャマのままリビングに降りた。母さんはやっぱり洗濯をしていたようで、庭で洗濯物をかけていた。オレに気付いた母さんは「ゆっくり眠れた?」と声を掛けてきた。オレは気の抜けた声で「うん」と返事をした。

 台所に置いていた朝食をリビングのテーブルに持っていった。菓子パンと目玉焼きとサラダだった。飲み物は冷蔵庫の中から牛乳を選んでコップに注いだ。

 テレビを付けると、ちょうど、ワイドショーがトップニュースを取り扱っている時間帯だった。政治家の汚職事件を取り上げていた。政治のことはどこか遠い国での戦争のように思えて仕方ない。こう思うのはまだオレが子どもだという証拠なのだろうか。

 この番組の後の芸能情報ばかりを取り扱ったワイドショーをここ何日か見ている。司会はベテランの漫才コンビで、スタジオには日替わりで旬のお笑い芸人が集まる。独特の「ゆるい空気」がなんとなく気に入ってしまった。深夜の番組も面白いと思ったけれど、朝の番組も侮れないなと思った。

 空になったコップに牛乳を注いで、一気に飲んだ。胸がすっとした。やっぱり今日は気分がいい。このままテレビを見るつもりだったけどやめた。食器を流しに置いて、寝室を掃除していたお母さんに言った。

「学校行ってくるよ」

 お母さんはいつも通りは装ったつもりだろうけど、顔が少し綻んだのがわかった。

 夏休みがあけて少しすると、クラスメートに無視されるようになった。毎朝「お願いです。死んでください」と書かれた手紙を下足箱に入れられるようになった。原因はわからない。仲がよかった友達に「何か悪いことしたなら謝るから」と聞いたけど、何も答えてくれなかった。かわりに「空気が汚れるから黙ってろ」と腹を蹴られた。腹を抱えてうずくまるオレを見て、他の男子が笑った。大声で笑うんじゃなくて、小さくクスクスと。奥にいる女子のグループは口に手を当てて、笑いを噛み殺すのに必死だった。

 そんな日が続いた。だんだん耐えることができなくなって、ついに学校へ行けなくなった。登校拒否をして、いじめが発覚した。担任の先生からはもう解決したから学校に来て欲しいという電話を何回ももらった。オレもいつまでもこのままじゃ駄目だと言い聞かせ、少しずつ歩いていった。

 休んでいる間に少し考えた。

 原因はわからないんじゃなくて、最初からなかったのかもしれない。

 家から学校までは歩いて十五分ほど行ったところにある。家の前の道を少し行くと、なだからな坂になっている県道に出る。その道を下っていけば学校が見えてくる。

 ここ何日か、肌寒い日が続いている。天気予報士は今日も一日、めっきり冷え込むでしょうと言っていた。

 横断歩道を一つ、また一つ越えていく。大丈夫、胸の中はすっきりしている。足だって重くない。

 登校拒否をするようになってから無理に学校へ行こうとすると、必ずこの辺りで胸が苦しくなって、足が進まなくなる。それでも無理に進もうとすれば、吐いてしまう。少しづつ進んで、だんだん距離を伸ばして、数週間前に学校へたどり着くことが出来た。体調のいい日は登校して保健室に行っている。

 校門を抜けて右に曲がると保健室がある。外に面している扉を開けて、カーテンの隙間から顔を覗かせた。

パソコンを触っていた養護の小西先生がオレに気付いて「おはよう」と挨拶をしてくれた。いかにも保健室の先生、というような優しいオバさんだ。部屋の隅においてあるゆったりしたソファに腰掛けている広橋さんも「おはよう、トモ」とすっきりした笑顔で挨拶をしてくれた。

 少しして、先生はオレが来たことを伝えに職員室に行った。オレはカバンから筆記用具を出して、部屋の真ん中にある五人くらいで囲えるテーブルの席に着いた。その間に、広橋さんはインスタントの熱い紅茶をいれてくれた。フレーバーは必ずミルクだ。

 ありがとうございます、と軽く会釈をすると「これもやるよ」と上着のポケットから出てきたチョコレートをいくつか受け取った。

 広橋さんはこの学校の校務員で、花壇の手入れとか、運動場の整備とか、備品の修理とか、そういうことをしている人だ。校務をする人は年配の人だというイメージがなんとなくあったけれど、広橋さんは若い。二十七歳だと言っていた。いつも黒い上下の作業着を着ていて、上着のポケットにはいつもチョコレートが入っている。そして休憩中には必ずミルクティーを飲んでいる。広橋さんいわく「完璧なコンビネーション」らしい。

 午前中は授業の空いている先生が交代でオレの勉強を見に来ていた。最近、数学についていけなくなってきた。先生は「無理に詰め込んでもしょうがないから」と少しずつ、丁寧に教えてくれるけれど、このままじゃ期末テストまでに範囲が終わらない。それに来年は三年だから、高校受験もある。そのことを考えるとこのままじゃまずいと思う自分がいる。でも、教室には行けない。そんな自分が情けないな、なんて人事のように思ってみた。

 保健室を出てすぐの階段を上って、二階の図書室へと向かった。

 階段を上ったすぐ左の部屋が図書室だ。右に行くと廊下があって、そこに教室が並んでいる。昼休みだったので廊下は生徒で溢れていた。この二階は一年生の教室が並んでいる。

 図書室に背を向けて、廊下に目を据えた。力を振り絞って一歩ずつ歩いてみるけれど、教室の前に差し掛かると動かなくなる。

 二年生の廊下と、景色が重なる。

 急に息苦しくなって、むせてしまった。あまりに咳がひどく出たから、何人かの生徒がオレの方を見たのがわかった。オレは胸を押さえながら踵を返して、全速力で図書室へ入った。

 昼休みは図書室にいることが多い。他の教室の前を通らずに行くことが出来るからだ。その上、学校でも人気のないスポットで、ほとんど人が来ない。保健室は昼休みになると、掃除とか体調を崩したとかで人が増える。保健室でベッドに入らず机に座っているところを見られると、なんとなく、あぁそうなんだという視線を感じてしまう。それが辛い。いや、そういう目でみられることが悔しいと言った方が正しいのかもしれない。

 図書室に来るようになって、本を読むのが好きになった。ここは人が来ないからという理由で選んだ場所だったわけで、特別本が好きだというわけじゃなかった。何もすることがなかったから、好きだったドラマの原作本を読んでみた。するとドラマより内容が深いことに驚いた。それが始まりだった。

 チャイムが鳴ったので、貸し出しカードに名前を書いて文庫本を借りた。こんど映画が公開される作品の原作だ。

 午後も授業が空いている先生が何人か勉強をみてくれた。そうして六時間目が始まった頃に、担任の神谷先生が来た。広橋さんとそうかわらないぐらいの若い男の先生だ。            

 先生はオレのそばに椅子を出して座る。

「大丈夫か」

「今日は調子いいです」

「ならよかった。最近、来る回数が増えたな。偉いぞ」

 そう言って、先生はオレの肩をパンと叩いて、笑う。

「どうだ、この調子で最後の終礼だけでも」

 オレは視線を少し下げて、膝にそろえた手を強く握り締めた。

 神谷先生はよくそう言うことを言う。「この調子で」とか「そのままの勢いで」とか。でも、違う。オレは坂道を歩いてるんじゃなくて、階段を上がってるんだ。それも片足で交互に上がるんじゃなくて、一度両足を揃えて、片足ずつ次の段差に足を乗せていっている。一段上がるごとに呼吸を整えて、気持ちを入れなおさないと次の段差に上がれない。

 正直、オレは神谷先生が苦手だ。先生の話を聞くと、人は常に、立ち止まらず、どこまでも強く、頑張って生きていかなければいけないという風に聞こえて仕方ない。「負けるな」「立ち上がれ」こういう類の言葉が、前にも増して、苦手になってしまった。

 弱いオレが悪いんですか?

 そもそも、弱いって駄目なことなんですか?

「クラスのみんなはもう十分反省してるから。それは竹内もわかってくれただろ? みんな竹内のことあったかく迎えてくれるよ」

 前に渡されたクラス全員の反省文のことだろうか。「ひどいことをしてすいませんでした」とか「竹内くんのいない教室はさびしいです」といった内容のことが書いてあった。どれも嘘っぽく見えてしまって、結局最後まで読まずに捨てた。

 視線をもっと下げて、膝にそろえた手を中心に写した。手を握る力をもっと強めて、爪を手のひらに食い込ませた。

 体が震えていたのだと思う。様子を見兼ねた小西先生が「あまり無理させないでください」と仲裁に入ってくれた。神谷先生はばつのわるそうな顔をして、持ってきたものをまとめた。最後に「竹内、もっと自分に自信を持て。自分のこと好きになれ」と言った。

 先生がよく言う言葉の一つだ。

 この言葉が、大嫌いだ。

 いじめられて、友達に裏切られて、登校拒否になった。「なんでそんな風になっちゃったのよ!」と母さんに本気で泣かれた。成績もよくない、何かに秀でているわけでもない。

 ねぇ、先生、教えてよ。

 こんな人間のどこを好きになったらいいんですか?

 

 六時間目が終わるチャイムが鳴ると、広橋さんが運動場から戻ってきた。手を洗って、首に巻いたタオルで汗を拭いていた。そしてまた、紅茶をいれる。六時間目が終わってもオレまだはここにいる。他の生徒の中に紛れて帰るのが嫌だったからだ。なんとなく見られているような気がして怖い。

 隅のソファに広橋さんと並んで座った。熱いマグカップを両手で抱えて、一口啜った。甘くて美味しい。

「トモ、今週は結構登校してるだろ?」

 ふいに広橋さんがそう言う。指を折って数えてみた。

「月曜日と火曜日と水曜日で、今日の金曜日」

「おっ、四日か。頑張ったじゃん」

「来るの二時間目とか三時間目とかですけどね」

「来てればいいよ」

 広橋さんは少し笑った。オレは「それにまだ、教室へ行くのは怖いです」と、小さく呟いた。

 この段差は今まで上がってきた段差とは何倍も違うような気がする。足を上げるというより、手でよじ登らなければならないと言った方がしっくりくるかもしれない。

 広橋さんはソファから立ち上がって、空になったマグカップを流しで洗う。オレも残ったミルクティーを飲み干して、マグカップを広橋さんに渡した。カバンを肩に掛けて、小西先生に挨拶をした。洗い物が終わって、手を拭いていた広橋さんにも挨拶をした。

「さよなら」

「また来いよ。待ってるから」

 手を振って答えてくれた。広橋さんは必ず「待ってるから」と言う。その言葉は好きだ。たとえ嫌な場所でも、オレのことを待ってくれる人がいるならその人のために行こうって思えるから。

 交差点を抜けるとなだからな坂に差し掛かる。行きは下ってきた坂を帰りは上らなければならない。傾斜はないけど長さはある坂だ。自転車でここを上ると真ん中を越えたあたりで足が疲れてくる。坂の上に住んでいる生徒は黙って自転車登校していたりするけれど、歩いた方が楽なのにな、と思う。

「あ、あのっ……」

 投げられた言葉が自分宛だと気付くまでに三歩ほどかかってしまった。ただでさえ学校ではほとんど保健室にいる。広橋さんや小西先生以外に声をかけられることなんて滅多にない。

 振り向いて、目を合わせた。男の子がいた。走ってきたせいか、すっかり息をきらしている。背は低くて、体は小柄。顔もまだまだ中学生の顔つきになっていない。春に買ったと思われる制服はまだ体に馴染んでないようで、ぶかぶかだった。卒業前の小学生が制服の採寸に来たような、そんな感じがした。

「これっ、忘れてたから……」

 男の子がオレに差し出したのは一冊の文庫本だった。そうだ、思い出した。昼休みに図書室で借りたものを何かの拍子に置いてきてしまった。放課後取りに行こうとしていたのを今になって思い出した。

「ありがと」

 今度は受け取った言葉を投げ返した。

 本を受け取って踵を返そうとしたところで、男の子はまた言葉を投げかけてきた。

「ニ組の竹内くん……だよね。オレ、一組の小林。……本、好きなの? 図書室、よく来るよね」

 それから小林と坂道を上っていった。生徒と話すのは本当に久しぶりで、なぜだか少し緊張していた。

 小林は隣のクラスの図書委員だった。その関係で昼休みは図書室にいるみたいで、オレのことを知っていたそうだ。名前は本を借りるときの貸し出しカードで知ったらしい。

 好きな作家の名前を聞かれたけれど、上手く答えることができなかった。特に誰の作品がいいと思って本を読んでいるわけではない。一方小林は文学少年のようで、色んな作家の名前を挙げていた。聞いたこともないような名前がほとんどだったのだけれど、話の中に一人だけ知っている名前が挙がったので、

「あ、宮部みゆきは知ってる」

 と返事をすると、小林はふっくらと顔を綻ばせて笑った。

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