雲のあと

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 まぶたがしきりに痒かった。春子(はるこ)は自然と手が伸びるのを、止められなかった。化粧を気にして我慢をしていると、なお落ち着かない。空調のきいた明るい部屋の中に、むずむずと湧き上がってくるものがある。それが、逃げるところなくまぶたに集っている。春子は手の平で、片方の目を覆った。

「もう花粉症か。」

 仕事の手を止めて、吉(よし)が尋ねた。春子は首を振った。

「あまり掻かないほうがいいんじゃないか。」

「でも痒いのよ。」

 うん、と独り言のように頷いて、吉は椅子に背をあずけた。窓の外に目を遣って、手を組んで、そのままだった。ブラインドを半分下げた窓に、強い風が当たっていた。

「まだ、寒いのになあ。」

「ええ。」

「こんな日に、外にでない仕事は幸せだね。」

 春子は今すぐ窓を開けて、冷たい空気を浴びたかった。そうして、このまぶたをさらせば、身体の隅々まで静まる気がした。

 吉はまだぼんやりと窓の外を眺めている。

 昔、どこかの土産に美しいチョコレートを貰った。黒い箱に六つ、宝石のように並んでいた。その一粒一粒の冷たさも好ましかった。あれは、吉がくれたのだった。

「お茶でもいれましょうか。」

 吉は仕事の手を休めているし、頃合いだった。春子も気分を変えなければ、仕事に身が入りそうにない。

「ありがとう。」

 自然に吉と会話ができるようになったのは、最近のことだ。それも表面上のことで、未だに春子を扱いかねている。春子自身でそう感じるのだった。

 給湯室で、急須と人数分の湯のみを用意する。急須と、白い陶器の湯のみ一つに湯を注いだ。これだけが揃いで、吉が持ってきたものである。陶器のまるみや艶を見ると、家の気風が漂ってくる。

 広い部屋の、高い天井板などがよみがえる。そこは、春子の祖父母の家でもあった。今は伯父である吉の家族が住まっている。盆正月には親族が集まるが、春子はもう何年も行っていない。

 白い器に、鮮やかな緑が映えた。春子はしばらく湯のみに頭を落としていた。向かいの部屋から話し声が聞こえた。

 戻ると、吉は姿勢を変えずにじっとまぶたを閉じていた。眠っている風ではなく、深い悩みでもあるように眉間に皺が寄っていた。

 春子が机に盆を置くと、ゆっくり目を開けた。

「考えごと?」

「いや、目が疲れてね。見えにくいんだよ。いい加減に観念して、老眼鏡かね。」

「疲れてるんじゃない。」

 吉は何度か大げさにまばたきをした。春子は机の上に広げられた書類の文字を、目で追った。

「そんなに小さい字じゃないわ。」

「春子に読んでもらったほうが、早いかもしれない。」

 心なしか、まぶたが重たく見えた。歳をとるに連れて、そうなるのかもしれない。春子が吉の顔に目を留めること自体、滅多にないことだ。

「いい色だね。」

 湯のみを覗きこんで、吉が言う。

「颯爽とした色だ。」

 春子を椅子から見上げた。下から覗き込まれているように、春子には感じられた。皺の集まった目元に、小さい瞳がある。わずかに水を湛えた淀んだ池を思わせる。

「そら豆みたい。」

 吉は不思議そうだった。そして、ふうんと言った。考えた末の、理解ある言葉に聞こえる。そういう振りをするのが、上手なのか性分なのかわからない。

「お茶、皆の分もいれてあるんだろう。」

「はい。出してきます。」

 吉は別の書類を繰り始めた。春子が部屋を出ようとするときに、一段と強い風が窓にぶつかった。合わせるように、隣室から笑い声が響いてきた。

 それでも、書類をめくる手を休めることなく、春子の存在も既にないようだった。春子は明るい静けさに満ちた部屋のドアを、そっと閉じた。幼い頃に行った祖母の家は、暗かった。

 春子が思い浮かべると、その家はいつも雪にとざされている。それほど雪が降るところではなかった。家のなかは、冷たくがらんどうで、春子は一人で部屋にいる。

 盆に五つのせた湯のみを、春子は一人一人の机に順番に置いてゆく。最後の机に仁史(ひとし)という若い所員がいる。春子より二つ年上だった。

「ありがとう。」

 他の所員と同じように、また吉と同じように礼を言う。

「ずいぶん楽しそうでしたね。」

「ああ。所長が怒ってましたか。」

「いえ、全然。」

 まわりの同僚と目配せをして、含み笑っている。吉は仕事さえ仕上げれば、細かいことは言わない。よい上司であるのは、一年足らずの春子でもわかる。

「悪口でしょう。」

「まさか。少なくとも、春子さんのじゃありません。」

 仁史の声はよく通る。先ほど聞こえた笑い声も、大半は彼だとわかる。

 春子が職場に馴染めたのは、この男に寄るところも大きかった。突然、所長の姪がきて働くと言って、役に立つことがあるわけでもなかった。邪険に扱われることもないが、吉の酔狂という意識は拭えなかった。

 吉は吉で、春子をどうしたものか図りかねていた。

 結局、簡単な事務処理が仕事に与えられた。午前九時から午後五時まで出勤し、任されたことをする。

 春子は一つ一つ丁寧にこなしたが、それでも時間を持て余した。当初、仕事場にある吉の机を使っていた。居心地が良いわけもなく、次第に掃除やお茶汲みをするようになった。

 一番喜んだのが仁史で、一番仕事を任せてくれたのも彼だった。仁史が冗談を言い、賞賛したことは助けになった。

 この日、春子は夕食に誘われた。これが始めてというのではなく、もう何度目かになった。

 そういう時、仕事の終わるのが早い春子は一度自宅に戻ってから、待ち合わせ場所に向かう。二月に入り、一層空気は冷えた。日も暮れて、容赦のない風に吹きさらされる。通りを行く人は皆、肩を竦めて歩いている。

 待ち合わせをする喫茶店は、いつも同じところだった。会社から程近い、けれど目に付きにくいところにある。春子は路地に入り、瀬戸物屋のとなりにある階段を上がった。

 仁史は大抵仕事の都合で遅れてくる。対して春子は、十分に余裕を持って来た。そこで過ごす一時間余りを、空想で潰した。だから、仁史は来たときに春子の飲んでいるコーヒーや紅茶が、二杯目であることを知らない。

 小窓から、行き交う人の姿が見えた。風がぶつかることもない。

 仁史が来るまで、厚く積もった雪の間に、どこまでも流れて行く川のことを思った。

 事務所の同僚たちは、仁史と春子の関係を好奇の目というよりは、ひやひやした気持ちで見ているようだ。吉に知れることを気にかけている。

 吉はとうに疑いを持っていると、春子は知っている。承知していながら、どうしようともしていない。吉が聞いてくることもないのだった。

 海沿いのフランス料理店に、客の姿はまばらだった。窓際に通されたが、ぽつぽつと外灯が頼りなく立っているだけで、海は寒々と暗い。

「忘れてるだけだよ。」

 祖母の家のことを話すと、彼はそう言った。同じ場所で待ち合わせて、連れて行かれるところはいつも違った。人の混まない、雰囲気の良い店に詳しかった。

 糊のきいた水色のテーブルクロスが、天気のいい真昼の海を思わせる。ナイフやフォークの銀が、照明を反射してきらめいていた。

「でも、その家に一人で行ったことなんかないのよ。」

「ただ一人にされただけかもしれない。もう隨分昔の話なんだろう。」

 仁史は気持ちよくものを食べる。パンにバターを塗る手つきもよどみがない。盛られた野菜も上手に切り崩す。話すことも食べることも、一連の流れの中にあった。白いシャツのステッチが、テーブルクロスと揃えたように青い糸だ。

「ここ、昼間に来たらもっといいんでしょうね。」

「そうだね。春なんかいいだろうね。」

「早く、暖かくなればいいのに。」

 雪どけの冷たい水を空想するのと同じに、春子は暖かい日差しの映る海を思った。

「さっきの話じゃないけど。所長のうちには、しばらく行ってないの?」

「ええ。おばあさんの葬式が最後かな……長く行かないと、足が遠のくでしょう。」

 テーブルはつかの間の空白で、グラスの氷はとけて、細かな露が覆っていた。春子はワインの飴を溶かしたような色を見ていた。まだ半分ほど残っていた。

「飲まないの?」

「ぬるくなったから。」

 仁史は片手で、空のワイングラスを端のほうへ寄せた。何か言われる前に、春子はひといきで残りを空けた。

 いぶかしげに眉をひそめた後、仁史は笑っていた。

「大丈夫?」

「うん。ねえ、デザートはいいから早く出ましょう。」

「それはいいけど……コーヒーもいいの?」

「少し、気分が悪いのよ。」

 店を出たあと、仁史は車を海岸線に沿って走らせた。春子のために窓を少し透かした。海の風は一層冷たく、車のなかに入ってくる。それでも、文句ひとつ言わなかった。

「今日はアパートに帰る?」

「どうして?」

「気分悪いんだろう。」

 遠く赤い光が点いたり消えたりを繰り返した。海も岸もわからない暗闇で、規則正しくまたたいていた。

「あの赤い光、何だと思う?」

「さあ。灯台かなにかじゃないの。」

 このまま、仁史の車はすべらかに春子の住むアパートへ向かうのだ。あの暗い、窮屈な部屋に、春子は戻りたくなかった。冷たいシーツの感触が手にあたるようだった。

「帰りたくない。」

「そう。」

「あと、この海岸線から逸れてくれない? なんだか怖いわ。」

 車が次の路地に入っても、春子は赤い光が付いてきている気がして、何度も後ろを確認した。

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