エスケープ

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 三ヶ月も追いかけていた標的だ、ドクヴィルに取られるわけにはいかない。それはドクヴィルも同じだろうが、こっちは本気度が違う。ドクヴィルは政府から給与を貰っているが、ジンは野良の賞金稼ぎであり、フリーランスだ。ここで賞金首を確保しなければ三ヶ月の労力がゼロになる。トーガに支払う金も入れれば赤字だ。

 ジンは汎用端末『リーパー』を起動し、十数台のカメラにアクセスをかける。数秒も経たずにリーパーにリアルタイムの映像が表示される。

 ジンが所有するカメラには光学迷彩が施され宙に浮いているため、容易に見つかることはない。

 数台のカメラを移動させながら順次切り替える。強奪し乗り捨てられた車が道路に横倒しになっていて、渋滞が起きていた。

「市民はおとなしく避難しろ。相手はテロリストだ」

 端末を通してドクヴィルのだみ声が聞こえる。粗いノイズが混じったような声は、強い酒を飲み過ぎているからだ。下品なやつめ。とジンは思う。

「治安隊こそ引っ込んでろよ。どっちの能力が上かを判断する頭くらいはあるんだろう?」

「お前もタルムジードの人間だったな。間違って射殺されても知らんぞ」

「あんたこそ凶悪犯に間違われるなよ。その悪人面じゃいつ殺されても文句は言えない」

 何だと貴様、とドクヴィルが激高した瞬間にジンは通話を切り、リーパーと網膜モニタを接続する。瞬間、リーパーに表示されていたカメラの映像がジンの視界にうっすらと浮かぶ。同期は完了した。これで『イメージ』するだけでリーパーの操作が可能になる。

 テロリストには高額な賞金がかけられている。軍事企業「AEM社」の社長を殺し、機密情報を盗みだしたのだ。

 これは一企業の問題にとどまらない。

 都市国家テニノアと隣国のタルムジードは戦争状態にある。数年前に停戦協定は結ばれていたのだが、タルムジードがテロリストの支援をしているという情報により協定は実質的に無効になっている。テロの逮捕はテニノアの威信がかかっているのだ。

 バイクは流れの悪い道路をすり抜ける。その間に頭の中でリーパーを操作し、敵の顔写真を網膜モニタに投影させる。

 カメラが敵の姿を捕らえ、ジンにアラートを飛ばす。

 テロ犯は二人。一人は脚に傷を負っている。向う先は街の中心部だ。

 バイクを加速させると、ジンはあっという間に追いつく。

 男と目が合った。どうにでもしやがれ、とでも言いたげな顔をして唾を吐いた。浅黒い肌に高身長という、典型的なタルムジード人の体つきだった。服装は灰色のジャケットにジーンズを履いているが、テニノアのファッションとは微妙に毛色が違う。

「抵抗は無駄だ。治安隊も来ている」

 ジンはタルムジード語で男に語りかける。男は意外そうな顔をする。

「タルムジードの人間か……? なぜ邪魔をする」

「俺はどこの人間でもない。フリーの賞金稼ぎだ」

 実際、ジンにはタルムジードの血は四分の一しか流れていない。外見もタルムジード人とはずいぶん異なる。

「ともかく、抵抗さえしなければ安全は保証する」

 嘘だった。ジンは同郷の男がどうなろうが知ったことではない。

 背後でガチャリ、と引き金を引く音がした。脚を怪我していたもう一人が追いついたのだ。

「安全を保証するなら、その銃を下ろせ。……振り向いたら撃つ」

 北部なまりの強いタルムジード語だった。ジンはわずかに懐かしさを覚えるが、次の瞬間には幾通りかの制圧パターンをシミュレーションしていた。銃など、ジンにとっては飾りのようなものだ。

「……分かった」

 男の銃を蹴り落とそうとした瞬間「動くな!」と威圧的な声がした。大勢の男達がジンを含めた三人に銃を構える。

 遠くから女の引きつるような叫びが聞こえる。人通りの多い街のど真ん中でぶっ放すつもりらしい。

 治安隊はやはり一般人とは異なる感覚を持っている。とジンは思う。

「そこの一般市民! さっさと戻れ!」

 勝ち誇ったようにドクヴィルが怒鳴りつける。ジンは舌打ちをして後ずさりをする。政府が提示した契約には犯人を確保した上で治安隊に通報せよ、とある。この瞬間に三ヶ月の苦労が泡と消えた。

 勝敗を競っているわけではないが、これでドクヴィルとの『戦績』は負け越しになる。

 二人は即座に確保され、国家権力の権化のような厳めしい車に手荒に乗せられた。近いうちに国際法の基準に従い、粛々と処分されるだろう。情報も吐かされるに違いない。

「俺が奴らを足止めしていたんだ、賞金の半分は貰う権利がある」

「規則は規則だ。文句は政府に言え」

 ドクヴィルはこの街――アグルヴを管轄する治安隊の隊長で、数十人の部下を指揮する立場にある。

 政府は治安隊に払う給与を渋っていて、賞金稼ぎを公式に認めることで費用の削減を計っている。治安隊と有象無象の賞金稼ぎは常に競争関係にあるのだ。それゆえ二者間のトラブルも絶えない。

「何が規則だ。治安隊こそ法を守れよ。無茶苦茶な捜査ばかりしやがって」

 ふん、とドクヴィルは鼻を鳴らす。

「俺が規則だ。貴様こそ分をわきまえろ」

 ドクヴィルは貴族の末裔らしいが、不遜な態度は先祖譲りのようだ。こんな貴族はギロチンにでもしてしまえばいいのだ。この男と話がかみ合った試しは一度もないし、仲良くお話をするつもりは毛ほどもない。

 きびすを返してバイクのエンジンをかける。中古で買った時点で相当年季が入っていたが、バイク屋のオヤジに言わせればエンジンはここから調子が上がってくるらしい。

「気をつけて帰れよ。ははは」

 くそったれが、とジンは悪態をつくが、この借りは仕事で返す外にない。アクセルを握る手にも思わず力がこもる。

 ――背後から爆音がした。

 ジンはリーパーとの同期を再開し、カメラに接続する。ジンの視界、つまり網膜ディスプレイの一部が煙で黒く塗りつぶされた。カメラを切り替える。

 炎上していたのはテロリストを移送した車だった。

 方向指示器も上げずに車体を転換させる。横方向の重力にタイヤは軋み、ジンの身体は左に傾く。体勢を立て直し、現場へと向かう。

 他のテロリストが口封じをした。ジンはそう直感した。

 リーパーが処理落ちするギリギリの数のカメラに接続する。ジンの視界は今は半透明の映像にふさがれている。

 数百メートル離れたビルの上に人影をみつけた。重火器のようなものを屋上に放置したまま、下に降りていった。

 ジンはカメラを飛ばして位置を把握する。しかし、爆発のせいで再び渋滞が発生し、思うように進めない。ジンはバイクを路肩に停め、走ることにする。

 ビルに到着するとジンは裏口へ向った。カメラが敵の姿を捕らえていたのだ。

 敵の背中が見えた。ジンが加速すると、靴音に相手が振り返る。上下とも黒っぽい服を着ていて、背はそれほど高くない。

 ジンはショートカットを試みる。排気ダクトに手足を引っかけ、ビルとビルの隙間を利用しながら器用に、効率良く、一気に迫る。

 敵の背中が近づく。この距離でなお発砲しないということは、銃は持っていないか、跳弾を恐れているかのどちらかだ。

「逃がすか!」

 渾身の力を込めて相手の腰にタックルをする。鈍い衝撃がジンの肩に伝わる。敵はバランスを崩し、路面にばったりと倒れる。

 相手の動きを封じるために、腕を胸元に回す。

 むにゅう。と、えらく柔らかい感触が手のひらに伝わった。そしてひっ、と甲高い声。嫌な予感がした。思い返せば肩への衝撃も、それほどでもなかった。むしろ柔らかかった。

「動くなよ」

 と言いつつジンは銃を出し、馬乗りになったまま敵を転がして仰向けにさせる。

 的中した。女だった。

 そして、自分の危険な状況を認識する。まず女を押し倒している。場所は人気のないビルの陰で、手には銃を持ち、極めつけは女にマウントポジションを取っている。

 黄色い叫び声一発で形勢は逆転してしまう。ビルの左右の窓から石を投げられ、通報されても文句は言えない。

 精神を落ち着けるように、細く息を吐く。

 リーパーを起動し、政府から送られてきたデータを照会する。テロリストのメンバーは十数名いて、半分以上がまだ捕まっていない。

 半透明のインターフェースをジンは高速で操作すした。

「なんだ、やはりテロリストだったか」

 きっ、と鋭い視線でにらまれる。

 全身黒というストイックな格好と相まって後ろ姿は男だった。だがひっくり返して見れば紛れもない女だった。

 ジンは女の賞金額を確認した。

「……あんたが主犯か。なかなかの賞金がかけられてる」

「お前みたいなガキに、『あんた』呼ばわりされたくないね」

 ジンの身体が宙に浮いた。正確には女があり得ない体勢からジンを投げたのだ。慌ててジンは銃を引き抜く。

 固い路面に背中を打ちつけると、目の前に銃口が迫っていた。ジンの銃口もまた女を向いている。

 女は冷たい目をし、ジンは引き金に力を込める。状況は完全に均衡してしまった。

 数秒の沈黙があって、女が口を開く。

「お前は政府の人間じゃない。――何者だ」

「ただの賞金稼ぎだ。撃てば次の瞬間には俺の身体は引き金を引くし、治安隊に位置情報も含めて通報する。俺の口座には賞金が振り込まれるだろうけど、何年かしたら口座もろとも国に没収される。……もっともそうならないことを祈っているが」

 ジンはバックグラウンドでリーパーを操作し、その準備をしていた。そして銃口は女の心臓を狙っている。

 だが相手はテロリストだ。仲間も殺すし、死ぬのも何とも思っちゃいないはずだ。駆け引きとしてはジンは圧倒的に不利だ。ジンから引き金を引いたとしても結果は変わらない。

 どちらも死ぬ。

「――私にはいくらの賞金がかけられている?」

「三億ギールだ」

 女は仮面のような表情をそのままに提案をする。

「私の逃亡を手伝わないか? 倍の六億ギールで」

 身体をもたげ、女の瞳を覗き込む。――綺麗だ。こんな時にも関わらずそんなことを考える。間抜けだと自分でも思う。

 ジンはその瞳を信じてみることにした。

「俺は銃口を下ろそうと思うのだがどうだろう? 銃口を向けた方が落ち着く、というのであれば考えても良いが」

 女は銃口を下ろし、引き金から指を離す。ジンの全身の逆立っていた毛が、一気に元に戻った。生きてることを確かめるようにため息をついてから、女に言う。

「交渉に入るか」

 当時タルムジードは内戦状態にあり、テニノアからの軍事介入は激しさを増していた。男は死に、女は犯され、ジンはどうすることもできなかった。幼すぎて何も分からなかったのだ。そして訳の分からぬまま人権団体の手引きでタルムジードを脱出した時、親はすでに死んでいた。

 人権団体の斡旋で、はじめは怪しげな宗教施設に押し込まれた。そこでは数多くの孤児がいたが、誰もが暗い顔をしていた。ジンは定刻に行われる儀式のようなものが嫌いで、出される食事も酷くまずかった。

 施設が政府の命令によって解体された後、ジンはある男に引き取られる。大陸を渡り海を越え、遙か東の国の男がジンを引き取ったのだ。

 男は治安の悪い街のど真ん中で、タダ同然で格闘技の道場を運営していた。慈善事業のようなものだった。

 ジンはそこで何年か生活をして、格闘技とテニノアという国のルールを覚え、国籍を取得した。男はもういないが、ジンは未だにこの猥雑を極めた街に住んでいる。愛着などではなく、犯罪者の情報を得るのに適しているからだ。

 教育を受けていなければ金を稼ぐ才能もない人間にとって、賞金稼ぎは最後の救いなのだ。

 ジンはカメラを飛ばし、治安隊の動向を探る。敵は爆発現場に集中していた。ジンはなるべく人に会わないように、女の顔を見られないようにと道を選ぶ。

 バイクを地下駐車場に停め、二昔前のエレベーターのボタンを押す。ジンの部屋は二階の、非常階段の隣の部屋だ。いざという時は窓から飛び出すか、非常階段を使うことが出来る。逃げ道は多い方がいい。

 鍵を開け、女を部屋に入れ、ソファーに座るよう促す。ジンはグラスに飲み物を注いで女の前に置く。

「六億ギール、本当に払ってくれるんだろうな」

 タルムジードは未だに内戦が継続していて、政治経済のあらゆる面で不安定な状態にある。この女の所属する組織の資金力は不明だ。

「AEMの社長を殺した時に機密情報を盗んだ。タルムジードの軍人が手に入れたがっていた情報だし、他国に売りつけてもいい」

 テニノアにはいくつかの軍事企業があるが、AEM社はそれらを吸収合併し巨大な複合組織として再編成した。つまりテニノアの軍事力とAEMの生産力はほぼイコールで結ばれるのだ。

 女の言葉が正しいのなら、世界のパワーバランスが崩れる可能性さえもある。そしてその話は信じるに足る根拠があった。

 ジンの知る情報では、殺害された社長の部屋からの最後のログには企業の機密情報がダウンロードされていたし、賞金はAEM社からも出されている。だからこその三億ギールだ。

「……なるほど。じゃあ金はテニノアを出る直前に俺の端末に振り込んでくれ。それで良いか?」

 女は首肯する。鋭かった表情が柔らかくなったのがジンにも分かる。かりそめとは言え信頼できる誰かがいるのは心強い。

「で、あんたらはどうやって逃亡するつもり――そうだ、まだ名前を聞いていなかったな。俺はジン」

「私は」

 自分の名前を思い出しているのか、偽名を考えているのか、少し間があった。

「ソラ」

 だがジンにとって名前など大した問題ではない。

「素敵な名前だ。『あんた』よりずっと親しみやすいし、かわいらしい感じがする。ところで俺ってそんなにガキっぽく見える?」

 ソラは虚を突かれて初めて動揺らしき感情をあらわす。なんだ、やっぱり普通の人間だ。とジンは安心する。

「あ、あれは勢いよ」

 実際、ソラはジンとほとんど同じくらいの年に見える。どっちがガキかと問われたら、大人はどっちもガキだ、と答えるだろう。

「もしも私が逃げたらどうする?」

 ソラは話の矛先を変え、契約の穴を突く。ジンはもらった、と思う。相手はあくまでフェアな交渉をしようとしているのだ。

「政府に通報するまでだ」

「でも国を出たら捕まえられない」

 それが、出来るのだ。

 ジンは部屋にあるコンピュータのスイッチを入れアプリを起動する。世界地図からこの街、アグルヴを表示させる。

「これは何?」

「ここに赤い点が光っているだろう」

 と、ジンは冷蔵庫を指さす。扉を開け、奥にしまってある薬品ケースを取り出す。

「カプセルの中には位置情報を発信するナノマシンが入ってある。医療用のナノマシンを改良したんだ。エネルギー源は人間と同じ糖分で、半永久的に作動する。解除するには特定のナノマシンを摂取しなくちゃならない」

 つまり、仮にソラがジンから逃げたとしてもテニノアで活動をするのは不可能になる。ジンが即座に位置を把握してしまうからだ。

「じゃあ仮に飲んだとして、解除される証拠はあるのか?」

 ジンは猜疑と恐れを取り除くため、ジンは極めて軽い調子で言う。

「そうだな。テニノアの人間は医療用のナノマシンを体内に保有している。そのナノマシンの解除キーになる別のナノマシンを俺は持っている。だから俺がこれを飲み込んだ瞬間に、このカプセルは失活する」

 ジンはソラが持っていたカプセルの一つを手に取り、飲み込んだ。

「解除するためのカプセルも用意しているから、それを直前に渡せばいいだろう」

 ソラは意を決して二、三粒手に取り、口の中に放り込んだ。マップの上の赤い点は変わらず表示されている。

 ナノマシンは毛細血管から全身に散らばる。数パーセントは体外に排出されるがほとんどは体内に残る。

「トイレはどこ?」

 今すぐに吐いたとしても、カプセルはもう溶けているだろうし、ナノマシンは体内に展開している。

 そして、ジンは既に飲み物の中にナノマシンを入れていた。

「すぐそこ」

 ソラがトイレに入ると同時に、ごーん、と間抜けな音がなった。そしてドアをどんどん、と叩く音がする。間の悪いことにトーガがやって来た。

 トーガはホームレスで、常にアグルヴの情報をかき集めている。ジンが追いかけていたテロリストもトーガからの情報だった。ジンは舌打ちしてドアをあける。

「へっへっへ、どうも」

 トーガは金、とか支払い、という言葉を一切使わない。その代わり、ただ卑屈に笑って金を請求するのだ。

 情報は契約をした時点でその人間にしか売れなくなる。それだったら契約はしないで、他の人間にも情報を流した方が金は多く入る。治安隊に先回りされたのは、ドクヴィルがより高い金をトーガに出したからだ。

「ああ……すまない、今は金がないんだ」

「そうですか。我々の商売はそういうものですから、仕方がないですからねえ」

 ジンは財布に入っている紙幣をトーガに渡した。いつもの支払いよりも少し足りなかった。

「時に旦那、中に誰かいますかね」

「いや、俺一人だ」

 トーガの前歯はスカスカだが、性格は抜け目がない。それとなく探りを入れているのだ。ジンは細心の注意を払う。

「そうですか。何、さっき旦那が女を連れて部屋に入る所を見た気がしたんだが、俺の見間違いだったのかな」

「トーガも知ってるだろうが、今日はテロリストを捕まえ損ねてそれっきりだ。女なんか連れ込む暇はないよ」

 あっはっは、と笑ってトーガは紙幣をポケットにねじ込んだ。

「若いんだからどんどんヤッちまえばいいんですよ。大いなる神から授かった偉大なるキンタマがもったいねえ」

 下品な奴め、とジンは思う。ドクヴィルもトーガも、この街の男は頭のネジが一つ二つ飛んでいる。

 もしもコトに至ったら股間を撃ち抜かれるだろう。そして奥にいるソラにこの会話を聞かれていると思うと別の意味で気が気でない。

 ジンの背後でドアが開く音がした。ソラがトイレから出てきたのだ。最悪のタイミングだった。

 トーガは一瞬、目を丸くして驚いた表情をする。

「あっ、あれは姉だ。だから『女』じゃないだろ? な? タルムジードから亡命したんだ、つい一昨日に」

 ジンは口をもごもごさせるトーガを外に押しやった。

「後で多めに払うから、な?」

「……まあダンナがそう言うなら……仕方ねえか」

「今日はもうドクヴィルのところには行ったのか?」

「いいえ、ドクヴィルとは最近会ってねえですねえ」

 トーガは影のある笑みを残して去っていった。嫌な予感しかしなかった。

 部屋に戻るとソラはソファーに座っていて、自前の端末でどこかと通信をしていた。

「誰?」

 ソラは手を止めてジンを見つめる。

「ホームレスだよ。奴はこのあたりの情報に詳しいんだ」

 ジンは焦る。場合によってはトーガの口を封じなくてはならない。

「で、ソラはどうやってこの国へ入った?」

「観光客として」

「ずいぶんと安直だ。捕まらない自信は?」

 ソラはズボンのポケットからパスポートを取り出す。ジンは我が目を疑った。次にパスポートの写真とソラの言葉を疑った。写真の女は良く言えば素朴、有り体に言えば極めて地味な顔をしていて、ソラとはどう見ても別人だ。

「どっちが本物だと思う?」

 ソラは露骨に舌っ足らずに喋り、なまめかしく瞳を潤ませる。こうやって何人の男を騙してきたのだろう。そうと分かりながら、ジンの胸は鳴る。

「け、化粧美人!?」

「逆! こっちがすっぴん!」

「グレードダウンするメイクがどこにあるんだよ」

「ここに」

 ソラはずい、と胸を寄せ、顔を寄せる。肌はつるんとして色白、かつ弾力性がある。頬は何もつけていないはずなのにうっすらチークを塗ったように赤い。唇は吸いつきたくなるほどのぷるぷるで、反則だとジンは思う。

「し、信じられない……。じゃあ何で今は化粧してないんだよ」

「色々あったんだから仕方ないでしょ」

 とソラはどこにしまっていたのか、化粧道具を取りだした。ジンには本当にどこから出てきたのか分からなかった。

「ほら、この美人がどんどん地味になっていくでしょ」

 ソラは比較のために顔の半分を台無しにしていく。見る間にパスポートの女に変わって行くのは、見事と言うほかになかった。

「……俺が悪かった。とにかく、契約はそれで良いか?」

 ソラは契約の内容とジンの反応に満足したようだった。

 出国ルートはこれから決めるとして、金の受け渡しは国を出る直前に電子決済をすることにした。ソラは端末からジンの口座に報酬を振り込み、ジンはナノマシンを無効化するカプセルをソラに渡すのだ。

 テロリスト相手には無意味だろう、ともジンは思ったが、契約書も発行した。

 不意にジンの端末――リーパーが音を鳴らす。ジンの予感は的中した。

「ドクヴィルだ」

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